3.継母が残した奉公先
クロエが私について何かを頼んだ弁護士?
私は警戒しながら、叔母様とともに応接室へ向かった。
ソファには五十代くらいの男性が座っていた。
焦げ茶色の髪をきっちり撫でつけ、濃紺の上着を着ている。
その隣には、同じくらいの年頃の女性。
こちらは柔らかな茶色の髪を後ろでまとめ、落ち着いた色のドレスを身につけていた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。私はアルバート・グレイと申します。王都で弁護士をしております」
「妻のヘレンです」
夫人が軽く頭を下げる。
私も反射的に礼を返した。
「エラ・シモンズです」
「存じております」
アルバート様はそう言ってから、少し言葉を選ぶように続けた。
「私は、クロエ夫人が以前働いていた――会員制の倶楽部の顧問をしておりまして……」
アルバート様が少し言いづらそうにしたので、私はため息をついた。
「……高級娼館ですね」
会員制の倶楽部。物は言いようだ。
アルバート様は苦笑してから話を続けた。
「半年ほど前、クロエ夫人から相談を受けました」
「半年も前に?」
「はい」
胸の奥がざわつく。
――半年ほど前といえば、お父様が急に私を褒めるようになった頃だ。
「どんな相談ですか?」
「もしもあなたが、シモンズ家を離れなければならないことになった場合、働き口を用意してほしいと」
「……働き口?」
「ええ。……使用人にちょうどよい娘がいる、と」
思わず、眉を寄せた。
「クロエは、私を使用人にするつもりだったんですか?」
ヘレン夫人が困ったようにアルバート様を見る。
そうだったのだ。
クロエはずっと、私を令嬢として扱っていなかった。
掃除をさせ、洗濯をさせ、料理をさせた。
裁縫を覚えさせた。
市場へ買い物にも行かせた。
……最後には、本当に使用人として働けと言い残していたのだ。
死んだお父様の借金を知り、叔母様にも引き取ってもらえず、ただでさえ惨めな気持ちになっていたところへ、さらに冷たい水を浴びせられたようだった。
「……最後まで、私のことを使用人扱いするのね」
小さく呟く。
「エラ」
叔母様が眉をひそめた。
「すみません」
私は唇を噛んだ。
アルバート様は、私を責めることなく静かに言った。
「クロエ夫人が、あなたをどう考えていたのかは、私にはわかりません」
「……」
「ただ、少なくとも、あなたが困ったときに行き場をなくさないようにしたいとはおっしゃっていました」
「行き場を……?」
「ええ」
アルバート様は懐から一通の封書を取り出した。
「これはクロエ夫人から預かったものです」
思わず身を固くした。
「私宛てですか?」
「いいえ。私ども宛てです」
少し拍子抜けする。
「読んでも?」
「もちろんです」
差し出された紙を受け取った。
見覚えのある、細く流れるような文字。
クロエの字だ。
『エラ・シモンズ嬢が住まいや仕事を必要とすることになった場合、そちらで雇っていただけませんか。
掃除、洗濯、衣類の補修、簡単な料理、買い物などは一通りできます。
読み書き、算術にも問題ありません。
口は生意気ですが、根は真面目です。
最初は不慣れなこともあるでしょうが、働かせれば役に立つはずです』
「……何よ、これ」
思わず声が出た。
口は生意気。働かせれば役に立つ……ですって?
本人に渡す手紙ではないにしても、もう少し言い方があるでしょう。
私は紙を握りしめた。
「本当に、最後まで……」
ヘレン夫人は穏やかに私を見つめた。
「……手紙の後ろもお読みになって。あなたが、どんな仕事ができるか。どこまで読み書きができるか。何が苦手か。あなたがうちで働くことになったときに困らないよう、かなり細かく書いてあるわ」
「……そんなことまで」
「寝起きは悪くないけれど、寒さには少し弱い。甘いものが好きなので、紅茶に砂糖を入れさせてやると機嫌がよくなる――」
「なっ……」
顔が熱くなった。
「そんなことまで書いてあるんですか!」
「ええ」
ヘレン夫人は少し笑って、それ以上は何も言わなかった。
私は続きを読まずに手紙を返した。
――私宛ではないのだから、クロエが私について書いていたことなんて読みたくなかった。胸の奥がむずむずして、落ち着かない。
クロエが私を知っていた。
そんなことは当たり前のはずなのに、妙に腹が立った。
◇◇◇
「お話というのは、つまり――」
エリザ叔母様が確認する。
「エラをそちらのお宅で雇ってくださる、ということですか?」
「はい」
アルバート様が頷いた。
「妻が家のことを見ていますが、ちょうど若い使用人を一人増やそうと考えていたところです」
ヘレン夫人も頷く。
「最初は見習いとしてになります。住み込みで、お給金もお支払いします」
「住み込み……」
自分の声が小さくなる。
「部屋もあります。ただし、当然ながらお嬢様としてお迎えするわけではありません」
ヘレン夫人ははっきり言った。
「使用人としてです」
わかっていたことなのに、胸が痛んだ。
昨日まで私は伯爵令嬢だった。
今だって、シモンズ伯爵家の娘であることに変わりはない。
それなのに、人の家で掃除をして、食事を運んで、給金をもらう。
社交界にも出られないまま。
結婚相手を探すどころか、今度は本当に使用人になる。
私は膝の上で手を握った。
「嫌なら、断ってもいいのよ」
叔母様が言った。
私は顔を上げた。
「では、断ったら、私はどこへ行けばいいんですか?」
「それは……」
叔母様が詰まる。
わかっている。
意地悪で言ったわけではない。
でも、他に行く場所なんてない。
この屋敷は売られる。
叔母様は私を引き取れない。
父の財産も残らない。
マーサにだって生活がある。
私はまだ十五歳だ。
――でも、だからといって、誰かが私を養ってくれるわけではない。
ふと、クロエの声が頭をよぎった。
『自分でできることは、自分でやりなさい』
『誰かがやってくれると思わないことね』
また。
こんなときに浮かんでくるのは、死んだお父様でもなく、クロエの言葉だ。
私はその声を振り払うように首を横に振った。
「……お給金は、どれくらいいただけますか?」
アルバート様とヘレン夫人が少し驚いた顔をした。
私自身も、口にしてから驚いた。
そんなことを聞くなんて、なんだか本当に使用人みたいだ。
――でも。
市場で何度も言われた。
『値段も聞かずに買う馬鹿がどこにいるの』
――クロエに。
「見習い期間は、このくらいです」
ヘレン夫人が金額を教えてくれた。
私は頭の中で計算した。
住み込みなら、食費も家賃もほとんどかからない。
それなら少しずつ貯金もできる。
『条件があるなら、聞かないのは馬鹿のすることよ。後から騙されたってわかっても、悪いのはあんたよ』
また、クロエの言葉が頭に浮かぶ。
これは、市場へ買い物に行かされたときに言われた言葉だ。
当時の私は、どの店で何を買えばいいのかわからず、最初に入った店の商人から「全部うちで手配して揃えてあげますよ」と言われ、そのまま頷いてしまった。
けれど、その商人は「手配料」と称して、商品の倍近い金額を請求しようとしていた。
「お休みはいただけますか?」
「週に一日。ほかにも用事があれば相談してください」
「仕事は、掃除と洗濯ですか?」
「最初はそうですね。慣れてきたら、買い物や衣類の管理もお願いすると思います」
――私、全部できる。
できてしまう。
それが悔しかった。
「……わかりました」
自分の膝を見つめたまま答えた。
「お世話になります」
「エラ」
叔母様が驚いたように私を見る。
私は顔を上げた。
「私、働きます」
口にすると、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
でも同時に、ほんの少しだけ息がしやすくなった。
これからどうなるかわからない、という恐怖が、少しだけ形を持ったからかもしれない。
明日からは、働けばいい。
働けば、食べていける。
やることがわかっているなら――。
私はできる。
◇◇◇
翌朝。
私は生まれてから十五年暮らした屋敷を出ることになった。
持っていける荷物は、大きな鞄ひとつと、小さな衣装箱。
日記。
数着の服。
お母様の作ってくれたうさぎのぬいぐるみ。
それから、ほんの少しの私物。
伯爵令嬢が家を出る荷物としては、驚くほど少ない。
玄関前にグレイ家の馬車が停まっている。
マーサが、私の外套の襟を整えてくれた。
……マーサは、実家に戻り、それから別の貴族の屋敷へ勤めにいくことが決まっている。
「お嬢様……」
「泣かないで、マーサ」
「ですが」
「私なら大丈夫よ」
そう言ってから、少しだけ笑った。
「掃除も洗濯もできるし、じゃがいもの皮も剥けるもの」
マーサは泣きながら笑った。
「ええ。何でもお上手です」
最後に屋敷を振り返った。
灰色の空の下。
古いシモンズ伯爵家の屋敷は、いつもと同じようにそこに立っていた。
でも、もう私の家ではなくなる。
お母様との思い出も。
お父様との思い出も。
クロエに移された屋根裏も。
灰まみれで掃除させられた暖炉も。
――全部ここに置いていく。
「行きましょう、エラさん」
ヘレン夫人が馬車の中から声をかけた。
「はい」
私は乗り込んだ。
馬車が動き出す。
窓の向こうで屋敷がだんだん小さくなっていく。
私は膝の上の鞄を強く握った。
――クロエ。
これで満足?
あなたが七年間かけて使用人みたいに育てた私が、本当に使用人になった。
最後まで、あなたの思い通りになったみたいで腹が立つ。
だから。絶対に困ったりなんてしない。
……あなたは、お父様を殺して、逃げて、どこで何をやっているの?
私は遠のいていく見慣れた景色を睨んだ。




