26.十五歳のクロエ
扉を押し開ける。
最初に見えたのは、一枚の少女の肖像画だった。
私は硬直した。
手のひらほどの小さな油絵。
一人の少女がこちらを見つめている。
白いレースの可愛らしい衣装をまとった少女だった。けれど、その姿は普通の肖像画よりはるかに無防備で、私は思わず目を逸らした。
――これは、誰かに見せるための肖像ではない。
その横にも、もう一枚。さらにその横にも。
私はゆっくりと部屋の奥を見た。
「……何、これ」
壁には、小さな肖像画が隙間なく並んでいた。
奥まで、何十枚も。
描かれているのは、少女たち。金髪が多い。
中には数枚、黒髪や茶髪の少女もいる。
「公爵は……少女の肖像画を集めていたの?」
思わず呟いたけれど、近づいて、違和感に気づく。
絵の隅に、小さな文字が書かれていた。
『No.12』
隣の絵を見る。
『No.13』
さらにその隣――
『No.14』
「番号……?」
背筋が冷たくなる。
どうして人の肖像画に番号がついているの。
美術品だから?
それとも――
視線を動かしていく。
『No.19』『No.20』『No.21』
数字が増えていく。
その途中で――私は息を呑んだ。
「……え?」
黒い髪。灰色の瞳。
小さな肖像画の中から少女がこちらを睨みつけるように見ていた。
他の絵画の中の少女が視線を少しずらし、俯いているのに対し、黒髪の少女は絵の中からこちらを見ていた。
美しい――でも、笑っていない。
画家に愛想よく見せるつもりなどないと言わんばかりの苛烈な眼差し。
私は、その目を知っていた。
「……クロエ?」
絵の隅を見る。
『No.40』
胸がざわつく。
――似ているなんてものじゃない。
もっと幼いけれど。頬も記憶のクロエより丸く、顔にはまだ少女らしさが残っているけれど。その灰色の瞳は、クロエだった。
「どうして……」
私は絵へ手を伸ばしかけて、止めた。
まず、この絵が何なのか確かめなくてはいけない。
部屋の中央には、大きなソファが置かれていた。
向かいには壁一面の肖像画。
まるで、ここに座って、少女たちを眺めるために作られた部屋のようだった。
吐き気がした。
そのソファの上に、分厚い冊子が置かれていた。
私は恐る恐る手に取る。
革張りの重厚な表紙。
開いて、絶句した。
最初の頁に、一枚の写真が貼られていた。
少女の肖像写真。その横には、細かな文字が並んでいる。
名前。年齢。出身地。公爵邸へ来た年月。その後の行き先。
――最後に、公爵自身が書いたらしい短い言葉。
『笑顔がよい』
頁をめくる。
次の少女。
『気が強すぎる』
まためくる。
『興味を失った。ハリス卿へ』
次――
『金髪が美しい』
「……」
手が震え始めた。
これは、人を人として記した台帳じゃない。
どこから来て、何歳で、どういう外見で。気に入ったか。飽きたか。
そのあと、誰へ渡したか。
まるで――品物の台帳だ。
私は冊子と壁の絵を見比べた。
番号と描かれた少女と写真。
写真は白黒で髪の色はわからないけれど――顔立ちが同じだ。
台帳の少女には、それぞれ番号が振られている。
壁の肖像画の番号と一致する。
「……この絵」
口の中が乾いた。
公爵が集めた美術品ではない。
公爵が関わった少女たち。
公爵のもとへ来て。公爵に見られ。評価され。
飽きれば、“次”のどこかへ送られた――その記録。
「……所有物みたい」
自分で言って、背筋が震えた。
違う――“みたい”じゃない。
きっと本当に、彼女たちはそう扱われていた。
私はもう一度、台帳をめくった。
『No.38』『No.39』――そして……
『No.40』
そこで指が止まった。
絵画と同じ、強い瞳の黒髪の少女。
私は息を止めた。
そこに書かれていた名前は、クロエ。
年齢は十五歳。
「……十五」
声が震えた。今の私と――同じ年。
十五歳のクロエ。
私は、写真をじっと見た。
今よりずっと幼い。
それでも。目だけは同じだった。
誰にも負けたくないと言うような。
誰も助けてくれなくても、一人でやりきってやるという意思を秘めたような。
そんな、苛烈な瞳。
その横に、公爵の短評があった。
『顔立ちはよい。金髪なら手元に置いてもよかったが、残念』
私はぎりりと唇を噛んだ。
そんな言葉で、この子を、十五歳のクロエを評価しないで。
クロエ――あなたは。
公爵に、私と同じ年のときに、こうやって見られていたの?
顔を評価されて。髪の色まで値踏みされて。
そして――何年もあとに、同じ男が金髪の私を欲しがった。
「……馬鹿」
声が震えた。
「言ってくれればよかったのに」
けれど、言えるわけがなかったのかもしれない。
十五歳の血のつながらない継子の私に。
十五歳だった自分が、こんな場所にいたなんて。
私は台帳を閉じた。
それから、さっきの肖像画の元へ戻った。
『No.40』
そう記された絵を壁から、そっと外した。
手のひらほどの、小さな絵。
十五歳のクロエが、こちらを睨んでいる。
私はそれを両手で持って、しばらく見つめた。
「……あなた、昔からそんな顔してたのね」
絵の中から『一人でやってやるわ』という声が聞こえてきそうな目だった。
十五歳――私と同じ年の、一人で生き延びようとしていた少女。
――私に暖炉掃除をたたき込んで、何も言わずにいなくなってしまった“悪しき継母”。
私は肖像画を抱きしめた。
「あなたを、ここに置いていくなんて嫌」
公爵が眺めるための壁に、番号をつけられたまま。
少女のあなたは、ずっと、そんなところにいたのね。
「私が来たわよ、クロエ」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
「遅くなったけど」
胸に抱いた小さな絵へ呼びかける。
「今度は、私が連れて帰るから」
涙が一粒、頬を伝った。
私は急いで涙を拭い、前を見た。泣いている場合じゃない。
十二時が近い。
公爵がいつ目を覚ますかもわからない。
私は台帳を持ち上げた。
重いけれど、これは確保しなければ。
この中には、クロエだけじゃない。たくさんの少女の名前がある。
行き先も。公爵が何をしてきたのかを示す記録だ。
私は台帳を抱えた。
そして、その上にクロエの小さな肖像画を重ねる。
――十五歳のクロエ。
あなたを、今度こそ一人にはしない。
私は二つを抱えて、秘密の部屋の扉を閉めた。




