2.伯爵家の終わり
お父様が死んで三日が経った。
お父様の遺体は、検死のために警察が運んでいってしまった。
お父様の妹――叔母様が屋敷へやってきてくださり、警察の対応や、いろいろなことをやってくれている。
……クロエは、まだ見つかっていない。
お父様の死因は毒だったそうだ。
割れたグラスに残っていたワインから、毒物が検出されたらしい。
……その日の夜、屋敷にいたのは、お父様とクロエとマーサ、それから私だけだった。
お父様が寝所に行った時間には、マーサは使用人部屋ですでに寝ていた。
お父様と寝室にいたはずのクロエだけが、いなくなっている。
――だったら、犯人なんて決まっている。
私はそう思っていた。
新聞にも、もう事件のことが載っているらしい。
マーサが見せてくれないので、私はまだ読んでいない。
だけど、買い物に出たマーサが帰ってきたとき、近所の人たちが屋敷を見ながらひそひそ話しているのが窓から見えた。
『元高級娼婦の後妻が、伯爵を毒殺して逃亡』
きっと、そんなふうに書かれているのだろう。
――それより、困ったのは別のことだった。
「エラ。こちらに来なさい。話があります」
エリザ叔母様に呼ばれて、私は応接室に行った。そこには屋敷の財産を確認しに来た司法官と弁護士がいた。
「……これは……何ですか」
テーブルに積まれた書類を見つめて、呆然とした。
「お父様の残された、未払いの請求です」
弁護士が分厚い帳簿を開いた。
そこには、私にはよくわからない数字がびっしり並んでいる。
でも、数字の読み方くらいならわかる。
クロエに何年も帳簿を読まされてきたから。
私は身を乗り出した。
「……これ、全部ですか?」
「残念ながら」
家屋の修繕費。仕立屋への未払い。酒屋。宝石商。
賭場。貸金業者。
……知らない店や人の名前もたくさんある。
合計額を見て、息が止まりそうになった。
「こんなに……?」
エリザ叔母様が頭を抱えて、呟いた。
「……伯爵家の土地や屋敷を売却すれば、どうにかなるかもしれません」
私は思わず周囲を見回した。
子どもの頃から暮らしてきた屋敷。
彫刻の入った暖炉。壁に飾られた歴代当主の肖像画。
この家は、ずっとここにあるものだと思っていた。
「――でも、この屋敷は伯爵家のものです」
口に出てから、自分でも幼いことを言っている気がした。
司法官は少し困ったような顔をした。
「シモンズ伯爵家の爵位がなくなるわけではありません。ただ……」
言いにくそうに言葉を切る。
「爵位が、借金を返してくれるわけではありません」
「……」
「今はもう、昔とは違いますから」
私は唇を結んだ。
もちろん、知っている。
王様はいる。公爵も侯爵も伯爵もいる。
けれど昔の物語のように、貴族だからというだけで国からお金がもらえるわけではない。
父も昔は役所に勤めていたと聞いたことがある。
でも、ずいぶん前に辞めてしまった。
『平民と同じように働けというのか』
お酒に酔った父が、そんなことを言っていたのを思い出す。
『俺はシモンズ伯爵だぞ』
そのときクロエが、冷めた声で言った。
『伯爵様でも、食べればお金は減るでしょう』
『うるさいな』
『働かなければ、もっと減るわ』
私はその会話を聞いて、クロエはお父様に失礼だと思っていた。
でも。
目の前に並んだ借用書を見ていると、胸の奥がざわついた。
「お父様は……、知っていたんですか? これは、クロエが勝手に使ったお金では……」
弁護士は首を振った。
「間違いなく、署名はシモンズ伯爵殿の筆跡です」
つまり――お父様は、知っていた。
「どうして、こんな……」
すると、部屋の隅に控えていたマーサが、小さく息を吐いた。
「旦那様は、よくおっしゃっていました」
「何を?」
マーサは少し躊躇ってから、
「……『俺の代で終わるなら、それでいい』と」
私はマーサを見た。
「どういう意味?」
「私にはご真意はわかりかねます……」
マーサは首を振った。
「ただ、旦那様は、家を残すことにはあまりご興味がないようでした」
そんな。
私は、一人娘だ。
この家がなくなったら、私はどうなるの?
お父様は、考えなかったのだろうか。
でも、死んでしまった父には、もう聞くことができない。
◇◇◇
「かわいそうに。こんなことになるなんて」
エリザ叔母様が私を抱きしめた。
叔母様は隣の州に領地を持つ侯爵家へ嫁いでいて、私は子どもの頃に何度か会ったことがあるきりだったけれど、お父様が死んで、すぐに来てくれた。
「叔母様……」
その瞬間、張り詰めていたものが少し緩んだ。
よかった――そう思った。
私には、まだ身内がいる。
……叔母様の家へ行けばいい。
侯爵家なら大きなお屋敷もあるし、従姉妹たちもいる。
私はこれからどうなるのだろうと、ずっと不安だった。
でも、叔母様が来てくれた。
「私……」
言いかけたところで、叔母様は私から身体を離した。
その顔には、さっきまでとは違う、言いにくそうな表情が浮かんでいた。
「エラ。少し、お話ししましょう」
「はい」
私は叔母様の向かいに座った。
叔母様はなかなか話し始めなかった。
手袋をした指を、膝の上で何度も組み直している。
「……お兄様の財産のことだけれど」
「はい」
「借金は、この屋敷と領地を売って返済します」
叔母様は目を伏せた。
「それでなんとか、足りるか足りないかというところなの。……だから、あなたが相続できる財産は、ほとんどないわ」
「……はい」
胸がざわついた。
どうして叔母様は、そんな話をするのだろう。
「叔母様のお家に行けば、ご迷惑はかけません。私、何でもします」
思わず、縋るように言った。
「クロエに家事をさせられていたから、掃除も洗濯もできます。お裁縫も――」
「エラ」
叔母様が遮った。
その優しい言い方に、嫌な予感がした。
「――ごめんなさい」
叔母様の謝罪に、私は瞬きをした。
「……何がですか?」
「あなたを、うちで引き取ることはできないの」
言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
「どうして?」
「私の夫は……お兄様とは折り合いがよくなかったの。昔から、考え方が古すぎると言っていて」
私は叔母様を見つめ、訴えるように言った。
「……私は、叔母様の姪です」
「ええ。わかっているわ」
「なら……」
叔母様は苦しそうに目を伏せた。
「お兄様の事件は、もう新聞にも出ているのよ」
心臓がきゅっと縮んだ。
「クロエが、お父様を殺したからですか?」
「それだけではないわ」
「それだけではない?」
叔母様は、はっとしたように口を閉じた。
「……いいえ。何でもないの」
「何ですか?」
「今は、まだ警察が調べているところでしょう」
叔母様は無理に笑った。
「とにかく、あなたまでうちへ来れば、うちの娘たちの縁談にも影響するかもしれないの」
私は何も言えなかった。
叔母様には、私より少し年上の娘が二人いる。
社交界にも出ている。
「エラ、ごめんなさい」
「……」
「あなたのことが嫌いなわけじゃないのよ」
それはわかる。
でも。
嫌いではないのに、引き取ってはくれない。
「少しなら、お金を援助できるわ」
「いりません」
反射的に言っていた。
叔母様が目を見開く。
「エラ」
「大丈夫です」
本当は、全然大丈夫ではない。
これから住む場所さえない。
それでも、哀れまれてお金を渡されるのが嫌だった。
私は立ち上がった。
「お茶をお持ちします」
「あなたが?」
「うちには、マーサしかいませんから」
そう言って部屋を出た。
廊下に出た瞬間、涙がこぼれそうになった。
私は強く目を閉じた。
泣かない。
クロエに何度も言われた。
『そのくらいで泣かないの』
今思い出すと腹が立つ。こんなときまで、あの女の声が頭に浮かぶなんて。
◇◇◇
厨房でお湯を沸かしている間に、マーサが来た。
「私がお持ちしますよ」
「いいわ。私がやるから」
「ですが……」
「それくらいできるもの」
少し強い言い方になってしまった。
マーサは何も言わず、茶器を並べるのだけ手伝ってくれた。
お湯を注ぎながら、私は聞いた。
「マーサ」
「はい」
「私、これからどうなるの?」
マーサの手が止まった。
「……」
「この屋敷を出なくちゃいけないんでしょう?」
「おそらくは」
「親戚も引き取ってくれない」
口にすると、急に現実味が増した。
私はまだ十五歳だ。伯爵令嬢として生きてきた。
働いたことなんてない。
――家事なら、していたけれど。
「……何か仕事を探すしかないのかな」
自分で言って、喉が詰まりそうになった。
私にできる仕事などあるのだろうか。
マーサは私をじっと見た。
「お嬢様」
「何?」
「そのことなのですが……」
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
マーサが顔を上げる。
「どなたでしょう」
「また警察じゃない?」
「いえ、今日は来る予定は……」
マーサが玄関へ向かった。
私は茶器を載せた盆を持って、応接室へ戻った。
叔母様はいなかった。
「あれ?」
すぐ隣の書斎から、物音がした。
「叔母様?」
返事はない。
盆をテーブルに置き、書斎の扉を開けた。
叔母様は、お父様の机の前に立っていた。
「……叔母様?」
びくりと肩が揺れた。
「ああ、エラ」
「何をしているんですか?」
「少し、兄のことを思い出していただけよ」
叔母様は笑った。
その手には、何も持っていなかった。
ただ、暖炉には新しい火が入っていた。
「寒かったから、火をつけたの」
「……そうですか」
私はこれからどうするかばかり考えていたので、特に気にしなかった。
叔母様は私の肩に手を置いた。
「本当に、ごめんなさいね」
私は首を振った。
これからは自分でどうにかしていくしかない。
「……いいえ。ありがとうございます」
「あなたの奉公先を、私の方でも探してみるわ」
「……はい」
私は、ぱちぱちと燃える暖炉を見た。
灰の中で、紙の端のようなものが赤くなり、やがて黒く崩れた。
でも、そのときの私は、叔母様が燃やしたそれが何なのかを、考えもしなかった。
玄関からマーサの声がした。
「お嬢様、お客様です」
「誰?」
「王都で弁護士をされている、グレイ様という方です」
「弁護士?」
私は首を傾げた。お父様の財産整理に来た弁護士とは違う人だろうか。
背筋に冷たいものが走る。
……まだ借金か、何か問題があるの?
マーサは少し困ったような、それでいて不思議そうな顔をしていた。
「それが……」
一度言葉を切ってから、私を見る。
「クロエ奥様から、お嬢様のことで頼まれていたそうです」




