28.秘密の部屋(アスター視点)
俺はエラのいる中庭から、市民たちと一緒に屋敷の中に流れ込んだ。
屋敷の中は一気に騒がしくなる。
衛兵たちは、突然入って来た市民を外へ戻そうと右往左往している。
「公爵様のお許しだって!」
「お姫様探しだろ?」
「褒美が出るんだぞ!」
口々に好き勝手なことを言う連中を、一人ずつ止められるはずもない。
俺はその隙を抜けて、大広間へ向かった。
そこも、すでに妙な盛り上がりになっていた。
「金髪の娘だそうだ!」
「靴を片方落としたとか」
「まるで、おとぎ話じゃないか」
酒の入った来賓客たちが面白がって笑っている。
どうやらヴァレンティン公爵自身が、エラを探すため、
『屋敷の中を探してくれ』
と大広間の客たちへも呼びかけたらしい。
――自分で言ったんだからな。
それなら、遠慮なく探してもらおう。
俺は大広間の中を見回した。
奥に、公爵がいる。
――顔は笑っているが、目はまったく笑っていない。
眠っていたとは思えないほど身なりは整え直していたものの、明らかに苛立っていた。
「おおい!」
俺は声を張った。
「さっき金髪の娘が、あっちへ走っていったぞ!」
何人もの顔が、一斉にこっちを向いた。
「本当か?」
「どっちだ?」
その中には、新聞社の同僚の顔も見えた。
――今日、もしかしたら公爵についての大きなネタがとれるかもしれない。
そう事前に伝えておいたからか、アドリブでもしっかり対応してくれる同僚たちは頼もしい限りだ。
「こっちだ!」
俺は廊下の奥を指差した。
「長い金髪だった! あっちへ逃げた!」
「お姫様探しだ!」
誰かが笑いながら叫ぶ。
「行こう!」
酒の勢いもあって、数人がすぐについてきた。
若い貴族の男。年配の紳士。夫人が二人。
面白そうだからと使用人までついてくる。
――新聞社の仲間も、少し遅れて列に混じった。
俺は歩きながら背後を見る。
ヴァレンティン公爵が、こちらへ来ていた。
――よし。
俺は速度を少し上げた。
「こっちだ!」
「おい、待て!」
「逃げられるぞ!」
みんな楽しそうだ。
宴の余興とでも思っているのだろう。
まだ――何も知らないから。
廊下を曲がり、階段を上る。
さっきエラが入った応接室の近くまで来た。
そのとき――
「そこはいい!」
背後から公爵の声が飛んだ。
俺は振り返った。
「え?」
わざと間の抜けた顔をする。
「でも、さっきここに逃げ込んだらしいですよ」
「そこにはいない!」
「どうしてわかるんです?」
新聞社の仲間が、すかさず口を挟んだ。
いいぞ。
「開けてみればわかるでしょう!」
若い貴族が笑った。
「公爵様も屋敷の中を探せとおっしゃったはずです」
公爵の顔が変わった。
「開けるな」
さっきまでの愛想のいい声ではなかった。
けれど、もう遅い。
「ここか?」
誰かが応接室の扉を開けた。
「おい、本当に入っていいのか?」
「娘がいるかもしれないんだろ?」
次々と人が中へ入っていく。
俺も続いた。ヴァレンティン公爵が後ろから何か叫んでいるが、酒が入り、余興気分で盛り上がっている客たちには聞こえない。
――そもそも、公爵という肩書きだけで誰もが黙って従う時代ではなくなっている。
そのことに公爵は気づいていない。
応接室は、さっきまで使われていた跡が残っていた。
机の上には酒のグラス。ソファはクッションが乱れている。
そして――奥。
小さな扉が開いている。
「なんだ、あれ」
誰かが言った。
「まだ部屋があるぞ」
「そっちじゃない!」
公爵の激しい声に、逆に、全員がそちらを見た。
「怪しいですね」
新聞社の仲間が笑った。
「お姫様は、あっちにいるんじゃないだろうか」
俺は奥の扉へ向かった。
「待て!」
ヴァレンティン公爵が叫ぶ――けれど、もう、誰も止まらなかった。
◇◇◇
扉の向こうへ入った瞬間、先頭にいた男が、足を止めた。
「……」
その後ろにいた人間も止まる。
「どうした?」
「進めよ」
後ろから押され、俺も中へ入り、息を呑んだ。
壁一面に無防備な姿の少女たちの肖像画があった。
一枚、二枚ではない。――何十枚も。
部屋の奥まで、びっしりと並んでいる。
手のひらほどの大きさの小さな油絵だ。
金髪の少女が多かったが、茶色や黒い髪の少女もいる。
――どの少女も若い。社交界に出たばかりの年齢に見えた。
酒に酔って騒いでいた男が、口を開いた。
「……何だ、これは」
酔いが冷めた声だった。誰も答えなかった。
後から入ってきた婦人が、息を呑む。
「まあ……」
さらに人が入ってくる。
貴族に夫人。使用人。護衛。新聞記者。
部屋に入った者は、皆その異様な空間に黙り込んだ。
「これは……」
ようやく部屋へ入ってきた公爵が絵を隠すように両手を広げた。
「私が集めた肖像画だ」
誰も何も言わない。
「昔から、美しい人物画を集めるのが趣味でね」
公爵は笑おうとしている。
けれど、笑顔は引きつっていた。
「芸術品だ。何もおかしなものではない」
そのとき――一人の婦人が、壁の絵へ近づいた。
「……この子」
指を差す。
「知っているわ」
公爵の顔が固まった。
「何?」
「昔、この屋敷にいたでしょう」
婦人は絵を見つめたまま言う。
「十年くらい前……保護している娘だと、公爵様が紹介してくださったと思うわ」
夫人は思い出すように呟いた。
「……そのあと、しばらくして見なくなった……」
別の男が声を上げた。
「待て」
別の肖像画へ近づく。
「俺も、この娘を見たことがある」
「どこで?」
「公爵の別邸だ。何年も前だが……」
ざわめきが広がっていく。
「あの子も……」
「そういえば」
「公爵様が面倒を見ているって……」
人々の記憶が、少しずつ。
絵とつながっていく。
俺は黙って、その光景を見ていた。
ここにいる全員がこの部屋を『見た』んだ。
もう、全部をなかったことにはできない。
明日の記事の見出しを考えた。
『公爵邸にあった“少女たちの部屋”の正体』
「番号まで振ってあるぞ」
誰かが言った。部屋の空気が、さらに冷えた。
「美術品なら、こういう管理もするだろう!」
公爵の声が大きくなる。
「勝手に私の私室へ入り込んで、何を――」
「公爵様」
新聞社の仲間が声を上げた。
「この少女たちは、誰なんです?」
「言っただろう。ただの肖像画だ!」
「何のための?」
「芸術だ!」
「彼女たちの名前は?」
「……」
「なぜ番号が?」
「黙れ!」
公爵の怒鳴り声が響いた。顔が沸騰したように赤い。
その瞬間――部屋にいた全員が黙った。
みんなが公爵を見ている。
さっきまで、花火で六十五歳を祝われていた男を。
まるで――初めて見る人間のような目で。
「出ていけ!」
公爵が叫んだ。
「全員、ここから出ていけ!」
廊下から、衛兵たちが走ってくる。
「旦那様!」
「こいつらを外へ出せ!」
「しかし――」
「早くしろ!」
衛兵たちが、俺たちを部屋から追い出し始めた。
「押すなよ」
「わかった、わかった」
「何なんだ、あの部屋」
「本当に趣味なのか?」
誰ももう笑っていなかった。
酒も、お姫様探しも。全部、どこかへ飛んでいた。
公爵は廊下まで出てくると、大声を張り上げた。
「夜会は終わりだ!」
周囲がざわついた。
「本日の宴は終了する! 全員、帰れ!」
それでも……一度見たものは、もう見なかったことにはできない。
『少女たちの部屋』の話は、王都を駆け巡るだろう。
俺はそう思いながら、他の客と一緒に屋敷の外へ押し出された。
◇◇◇
中庭へ出ると、人混みが衛兵たちに外に追い立てられていた。
俺も外に出る彼らの列に加わる。
すると帽子を深くかぶった小柄な少年が、俺に近づき、袖を引っ張った。
「アスター」
エラだ。俺はすぐに近づいた。
「大丈夫か?」
「私は平気よ。……そっちは?」
「みんな見たよ、あの部屋を」
エラが息を吐いた。
「そう」
「あの部屋を、もう誰もなかったことにはできない」
エラは胸に抱えた包みを見る。
中には――絵の少女たちを記した台帳と、クロエ夫人の絵。
それから、ジャック・シモンズの手紙。
「行こう」
俺は言った。
「どこへ?」
「新聞社へ」
「今から?」
「今だからだ」
俺は笑った。
「朝刊に間に合わせる」
エラの目が大きくなる。
「今から書けるの?」
「だから新聞記者なんだよ」
俺たちは、そのまま人混みを抜けた。
◇◇◇
歩きで新聞社に向かう。
王都新報の建物が見えたところで――俺は足を止めた。
「……あれ」
新聞社の前に、一台の馬車が停まっている。
立派だが、貴族のものほど派手ではない。
見覚えのある馬車だった。
「グレイ家だ」
「え?」
エラが顔を上げた――その瞬間。
馬車の扉が勢いよく開いた。
「エラ!」
女性の張りつめた声がして、ヘレン・グレイ夫人が飛び出してきた。
その後ろから、アルバート・グレイ氏も降りてきた。
二人は少年の服を着たエラを見つめて、硬直した。




