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【完結】私の髪を切った継母が、父を殺して消えました~“灰かぶりの少女”と“鼠”の新聞記者は、悪しき継母の過去を追う~  作者: 夏灯みかん
【第五章】明らかになる過去

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29.私は、あの人の娘だから

「エラ……!」


 私の姿を見て目を見開いていたヘレン奥様は、そう呟くと、つかつかと私の方へと向かってきた。


「――屋根裏から、縄梯子で抜け出すなんて!」


 奥様の声が響いた。

 私が何か言うより先に、奥様の手が飛んできた。

 ぱんっ、と乾いた音がした。


「……っ」


 頬が熱くなる。

 ――けれど、次の瞬間には、その腕で強く抱きしめられていた。


「怪我でもしたら、どうするの!」


「……申し訳ありません」


「申し訳ありませんじゃないわよ!」


 奥様の声が震えていた。

 怒っている――でも、それ以上に、心配してくれていたのだとわかった。

 奥様は私の肩を掴んだ。

 頭から足まで確かめるように見る。


「怪我は?」


「ありません」


 そこでようやく、奥様は大きく息を吐いた。


「まったく……」


 私は少しだけ視線を逸らした。

 奥様に何といっていいかわからず、呟いた。


「……屋根裏掃除は、完璧でしたでしょう?」


 奥様は固まった。


「あなたねえ……」


 それから額を押さえてため息をつく。


「……そういうところだけ、本当に口が達者なんだから」


 奥様は少しだけ口元を緩めた。


「……確かに、掃除は完璧だったわ」


「ありがとうございます」


「――それとこれとは話が別よ!」


 アルバート様が、深く息を吐いた。


「二人とも、そのくらいにしなさい」


 そして、私を見る。


「エラ」


 ――低く、硬い声だった。


「……公爵の夜会へ行ったのか」


 私は頷いた。アルバート様は頭を抱えて、アスターを見た。


「アスター君も?」


「俺が手伝いました」


 アスターが答える。

 アルバート様はしばらく私たちを見比べていた。

 ――やがて、低い声で聞いた。


「中で何があったのか、教えてほしい」


 私は胸に抱えていた包みを見る。


「……見ていただきたいものがあります」


 新聞社の前で話すことではない。

 私たちは建物の中へ入り、使っていない小さな会議室を借りた。

 机の上に、まず、お父様の手紙を置く。


「これは?」


「お父様が、ヴァレンティン公爵へ送った書簡です」


 アルバート様が手に取る。読み進めるうちに、表情が険しくなった。


「……これは」


「お父様が、私を公爵へ渡すと約束したものです」


 ヘレン奥様が息を呑んだ。


「借金の肩代わりと、お父様自身の地位と引き換えに私を渡すと。間違いなくお父様の筆跡です」


「――何ということだ」


 アルバート様が低く呟いた。

 

「――それから」


 私は台帳を机の上へ置く。


「こちらも、公爵邸から持ち出しました」


「何だ、これは?」


「公爵が関わった少女たちの記録です」


 アルバート様が頁を開く。


 一枚。もう一枚。


 写真。名前。年齢。出身。公爵邸に来た日付。去った日付と行き先。

 ――そして、公爵の短評。

 アルバート様の顔から、少しずつ血の気が引いていく。


「……これを、どこで?」


「公爵の私室に、隠し部屋がありました」


 私は端的に答えた。


「壁いっぱいに、少女たちの絵が飾ってあったんです」


「……」


「みんな番号が振られていて、この台帳と同じ番号でした」


 そして最後に、私は包みの中から、小さな肖像画を取り出した。


「――クロエの絵もありました」


 アルバート様の目が見開かれた。

 私は、その反応を見逃さなかった。


「アルバート様」


 絵を机の上へ置く。


「このことを、ご存じでしたか?」


「……」


 答えはない。


「クロエが、公爵のところにいたことをアルバート様はご存じだった」


 沈黙。私は絵を見る。

 十五歳のクロエ。今の私と同じ年だった少女。


「アルバート様は、《銀月の大広間(サロン)》で働いていたクロエをご存じだったのでしょう?」


「……ああ」


「十五歳のときのクロエも?」


「知っていた」


 小さな声で答えたアルバート様を、私は見つめた。


「公爵とのことも?」


 アルバート様は、すぐには答えなかった。

 ――やがて。


「……ある程度は」


 胸の奥が重くなる。

 やっぱり、この人も知っていた。

 私はアルバート様を見つめた。


「私は、アスターと、このことを記事にします」


 アルバート様が顔を上げた。


「エラ……」


 言葉を遮って、話を続ける。


「お父様が、私を売ろうとしていたことも」


 手紙へ触れる。


「クロエが、ヴァレンティン公爵と関わりがあったことも」


 次に、クロエの肖像画を見る。


「そして、クロエが私を公爵へ渡さないために、社交界から遠ざけていたことも」


「……」


「――きっと、大きな騒ぎになります」


 私はヘレン奥様に頭を下げた。


「グレイ家にも、ご迷惑をかけるかもしれません。――もし、それが困るのでしたら」


 一度、息を吸う。


「私は、解雇されても構いません」


「何を言っているの」


 ヘレン奥様がすぐに言った。


 でも、アルバート様は、何も言わなかった。

 しばらく手紙と台帳を見つめていた。

 ――やがて、私を見つめた。


「……記事にするということが、どういうことかわかっているか?」


「はい」


「いや」


 アルバート様は首を振った。


「まだ、わかっていない」


 台帳を指す。


「ここに書かれているのは、公爵だけではない」


 私は黙った。


「少女たちの行き先を見ただろう?」


「……はい」


「公爵から、別の貴族へ渡された者もいる」


「はい」


「ヴァレンティン公爵一人を敵に回す話では済まない」


 アルバート様の声が低くなる。


「この記事が出れば、他にも困る人間が大勢出る」


 それは、わかっている。

 叔母様が手紙を燃やしたのも。

 ――同じ理由だった。

 自分の娘たちにまで、噂が及ぶかもしれないから。


「――それでも、記事にしなければ」


 クロエの絵を持ち上げる。


「クロエは、ずっと“悪しき継母”のままです」


 アルバート様の目が、十五歳のクロエへ向いた。


「みんな、クロエのことを……お母様の宝石を自分の物にして。使用人を追い出して。私の髪を切って、屋根裏へ追いやって。暖炉掃除をさせてこき使って、最後には、お父様を殺して逃げた女だと思っている」


 少し前まで、私自身がそう思っていた。


「本当は違った」


 声が震えた。


「……全部が優しさだったとは、今でも思いません」


 髪を切られたとき、私は本当に傷ついたし、怖かった。

 ずっと屋根裏部屋で悔しくて、寂しかった。


「クロエは私に、ちゃんと説明してくれなかった。ひどいことも言いました」


 それでも――私は絵を胸に抱いた。


「けれど私が今、生きていけるのは、あの人が教えてくれたからです」


 掃除。洗濯。裁縫。帳簿。新聞の読み方。

 人の言葉を疑うこと。

 生きていくために必要なことを、クロエは教えてくれた。


「私は、クロエが本当にしたことだけで裁かれてほしい」


 お父様を殺したのなら、それは裁かれるべきだ。


「でも、していないことで悪人にされるのは嫌です」


 部屋が静かになった。


 私は、アルバート様を見つめた。


 クロエはどうしてこの人に、私を託したのだろう。


 金持ちだから? 弁護士だから?


 それだけではない。


 縁もゆかりもない伯爵家の娘を、突然使用人として引き取ってくれと頼まれたのだ。

 普通なら、簡単に承諾しないだろう。


 ――きっと、この人はクロエに対して何か、後ろめたいものがあったから、クロエからの願いを聞いたのではないだろうか。

 

 でも私は、それを責めたいわけではなかった。


 クロエはこの人なら私を任せられると思って、頼んだのだろう。

 だったら、私もこの人を信じてみたい。

 

「アルバート様」


 私の呼びかけに、アルバート様は顔を上げた。


「私は、記事でクロエに呼びかけるつもりです――出てきてほしいと」


 私は言った。


「逃げ続けないで。ちゃんと出頭してほしいと」


 ヘレン奥様が息を呑んだ。


「エラ……」


「もし、クロエが出頭してくれたら。アルバート様が、弁護についてくれませんか?」


 アルバート様は額に手を当てた。


「……君は……本当に、とんでもないことを頼むな」


「お願いします」


 私の目を見つめて、アルバート様は頭を抱えた。


「そもそも、クロエが出頭すると思うか? あれから、もうかなり経っている」


 アルバート様は呟いた。


「……生きている保証すらない」


 胸が締めつけられた。


「追い詰められて、自ら命を絶っている可能性だって――」


「それはないと思います」


 私は即座に首を振った。

 アルバート様が顔を上げる。


「どうしてそう言い切れる」


「死のうとはするかもしれません」


「でも――」


 私は少し苦笑した。


「クロエは、きっと死のうとしても、死ねないわ」


「……」


「生きることに、ものすごくしつこい人だから」


「どうしてわかる?」


 アルバート様が尋ねた。

 私は絵を抱きしめて、答えた。


「私は、あの人の娘ですから」


 アルバート様とヘレン奥様は私を見つめた。

 ――長い沈黙のあと、アルバート様が、クロエの肖像画を見つめた。


「クロエがヴァレンティン公爵の客になると聞いたとき、私は何も疑わなかった」


 アルバート様は、十五歳のクロエの肖像画を見つめた。


「《銀月の大広間》で高級娼婦を目指していた娘が、王族にも近い公爵に見初められる。あの頃の私は、それをむしろ幸運なことだと思っていたくらいだ」


「……幸運」


「ああ。いい客をつかめば、暮らしが変わる。贈り物をもらい、住まいを与えられ、うまくいけば長く庇護してもらえる。そういう世界だった」


 アルバート様は苦く笑った。


「十五歳だったことも、今ほど特別には考えなかった。この国では、その年頃で結婚する娘だって珍しくない。ましてクロエは、そういう仕事をするために育てられていた」


 私は何も言わず、続きを待った。


「公爵の館から戻ってきたあと、クロエが身籠っていることがわかっても……私は驚きはしたが、それを何か特別なことだとは考えなかった」


「――身籠っていた? 公爵の子ですか?」


 私は目を見開いた。

 アルバート様は首を振った。


「わからない。クロエが相手をしたのは公爵だけとは限らない」


 私は絵を抱く力を強めた。

 ――そういうところに、クロエはいたのだ。


「私はただ、必要な書類を作った」


 アルバート様は机の上で手を組んだ。


「出産のために病院へ入れるようにして、生まれた子どもを孤児院へ送る手続きをした。路上で保護された子どもとして」


「どうして……」


「そうするのが一番いいと思ったからだ」


 少し間を置いて。


「――いや。正確には、それ以外のことを考えようとしなかった」


 アルバート様の声が低くなる。


「クロエがどう思っているのか。あの子がこれからどう生きたいのか。そんなことまで、私は聞かなかった」


 十五歳のクロエが、こちらを睨みつけるような灰色の瞳で額縁の中から見つめていた。


「当時の私は、それがあの世界では普通のことだと思っていた」


 アルバート様は言った。


「公爵のような男が若い娘を囲うことも。飽きれば別の男へ紹介することも。その間に子どもができれば、表に出さないよう処理することも」


「……」


「仕事だからと、書類を書いた。揉め事が起きれば片づけた。それで、自分は誰かを傷つけているわけではないと思っていた」


 そこで、アルバート様は一度言葉を切った。


「だが」


 私が持ち帰った台帳を見る。


「今夜、君が持ち帰ったこれを見ればわかる」


 写真に振られた番号。

 品物のように書き添えられた名前や年齢、公爵の感想。


「私は、あの仕組みの外にいたつもりだっただけだ」


 静かな声だった。


「実際には、その仕組みが滞りなく動くように、書類を整えていた」


 私はアルバート様を見つめた。


 責めたいとは思わなかった。

 クロエも、この人を憎んではいなかった。

 だからこそ――私を任せたのだ。


「クロエは、その出産で死にかけた」


 アルバート様が続ける。


「そのあと、子どもを産めない身体になったと聞いた。『家族なんて持つ気はないから、ちょうどいいわ』と。本人は、そんなことを言っていたよ」


 アルバート様は少し笑った。


「だから、君のことを書いた手紙をもらったときは、本当に驚いた」


「私の?」


「ああ」


「掃除はできる。裁縫もできる。計算もできる。寒がりだから冬は気をつけてほしい。甘いものが好きだが、与えすぎると夕食を残す――」


「……そんなことまで書いてあったんですか」


「あったよ」


 少しだけ、アルバート様の表情が和らいだ。


「まるで、娘を預ける親の手紙だった」


 胸の奥が熱くなる。


「クロエが、もう家族なんていらないと言っていたことを、私は覚えていた」


 アルバート様は私を見る。


「だから、嬉しかったんだ」


「……」


「あの子が、誰かを家族だと思えるようになったことが」


 そして、少しだけ目を伏せた。


「君を引き取ってほしいと頼まれたとき、断れなかった」


 一度、息を吐く。


「いや――断りたくなかった」


 私は黙って、アルバート様を見つめた。


「昔の私は、クロエに起きたことを“そういうものだ”で済ませた」


 アルバート様は言った。


「だから今度くらいは、あの子が大事にしているものを、ちゃんと守りたかったんだ」


 ヘレン奥様が、アルバート様の肩へそっと手を置いた。


「……引き受けよう」


 アルバート様が言った。


 私は顔を上げる。


「クロエが出頭するなら、私が弁護につこう」


 胸の奥が熱くなった。


「本当ですか?」


「ああ」


「でも、公爵や他の貴族が――」


「今さらだ」


 アルバート様は苦笑した。


「昔は“そういうものだ”で済ませたんだ。今度まで同じ言葉で逃げるわけにはいかない」


 私は立ち上がった。


「ありがとうございます」


 深く頭を下げる。


「……出頭したら、だ」


 ヘレン奥様が私の肩を叩いた。


「さっきあなたが言っていた、解雇の件だけれど」


 私は少し身構えた。


「……はい」


「……解雇しないわ。あなたがいないと、屋敷の仕事が大変なの」


 奥様は私を見つめた。


「せっかく仕事を覚えたのに、そう簡単に手放せるものですか」


 そう言ってから、「ただし」と奥様は眉を吊り上げた。


「二度と屋根裏から縄梯子で逃げないこと」


「はい!」


 思わず大きな声で返事をすると、アスターが吹き出した。


「笑わないで」


 睨むと、アスターは口を押さえて「悪い」と詫びた。


 私は、胸に抱いたクロエの絵を見た。


 クロエ、あなたが私をグレイ家に託してくれたから、私には帰る場所ができた。

 私は小さな肖像画を、胸へ引き寄せた。

 そして滲んだ目元を、手の甲で拭った。


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