25.父の約束
それからしばらくして、ヴァレンティン公爵の使用人が私のところへやってきた。
「エラ・シモンズ様。旦那様がお呼びです」
――来た。
胸の奥で心臓が大きく鳴った。
「わかりました」
私は笑顔を作り、使用人についていく。
広間を出る直前、アスターを見た。
目が合って、私はほんの少しだけ頷く。
――行ってくるわ。
アスターも頷いた。
そのまま何気ない顔をして、少し距離を空けながら私たちの後をついてくる。
広間から離れるにつれて、楽団の音が遠くなった。
赤い絨毯の敷かれた廊下を進み、階段を上る。
壁にはいくつもの絵画が飾られていた。歴代の当主らしい男たちの肖像画や、広大な領地を描いた風景画。
どれも立派なのに、不思議と落ち着かなかった。
――使用人が一つの扉の前で立ち止まる。
「こちらです」
扉を開けると、中は応接室のような部屋だった。
小さいといっても、グレイ家の居間よりずっと広い。大きな書棚と机が置かれ、暖炉には火が入っている。そしてヴァレンティン公爵が、一人で私を待っていた。
「来たね」
「お待たせいたしました」
私は頭を下げる。
「座りなさい」
「ありがとうございます」
長椅子へ腰を下ろす。扉が閉まった。
アスターは入ってこない。でも、きっと近くにいる。
『鼠だからな。壁の隙間から見てるよ』
さっきの言葉を思い出すと、少し呼吸が楽になった。
公爵は向かいの椅子へ座ると、酒をグラスへ注いだ。
「君は飲まないね?」
「はい」
「まだ十五だからな」
公爵は機嫌よく笑い、自分だけ一口飲む。
「さて」
グラスを机へ置いた。
「君に見せたいものがある」
「見せたいもの?」
「ああ」
公爵は机の引き出しを開け、中から一通の手紙を取り出した。
胸が強く鳴った。
「これは……」
「君のお父上からの書簡だ」
公爵が微笑む。
「ジャックとは、君の将来について話がついていたんだ」
差し出された手紙を受け取る。見覚えのある文字だった。
紛れもなくお父様の字だ。
子どもの頃にもらった誕生日のカード。
旅行先から届いた手紙。
書斎に積まれていた書類。
――何度も見た、お父様の字。
間違えるはずがない。
最後には、ジャック・シモンズの署名もあった。
私は手紙を読んだ。
一度。……もう一度。
何度読み返しても、意味は変わらなかった。
シモンズ伯爵家の借金をヴァレンティン公爵が肩代わりすることへの感謝。
お父様自身にも、相応の地位を用意することへの感謝。
その代わりに。
娘エラ・シモンズを、公爵のもとへ送ること。
以後の私の身の振り方については、公爵の判断へ委ねること。
「……」
指先が震えた。
お父様の手紙の内容は、わかっていたことだった。
叔母様から話を聞いた。帳簿も見た。
クロエが私を公爵から隠していた理由も、ほとんどわかっていた。
――それでも。ほんの少しだけ。
間違いであってほしかったのかもしれない。
お父様はだらしない人だった。
お母様を殺した可能性まである。
――それでも。
娘の私だけは、ほんの少しくらい、愛していたのではないかと、少しだけ信じていた。
『エラは私に似て美人になるぞ』
幼い私の頭を撫でて笑った人は、その手で、この手紙を書いた。
私はゆっくりと手紙から顔を上げて、微笑んだ。
「……確かに、お父様の字です」
「そうだろう」
公爵は満足そうに頷いた。
「ジャックは最後まで、君の将来を案じていたんだ」
私は顔を上げた。
「……私の将来を?」
「ああ」
「この手紙で?」
「もちろん」
公爵は頷いた。
――理解が追い付かない。
「父親というのは、娘が幸せに暮らせるよう考えるものだ。伯爵家が傾いていることを、ジャックもわかっていた。自分がいなくなったあと、君がどうなるのか心配だったのだろう」
――違うわ。
お父様が心配していたのは、自分のことだ。
借金をどうするか。どうやって地位を取り戻すか。
そのために私を使った。
「君だって」
公爵が優しく微笑む。
「使用人として働き続けるより、私の庇護を受けた方が幸せだろう?」
「……」
「君は伯爵家の娘なんだ。暖炉を掃除して生きるような身分ではない」
私は笑いそうになった。
暖炉を掃除できるから。私は今、自分で食べていけるのに。
「それに」
公爵は身体を少し前へ乗り出した。
「私も、もう年だ」
今夜で六十五歳。
「これまで正式な妻を迎えることはなかったが、そろそろ考えてもいいと思っている」
嫌な予感がした。
「エラ」
公爵が笑う。
「君を妻として迎えたい」
「……私を?」
「ああ」
六十五歳の男が。十五歳の私に。
その言葉を、とても素晴らしい贈り物のように差し出している。
「そうすれば、もう使用人として働く必要もない。この屋敷の女主人として、何不自由なく暮らせる」
私は公爵を見つめた。
『相手の言葉を、そのまま信じるなんて馬鹿のすることよ』
買い物で騙されそうになった私に、クロエが言った言葉をよぎる。
「何不自由なく」なんて言うけれど――あなた、私をお父様から金銭で“買った”のよね。
きっと、公爵は、私を自分の所有物として好きなように扱う気でしょう。
何不自由なく、暮らせるわけがない。
「……嬉しくないのかい?」
公爵が尋ねる。私は顔を上げ、笑った。
「驚いてしまって」
「そうだろう」
「私なんかが、公爵夫人に……」
「……君だからだよ」
公爵は機嫌よく、私の右手を握った。
私は膝の上で左手を握りしめながら、なんとか微笑んだ。
「ありがとうございます」
「いい子だ」
その言葉に、背筋が粟立った。
それでも笑う。
「そのドレスも悪くはないが」
公爵が私を眺める。
「少し大人びすぎているな」
「そうでしょうか?」
「ああ。君にはもっと可愛らしいものがいい」
公爵は楽しそうに話し始めた。
「白いドレスがいいな。柔らかなレースを使って、もう少し少女らしい形にしよう。君の金髪がよく映えるものを仕立てさせる」
私が何を着たいかは聞かない。
この人が話しているのは、自分が私に何を着せたいのか。
自分の見たい少女の姿だ。
――私は、人形じゃない。
胸の中で呟いて、
「楽しみにしています」
口ではそう答えた。
「そうか」
公爵は満足そうに酒を口にした。
そのとき。
私はドレスの胸元に作った小さな隠しポケットへ触れた。
中には、クロエの部屋から持ってきたものがある。
七年間――あの屋敷で眠れなかったクロエが頼っていた薬。
お守りのように、持ってきた。
実際に使うかは決め切れていなかったけれど――
でも、今――目の前には、お父様の手紙がある。
公爵が眠れば、私は、この屋敷を調べられる。
「どうした?」
「いいえ」
私は笑うと、公爵のグラスを横切るように左手を伸ばし、彼の上着に触れた。
「糸くずがついておりますわ」
公爵が自分の上着へ目を落とした隙に、私は隠しポケットから取り出しておいた薬をグラスへ落とした。
◇◇◇
しばらくして――公爵の話す速度が、少しずつ遅くなった。
「……君は、本当に……ジャックによく……」
言葉が途切れる。
「公爵?」
「少し……飲みすぎたかな」
公爵は眉間を押さえた。
「大丈夫ですか?」
「ああ……」
彼は私の方へと寄りかかってきた。
重たい身体に押されながら、心臓がばくばくと鳴った。
本当に眠るかしら?
もし眠らなかったら。
もし何か気づかれたら。
「――心臓の音が大きいね」
公爵の手が私に伸びてくる。
「胸が高鳴ってしまって……」
のけぞりながらそう答えたら、公爵の目が閉じた。
「……公爵?」
返事はない。私は立ち上がった。
「公爵」
もう一度呼ぶ。
――眠っている。
「……」
急に自分がしたことが怖くなり、私は胸元のポケットを握った。
――でも。
机の上を見る。
お父様の手紙がある。
公爵はまだ引き出しへ戻していなかった。
私は手紙を握って、胸元へ入れた。
――これが、お父様が私を売った証拠。
「他に、何かないかしら……」
私はふと、応接室の奥の小さな扉を見た。
ドアノブを回すと、鍵がかかっていた。
ふと視線をソファに倒れ込んでいる公爵に向けると、上着の内ポケットから細い鎖が覗いていた。近づいて鎖を引っ張ると、鍵だった。
――それを外して、扉の鍵穴に入れると。
ガチャリ。
音がして、鍵が開いた。




