1. 父の死と、日記
お父様が死んだ。
第一発見者は、使用人のマーサだった。
我が家には、使用人はマーサしかいない。
私は、朝、マーサの悲鳴で目が覚めた。
「お嬢様! 旦那様が……!」
屋根裏部屋にある私の部屋に飛び込んできたマーサは真っ青な顔をしていた。
慌てる彼女についていき、二階の奥にあるお父様の寝室に入った。
……お父様は、ベッドの上に倒れ、血を吐いたまま動かなくなっていた。
ベッド脇のテーブルには、ワインの瓶。
床には割れたグラスとワインの染み。
――七年前。お母様が死んだときと、同じ。
私は寝室を見回し、マーサに聞いた。
「クロエは?」
マーサは首を振る。
「奥様は、いらっしゃいませんでした。屋敷中、捜したのですが……」
私はぎりりと唇を噛んだ。
クロエ――それは、私の継母の名前だ。
七年前、お母様が死んですぐ、お父様はクロエを家に連れてきた。
長い黒髪の、美人だけど、魔女みたいな女。
「――お嬢様、私は警察を呼んできます。お嬢様は、屋根裏にいてください」
マーサは震える私の背をさすると、私を屋根裏に続く階段へと連れていった。
私は屋根裏に入ると、鍵をかけて、毛布を被った。
震える手で机の脇の本棚に入った日記を取り出した。
薄い革張りの、小さな日記帳だ。
表紙の角は擦れて白くなり、留め具も少し歪んでいる。
これは、お母様が生きていた頃、買ってくれたものだ。
『毎日でなくてもいいのよ。嬉しかったことや、悲しかったことを、少しずつ書いてみなさい』
お母様はそう言って、私に新しい羽根ペンもくれた。
あの頃の私は、字を書くのが好きだった。
だから、最初の方の頁には、どうでもいいことまでたくさん書いてある。
庭で蝶を見つけたこと。
お母様と焼き菓子を作ったこと。
新しいドレスの袖に、小さな真珠がついていたこと。
お父様が馬に乗せてくださったこと。
けれど途中から、文字はどんどん乱れていく。
私は最初の頁から、ゆっくりと日記をめくった。
◇◇◇
『八歳、春。
お母様が血を吐いて、倒れた。長くはもたないと、お医者様も言っていた。
昨日は私のお誕生日を祝ってくれたのに、どうして?
お祝いに誰かが贈ってくれたワインを、お母様はおいしそうに飲んでいたのに』
『八歳、春。
お母様が死んだ。みんな泣いている。
お父様もずっと部屋から出てこない。
私はまだ、お母様が死んだという意味がよくわからない。
明日になったら、お母様が朝食の席に座っているような気がする』
そこまで読んで、私は一度日記を閉じた。
七年経っても、思い出せる。
お母様の髪は栗色だった。
クロエのような派手な美人ではなかったけれど、笑うと目尻が少し下がる、優しい人だった。髪を梳かしてもらうのが好きだった。
『エラの髪は綺麗な金色ね。お父様に似たのね』
お母様はそう言って、毎朝丁寧に髪を結ってくれた。
私は、自分の金髪が好きだった。
お母様が好きだと言ってくれたから。
けれど、そのお母様が死んで半年もしないうちに、あの女は現れた。
『八歳、夏。
今日、知らない女の人が家に来た。
クロエという名前らしい。
髪が真っ黒で、すごく綺麗な人。
お父様があんなふうに笑っているのを久しぶりに見た。
――でも、私は好きになれない。お母様が死んだばかりなのに』
『八歳、秋。
お父様がクロエと結婚した。
クロエは今日からこの家の奥様になるらしい。
使用人たちは、クロエ奥様と呼んでいる。
私は呼びたくない。
お父様に「新しいお母様だよ」と言われた。
でも、私のお母様は一人しかいない』
私は小さく息を吐いて、次の頁をめくった。
クロエは、美しい女性だ。
艶のある黒髪。
灰色の瞳。
姿勢がよく、どんな服を着ても目を引いた。
けれど貴族の娘ではない。
もとは高級娼館にいた女なのだと、使用人たちが陰で噂していた。当時の私は、その意味を完全には理解していなかった。ただ、それが「良くない女」を指すのだということだけはわかった。
――クロエは、屋敷に来るなり、家の中を変え始めた。
『九歳、冬。
ミリーが辞めさせられた。
私が小さい頃から世話をしてくれていた侍女なのに。
クロエが言った。
「あなた、自分で着替えくらいできるでしょう?」
できるけど、そういう問題じゃない。
ミリーは泣いていた。
私も泣いた。
クロエはため息をついただけだった』
『九歳、冬。
また使用人が減った。クロエは私に、屋敷内の掃除を使用人の代わりにやれと言った。
お父様は何も言わない。
クロエが全部決めている。
この家を自分のものにするつもりなのだと思う』
『九歳、冬。
家庭教師の先生が来なくなった。
お父様が、お金がかかるからもう必要ないと言った。
私は悲しかった。先生の授業は好きだったから。
でも、もっと最悪なことになった。
クロエが勉強を見ると言い出した』
ここから先は、愚痴ばかりだ。
私は思わず眉をひそめながら読み進めた。
『今日、三頁も詩文の書き写しをさせられた。
しかも三回。明日の朝までに全部覚えろと言われた。
今までの先生はきちんと意味を説明しながら教えてくださったのに。
クロエは、説明している時間はないと言った。
家事をする時間がなくなるでしょうって』
『暗唱を一行間違えたら、掃除の場所を増やされた。』
『新聞を読まされた。意味がわからない言葉がいっぱいある。
三行でまとめろと言われた。
できなかったらもう一度読めと言われた。
どうして令嬢が新聞をまとめなくちゃいけないの?』
『市場へ行かされた。同じ小麦粉なのに店によって値段が違うから、三軒見てこいと言われた。
恥ずかしかった。私は伯爵令嬢なのに』
読みながら、私は複雑な気持ちになった。
実際、あの頃は毎日のようにクロエを恨んでいた。
家庭教師の先生は、優しかった。
間違えても丁寧に教えてくれた。
――クロエは違った。
『ここ、昨日も間違えたでしょう』
『明日までに覚えて』
『わからないなら自分で調べなさい』
褒めてもくれない。できて当然という顔をする。
私は使用人が減った分の家事をしなければならず、勉強できるのは夜だけだった。
それなのに、クロエは夜中までかかるような課題を平然と出した。
クロエは私に家事を押し付けた。
『十歳、春。
今日は洗濯と暖炉掃除をさせられた。髪は灰で白くなるし、手が真っ赤になった。
痛くて泣いていたら、クロエは「そのくらいで泣かないの」と言った。
ひどい』
『十歳、夏。
マーサに縫い物を教わった。針を指に刺した。
痛かった。クロエは「血がついたら洗ってからやり直しなさい」と言った。
心配もしない』
『十歳、秋。
台所でじゃがいもの皮をむいた。
料理人もクロエが辞めさせてしまったので、料理はマーサが作ってくれている。
指を切ったけれど、クロエは「あんたがやらなきゃ、誰が皮を剥くの」と言った』
そして、その年の冬。
日記の文字が乱れていた。
『今日、クロエに髪を切られた。
信じられない。
肩より短くされた。
お母様が毎日梳いてくれた髪なのに。
お父様も綺麗だと言ってくれた髪なのに。
泣いたら、「髪なんてまた伸びるわ」と言われた。
絶対に許さない』
無意識に、私は自分の髪に触れた。
今は肩より少し下まで伸びている。
あのとき切られた髪は、長い間、元には戻らなかった。
クロエはその後も、私を人前へ出さなかった。
『十一歳、春。
お父様の知り合いの家でパーティーがある。
私も行きたいと言ったけど、クロエに駄目だと言われた。
「あなたみたいな子どもにはまだ必要ないわ」だって。
同い年の子はもうダンスを習っている。
私だけ何も知らない。
きっと私が綺麗なドレスを着るのが嫌なんだと思う』
『十一歳、夏。
ダンスの先生を呼んでほしいと頼んだ。
クロエは「必要ない」と言った。
音楽の先生も駄目。
その代わり帳簿の付け方を覚えろと言われた』
そして、屋根裏部屋。
『十一歳、秋。
今日から屋根裏で寝ろと言われた。
おとぎ話の悪い継母みたいだ。
クロエは私を使用人にするつもりなのだと思う。
でも、お母様の本とぬいぐるみは全部運ばれていた。
うさぎのぬいぐるみの耳が直っていた。
マーサが縫ってくれたのかな』
『十二歳、冬。
お母様の宝石箱をクロエが持っていった。
私が「返して」と言ったら、
「これ、気に入ったわ」
と言った。
信じられない。
お母様のものなのに。
お父様に言ったら、「クロエは困った女だな」と言って、お菓子をくれた。
お父様だけが私の味方だ』
私は、その頁をしばらく見つめた。
父は優しかった。
少なくとも、私はそう思っていた。
クロエに叱られたあと。
洗濯で手を荒らしたあと。
長い書き取りを終えたあと。
たまに廊下で出会うと、父は笑った。
「かわいそうにな」
そう言って頭を撫でてくれた。
「クロエは意地悪だな」
そして菓子をくれる。
それだけで、子どもの私は救われた気がした。
でも父が、クロエを止めてくれたことは一度もなかった。
あの頃は、不思議に思わなかった。
十四歳になった頃、父の態度が変わった。
『十四歳、春。
今日、お父様が私をじっと見て、
「ずいぶん美人になったな」と言ってくれた。
すごく嬉しかった。
クロエは横で怖い顔をしていた。
……やっぱり私に嫉妬しているんだと思う』
『十四歳、夏。
お父様が新しい髪飾りを買ってくれた。
金色の髪に似合うと言ってくれた。
クロエに見つかって取り上げられた。
「普段はつけなくていいでしょう」
だって。ひどい』
『十四歳、秋。
お父様が、今度こそパーティーに連れていってやると言ってくれた。
嬉しくて仕方ない。
でもクロエが反対した。
「まだ駄目よ」って。どうして?
私はもう十四歳なのに。
お父様は笑って、「相変わらず厳しいな」と言った。結局、行けなかった』
そのあたりから、クロエは前よりも口うるさくなった。
外へ一人で出るな。
父の客の前へ出るな。
呼ばれても勝手に客間へ行くな。
夜は屋根裏の鍵を必ずかけろ。
私はますます反発した。
父は私を綺麗だと言ってくれるのに。
クロエは私を隠そうとする。
父に綺麗だと言われた私に嫉妬しているのだと、そう思っていた。
――そして、十五歳、春。
私は机に向かった。
インク壺の蓋を開け、震える手で羽根ペンを握った。
『お父様が死んだ。クロエはいなくなった』
そこで一度、ペン先が止まった。
七年間のことを思い出す。
切られた髪。
奪われた宝石。
屋根裏部屋。
灰まみれになった手。
私は、その下にもう一行書き足した。
『やっぱり、クロエは悪い女だった。』
――階下が騒がしくなった。
マーサが呼んだ警察が来たのだろう。
目を閉じる。お母様が死んだときのような悲しみはなかった。
ただ、これから私はどうしたらいいのだろうかという漠然とした不安で息ができなくなった。




