20.招待状
ヴァレンティン公爵からの招待状が届いたのは、慈善催事から四日後のことだった。
その日の昼過ぎ、私は厨房で銀食器を磨いていた。
「エラ」
ヘレン奥様に呼ばれて振り向く。強張った声だった。
奥様の手には、淡い青色の封筒があった。
封蝋には、見覚えのない紋章が押されている。
そして、その後ろには使用人が大きな花束を抱えて立っていた。
白い薔薇でできた豪勢な花束だった。
「……あなた宛てよ」
「……私に?」
布巾を置いて、手を拭う。
――誰から来たものかは、予想がついた。
封筒の表には、確かに私の名前が書かれていた。
【エラ・シモンズ嬢へ】
「開けても?」
奥様に聞かれ、私は頷いた。
封を切ると中には一枚の招待状が入っていた。
ロベルト・ヴァレンティン公爵。
六十五歳の誕生日を祝う夜会。
――場所は公爵邸。
王族や貴族、富裕な商人、芸術家など、多くの客を招く大規模な催しらしい。
そして――深夜十二時には、公爵の誕生日を祝って祝砲と花火が上がると書かれていた。
「……本当に来た」
小さく呟く。
「何が?」
奥様に聞かれ、慌てて顔を上げた。
「いえ」
招待状を握る。
――孤児院の慈善催事で会った日。
『近いうちに連絡をしよう』
公爵は確かにそう言った。
でも、こんなに早いとは思わなかった。
「エラ」
奥様の声が低くなった。
「あなた、ヴァレンティン公爵とどこで知り合ったの?」
その問いに、私は少しだけ間を置いた。
「この前、孤児院の慈善催事へ手伝いに行ったでしょう?」
「ええ」
「そこに公爵も来ていたんです。私がシモンズ伯爵の娘だと知って、声をかけられました」
嘘は言っていない。
私が公爵に見つけてもらうために、わざと髪を下ろして、化粧をして、公爵に微笑んだことを言っていないだけだ。
「それだけ?」
「はい」
奥様は私の顔をじっと見た。
そこへアルバート様もやって来た。
「どうした?」
「ヴァレンティン公爵から、エラに招待状が届いたの」
アルバート様の表情が変わった。
「見せてもらっても?」
「どうぞ」
私は招待状を渡した。
アルバート様は黙って読み進める。
最後まで目を通すと、深く息を吐いた。
「……行かない方がいい」
――やっぱり。
「どうしてですか?」
「エラ」
奥様が私の隣に立った。
「ヴァレンティン公爵について、よくない噂があるのは知っているでしょう?」
「はい」
「なら、なおさらよ」
「でも、夜会なんですよね。大勢の人がいるなら――」
「大勢いるから安全とは限らない」
アルバート様が言った。
いつもより厳しい声だった。
「公爵家の屋敷だ。どこへ案内されるかもわからない」
私は黙った。
アルバート様は《銀月の大広間》の顧問弁護士だった。
若い頃のクロエも知っている。
だから。
ヴァレンティン公爵のことだって、私よりずっと前から知っていたのかもしれない。
「アルバート様は、公爵がどんな人なのか知っているんですか?」
「……噂程度だ」
「本当に?」
アルバート様が私を見る。
「エラ」
「《銀月の大広間》から、公爵みたいな貴族のところへ女性が行くこともあったんですよね」
奥様が息を呑んだ。アルバート様の顔が強張る。
「私は……契約や金銭の問題を扱っていただけだ」
「でも、何も知らなかったわけじゃないでしょう?」
沈黙。それが答えに思えた。
私は責めたいわけではなかった。――アルバート様は、いい方だ。
クロエの紹介とはいえ、身寄りのない私を使用人として置いてくれた。
部屋をくれ、給金も払ってくれている。休みもきちんとくれる。
奥様は私やリジーが疲れたら、お茶の時間にして、私たちにもお菓子をわけてくれる。
――ただ。
この世界には、知っていたのに黙っていた人が多すぎる。
叔母様も。《銀月の大広間》の女主人も。
お母様が病死したことにしてしまったリンク先生も。
そして、もしかしたらアルバート様も。
「……すまない」
アルバート様が低い声で言った。
「当時は、それが普通だと思っていたところもある」
「普通……」
「身分のある男性が女性を囲うことも、店が女性を紹介することも。少なくとも、私たちの周りでは珍しいことではなかった」
「……」
「だからといって、何も考えなくてよかったわけではない」
アルバート様は招待状を机に置いた。
「今さら言っても、言い訳にしかならないが」
私は返事をしなかった。奥様が私の手を握った。
「……だからこそ、行ってほしくないの」
アルバート様が付け加えた。
「……エラ、君は、クロエが君を何から遠ざけたかったのか、わかっているだろう?」
私は口をつぐんだ。
……だったら、クロエは。
クロエのことは誰が守ってくれるの。
このままあの人を“意地悪な継母”のままでいさせることは、私にはできない。
口を開きかけた私を、ヘレン奥様は見つめた。
「駄目よ」
きっぱりと言われた。
「あなたには仕事をしてもらいます」
「仕事?」
「屋根裏の掃除」
「……屋根裏?」
「ええ。ずっと手をつけられていないところがあるから、ちょうどいいわ」
奥様はにこりともせず言った。
「屋根裏掃除が終わるまで、あなたは外出してはいけません。二週間じゃ、終わらないわね、きっと」
公爵の夜会は、二週間後だ。
「奥様!」
「――あなたを公爵の夜会になど行かせませんよ、エラ」
初めて見る奥様の激しい口調に、私は黙り込んだ。
アルバート様も腕を組んだ。
「今回は、ヘレンに賛成だ」
「あなたのことを心配しているのよ」
奥様の声は柔らかかった。
だから、余計に困った。
私を止めたい理由はわかる。
私だって。
リジーが同じことをしようとしたら、絶対に止める。
それでも、私は、行かなくてはいけない。
◇◇◇
「屋根裏掃除?」
翌日、新聞社の裏手で、アスターは呆れた顔をした。
「ええ。明日からやるわ」
「完全に外出禁止じゃないか」
「そうとも言うわね」
「グレイ夫妻の言うことは、もっともだよ、エラ」
「私もそう思う」
「じゃあ、諦める?」
「何とか抜け出すわ」
アスターが頭を抱えた。
「君はそう言うだろうと思ったよ」
「だって、こんな機会、もうないかもしれない」
私は招待状を見せた。
「公爵自身の誕生日でしょう?」
「ああ」
「しかも大規模な夜会」
「そうだな」
「大勢の客がいる」
「いるな」
「深夜十二時には祝砲と花火」
アスターの目が少し変わった。
「……そこか」
「うん」
私は頷いた。
「公爵は誕生日の主役よ。花火が始まるなら、ずっと一人で部屋にこもっているわけにはいかない」
「客の前に出る」
「そう」
「それに、屋敷中に人がいる。完全な密室にはなりにくい」
「そう思う」
アスターはしばらく考え込んだ。
「夜会の最中なら、使用人も客も出入りが多い。平時より紛れやすいのは確かだ」
「でしょう?」
「でも、公爵邸だぞ」
「わかってる」
「わかってない顔をしてるぞ」
アスターは招待状を指で叩いた。
「目的は?」
「お父様からの手紙」
「それだけ?」
「――まずは」
「“まずは”って言うな」
私は少し笑った。
「公爵がお父様から受け取った書簡が残っているなら、それを見つけたい」
「持って帰るつもり?」
私は「できれば」と頷いた。
「……盗むことになるのは、わかってる。でも、読むだけじゃ公爵に捨てられたら終わりでしょう?」
私はアスターを見つめた。
「それがあれば、お父様が私を公爵に金銭で売ろうとしていた証拠になるでしょう? あなたは記事を書いてくれるでしょう? きっと、みんな面白がって読むわ」
――そうすれば。クロエについての世間の目も変わるかもしれない。
「……けれど、危険すぎる」
「でも、証拠になる」
「エラ」
アスターは真剣な顔になった。
「見つけても、すぐに持ち出せるとは限らない。誰かに見つかれば、君は盗人として捕まる」
「わかってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「ほら」
私は目を逸らした。
「でも、行くわ」
アスターは長く息を吐いた。
「じゃあ、せめて一人では行かせない」
アスターは私を見つめた。
「俺も夜会に入る方法を探す」
「招待されてないでしょう?」
「新聞記者だからな」
アスターが少し笑った。
「大きな誕生日夜会なら、取材枠くらいあるかもしれない」
「……”鼠”の特権ね」
「褒め言葉として受け取っておく」
私は招待状をもう一度見た。
厚い紙。金色の文字。添えられた豪華な花束。
昔の私なら――こんなものが届いたら、どれほど喜んだだろう。
身分の高い人から招待される。
美しいドレスを着る。
大きな屋敷へ行く。
たくさんの人が集まる夜会へ。
そういうものに、ずっと憧れていた。
けれど今は――この招待状が、深い沼への入口にしか見えない。
そしてその沼の中へ、自分から入っていこうとしている。
「エラ」
「何?」
「怖くない?」
アスターが聞いた。
私は少し考えた。
「怖いわ」
「なら」
「でも、行く」
私は招待状を胸元で握った。
「クロエが私を公爵から遠ざけようとしていたなら――今度は私が、自分で近づく」
「……ほんとに面倒だな」
「もう知ってるでしょう? だって私は……」
『クロエの娘だもの』
その言葉はまだ口から出せなかった。
「ああ」
アスターは苦笑した。
「よく知ってる」
その日の帰り道。
私はずっと、十二時の花火のことを考えていた。
公爵が客の前へ出る、その瞬間。
屋敷の中で何ができるのか。
どうやって手紙を探すのか。
どうやって逃げるのか。
まだ、何も決まっていない。
それでも、招待状はもう、私の手の中にある。
私は夜会へ行く。
今度は、誰かに連れていかれるためではなく。
自分で、真実を取り返しにいくために。




