23.”鼠”の馬車(アスター視点)
俺は馬車の御者台に座り、手綱を握った。
馬の蹄が、夜の石畳を規則正しく叩いていた。
後ろの客室には、エラが座っている。
さっきまで俺の借家で、彼女はクロエ夫人のドレスを着て、髪を整え、化粧をしていた。
……あんなに見違えるとは思わなかった。
いつもグレイ家の使用人服で、袖をまくって働いている姿ばかり見ていたから、実感がなかった。――本当に、伯爵令嬢だったんだな。
着替えたエラは物語に出てくるお姫様のようで、会場に入れば、人々の視線を惹きつけるだろう。
……けれど、今夜のあの姿は、ただ着飾るためのものじゃない。
ヴァレンティン公爵に近づくための武器だ。
「……やっぱり、止めた方がいいんじゃないか」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
馬車の後ろには、逃げるときに使う荷物も積んである。
エラ用には、俺が学生だった頃に着ていたシャツとズボン、それに上着と帽子を持ってきた。少し大きいだろうが、長い髪を外して着替えれば、遠目には少年に見えるはずだ。
俺自身も、今着ている付き人用の服を脱いだあと、ただの労働者風の若い男に戻れるよう予備の服を用意している。
ここまで準備しておいて……今さら止める?
「……いや」
止められなかったから、ここにいる。
エラは一人でも行くと言った。
あの顔なら、本当に一人で行っただろう。
だったら、せめて俺がそばにいた方がいい。
そう自分に言い聞かせる。
――でも。それだけじゃない。
俺自身も、ヴァレンティン公爵の記事を書きたい。
……ずっと、あの男のことを調べてきた。
公爵は若い女性を“保護”し、住む場所や衣服を与え、ときには教育まで受けさせる慈善家として知られている。そこだけ聞けば、立派な話だ。
けれど、そのあと何人もの少女が、公爵邸から姿を消している。
結婚した。地方へ移った。別の支援者を紹介された。
記録の上では、そういう説明が残されている。
ただ、その先が追えない。
そして、そのことを考えるたびに、俺は一人の男を思い出す。
“切り裂き”リック。
俺とよく似た顔をした、同じ孤児院から養子に出された男。
舞台俳優ではあったものの、演技で名を上げたわけじゃない。端役ばかりで、酒に溺れ、薬にも頼り、最後は連続殺人の容疑者として追われた。
生きていた頃には大して知られていなかったのに、死んでから“美しい殺人鬼”として有名になった。顔写真が新聞に載ると、その容姿を面白がる女たちが現れ、追っかけまでできた。
本人が何を思っていたかなんて、誰も気にしない。
世間が欲しがったのは、“狂った美青年”というわかりやすい物語だった。
俺も、その物語を記事にした。
しかし――リックは、本当に犯人だったのか。
なぜ四人もの娼婦を惨殺したのか。
リックは本当に、そのすべてに関わっていたのか。
真相は今でもわからない。
裁判はなかった。本人は死んだ。
なのに、名前だけが残った。
美貌の連続殺人犯“切り裂きリック”――そして、そのリックの顔は、若い頃のヴァレンティン公爵によく似ていた。
そして、俺にも似ている。
最初は、ただの偶然だと思った。
でも、公爵と関係のあった少女たちの中には、娼婦街に近い場所で暮らしていた者もいる。
その近くには、俺とリックがいた孤児院がある。
もし、公爵に囲われた少女の中に子どもを産んだ者がいて、その子どもが人知れず孤児院へ預けられていたとしたら。
そう考えると、リックと公爵、それに俺までが、まったく無関係だとは思えなくなってくる。
「……最悪だな」
記者としては、知りたい。喉から手が出るほど。
リックにつながる何かが、公爵邸に残っているかもしれない。
消えた少女たちのことも、今までより深く調べられるかもしれない。
――でも。
そのためにエラを危険な場所へ連れていっていいのか。
答えは出ない。
ただ、馬車はもう、ヴァレンティン公爵邸へ向かっていた。
◇◇◇
王都の中心部へ近づくにつれて、人通りが増えていった。
遠くからでも、公爵邸の明かりが見える。
普段から大きな屋敷だが、今夜はまるで別の建物のようだった。
門から続く道には灯りが並び、馬車が次々と屋敷へ吸い込まれていく。
乗っているのは、着飾った貴族や大商人、役人や芸術家たちだ。
新聞社の記者も何人か見える。
さらに、招待されていない市民まで大勢集まっていた。
「すごい人だな……」
俺は馬車の速度を少し落とした。
今夜は、ヴァレンティン公爵の六十五歳の誕生日だ。
深夜十二時には祝砲と花火が上がる予定になっている。
それを見るために、公爵邸の前の広場には夜店まで出ていた。
焼いた肉の匂いが漂い、菓子や酒を売る声が飛び交っている。子どもたちは紙の旗を振りながら、まだ始まってもいない花火を楽しみにしていた。
まるで祭りだ。
公爵本人がどれだけ喜ぶかは知らないが、王都の人間にとっては、派手な花火が見られれば十分なのだろう。
その混雑が、俺たちには都合がいい。
帰りは、この馬車を使わない。
夜会が始まってしばらくしたら、新聞社の仲間に馬車を別の場所へ動かしてもらう手筈になっている。
公爵邸の近くへ残しておけば、何かあったとき真っ先に調べられるからだ。
逃げるときには、エラは長い髪を外して少年服に着替える。俺も付き人の服を脱ぐ。
そのまま、花火を見に集まった市民の中へまぎれてしまえばいい。
入ってきたときとは、かなり違って見えるはずだ。
予定通りにいけば――何も問題ない。
俺は馬車を止め、客室の扉を開けた。
「着いたぞ」
中からエラが顔を出した。
改めて見ると、やっぱりいつものエラとは違う。
深い青のドレス。胸元には、小さな青い宝石。
長い金髪は華やかにまとめられていて、普段より少し大人びて見える。
「ありがとう」
「……似合ってるよ」
そう言うと、エラは軽く笑った。
「……さっきも聞いたわ」
思わずどきりとするような、そんな笑顔だった。
――彼女の後ろに、黒髪の美しい女が重なって見えた気がした。
クロエ夫人――夫を毒殺して消えた、彼女の継母。
俺は取材をするなかで、写真や肖像画を見たことがあるだけだ。
背が高く、長い黒髪が印象的な妖艶な女だった。
血は繋がっていないはずなのに、今のエラには、クロエの面影があった。
彼女のドレスを着ているせいだろうか。
「どうしたの?」
エラに聞かれて、俺は咳払いをした。
「――確認するぞ。……十二時になったら、花火が上がる」
「うん」
「その前後は、公爵も誕生日の主役として客の前に出るはずだ。俺たちが動くなら、そこだな」
「私は、公爵に近づいて、お父様の手紙を見せてと聞いてみるわ。場所がわかったら、それをどうにか持ち出せないか、考えてみる」
「持ち出したら、花火の混雑に紛れて外に隠れよう」
俺は指を一本立てた。
「十二時は目安だ。……それまでに何も収穫がなければ、そのまま帰る。無理はしない。いいな」
「……わかったわ」
それから俺たちは公爵邸を見上げた。
明るく照らされた窓。中から聞こえてくる音楽。
次々と到着する馬車。着飾った人々。
その光景はまるで絵本の挿絵みたいだった。
エラがぽつりと言う。
「本当に、おとぎ話みたいね」
俺は少しだけ笑った。
「……王子様には気をつけろ」
エラも笑った。
「公爵のこと? あんな王子様は、嫌だわ」
俺は「そうだな」と肩をすくめた。
◇◇◇
俺は付き人らしく、エラの少し後ろへ下がった。
門の前では、招待状の確認が行われている。
エラが封筒を差し出す。
「エラ・シモンズです」
係の男が招待状を確認した。それから俺を見る。
「こちらは?」
「私の付き人です」
係の男は俺の服装を確認したあと、招待状の端に記された「従者一名」の文字へ目を落とした。
俺は頭を下げた。普段、記者として貴族の屋敷へ入るときとは違う。
今日は鼠じゃない。少なくとも、表向きは。
「どうぞ」
門が開いた。エラが一歩、前へ出る。
俺もそのあとに続いた。
ヴァレンティン公爵邸の中から、音楽と人々の笑い声が流れてくる。
グラスの触れ合う澄んだ音まで聞こえた。
その華やかな空間のどこかに、俺たちが探しているものがある。
ジャック・シモンズ伯爵から公爵へ送られた手紙。
そして、もし運がよければ、消えた少女たちやリックにつながる手がかりも見つかるかもしれない。
俺は一度だけ、後ろを振り返った。
門の向こうには、花火を待つ人々で溢れた王都の夜が広がっている。
あそこに、エラと二人で、できれば、何かを掴んで戻りたい。
でも――何より、無事に。
俺は前を向いた。
そして、エラと一緒に公爵邸へ足を踏み入れた。




