19. “王子様”に見初められる
クロエの働いていた《銀月の大広間》の近くにある診療所の医師は、私の顔を見て少し驚いた。
「クロエ・シモンズ夫人について聞きたい?」
「継娘のエラです」
「……ああ」
医師はすぐに表情を曇らせた。
「ニュースは聞いています。私に何の用事ですか?」
「この薬について知りたくて」
私は瓶を見せた。医師は確認すると、頷いた。
「奥様に出していた、眠るための薬です」
「いつ頃から?」
「結婚して間もなくです」
「……そんな前から?」
「ええ」
胸がざわついた。
「眠れないと?」
「そう聞いていました」
「ずっと?」
「時期によって良し悪しはありましたが、長く不眠に悩んでいたようです」
七年間。私がクロエを嫌っていた七年間。
私が毎日、悔しくて泣きながらベッドに入っていた間、クロエも毎晩、眠れなかったのだろうか。
「理由は?」
「それは話してくれませんでした。ただ……」
医師は少し迷った。
「ずいぶん神経を張りつめている方だとは思いました。眠れない夜だけでなく、悪い夢を見て目を覚ますこともある、と」
「悪い夢……」
「薬は処分してください」
私は「はい」と頷いて、診療所を去った。
その夜は眠れなかった。
リジーはすやすやと寝息を立てている。
薬瓶を鞄から出し、机の上に置いて見つめた。
瓶の向こうに、クロエがいるような気がした。
七年間――あの屋敷でクロエはどんなふうに夜を過ごしていたのだろうか。
「……あなたは、何を考えていたの?」
問いかけてみても答えはない。
私は長いこと薬瓶を見つめていた。そして。
ほんの一度だけ、クロエがどうしてこれに頼ったのか知りたいと思った。
私は薬を口にした。
――目を開けると、朝だった。
「……」
しばらく、自分がどこにいるのかわからなかった。
使用人部屋。横のベッドではリジーがまだ眠っている。
窓から朝の光が差し込んでいた。夢を見た記憶がなかった。
ただ、夜が丸ごとなくなったようだった。
「……あなたは、毎日これで、眠ってたの?」
クロエは――夢すら見たくなかったのだろうか。
そう考えた途端、胸が重くなった。
アスターには言わないことにした。
言えば、間違いなく怒るから。
私はお守りのように、クロエの薬を鞄に入れた。
◇◇◇
慈善催事の日。私は朝から鏡の前に座っていた。
グレイ家で着ている作業着。
派手なドレスではない。孤児院の手伝いに行くのだから、その方が自然だ。
ただ――今日は髪を隠さない。
いつも仕事では邪魔にならないようまとめている金髪を、背中へ流した。
クロエの化粧品を使う。
鏡の中の自分が、少しずつ変わっていく。
白粉。薄い紅。眉。
「……こんな感じだった?」
クロエの化粧を毎朝見ていた。
手順も覚えていた。
でも、同じにはならない。
私はクロエではない。
鏡の中には、金髪の十五歳の少女がいた。
絵本の王子様みたいだったお父様に似た華やかな顔。
――それを今日は利用する。
「エラ!」
部屋へ入ってきたリジーが目を丸くした。
「なにそれ! どこ行くの!?」
「孤児院の催事のお手伝いよ。アスターに誘われて」
「その顔で?」
「変?」
「逆! すっごく綺麗!」
「……ありがとう」
以前なら、そう言われれば嬉しかった。
今日は、自分がうまくできるかどうか、少し怖かった。
◇◇◇
孤児院前の広場は、大勢の人で賑わっていた。
簡単な舞台が作られ、孤児院の子どもたちが歌や踊りを披露する。
周囲には菓子や飲み物を売る露店や寄付を募る箱が並び、新聞社の記者たちも来ている。そして広場の正面には、来賓席があった。
「いた」
アスターが小さく呟いた。
見なくてもわかった。人々の視線が集まっている。
ロベルト・ヴァレンティン公爵。
彫りの深い顔立ちに若い頃は“花の王子”と呼ばれた名残はあるものの、今は太って、頬もたるんでいる。
それでも華やかな服を着て、堂々と椅子に座っている姿には、長く権力の中心にいた人間特有の威圧感があった。
「……大丈夫か?」
アスターが聞く。
「大丈夫」
「無理なら帰るぞ」
「帰らない」
私は子どもたちの衣装を整えたり、飲み物を運んだりしながら、少しずつ来賓席へ近づいた。
視線を感じた。
公爵が、私を見ている。
背筋が冷たくなる。
それでも、私は顔を上げた。
そして――公爵に向かって微笑んだ。
ほんの一瞬。
すぐに目を逸らす。
「……気づいた」
近くにいたアスターが小さく言った。
「わかる?」
「露骨なくらい、エラを見てるから」
「あと一押しかしら」
私は顎に手を置いて考えてから、アスターを見た。
「アスター、私がシモンズ伯爵の娘だと、公爵にわかるようにして」
「――それは……」
口ごもったアスターを見つめる。
「……自分から、名乗って近づいてもいいけれど。露骨すぎるから……」
アスターは頭を掻いてから、「わかった」と両手を挙げた。
彼は少し離れたところに行くと、別の記者へ声をかけた。
「そういえば、あの子知ってます?」
「誰だ?」
「あそこで手伝ってる金髪の子。シモンズ伯爵の娘ですよ」
「えっ?」
声が少し大きかった。周囲の人間も振り返る。
「例の?」
「そう。“継母に暖炉掃除を仕込まれた令嬢”」
「新聞に出てた子か!」
私は聞こえないふりをした。
――でも。
来賓席の公爵が、こちらを見た。
今度ははっきりと。
――催しが終わりに近づいた頃。
「君」
後ろから声をかけられた。
振り返る。ヴァレンティン公爵が立っていた。
近くで見ると、思った以上に大きい。
六十四歳という年齢のわりに背筋は伸びている。
指には大きな宝石の指輪がいくつも光っていた。
「私でしょうか?」
私は頭を下げる。
「君が、シモンズ伯爵の娘か」
「……はい。エラ・シモンズと申します」
「顔を上げてくれ」
言われたとおりにする。
公爵の目が、私の顔を見た。
髪を舐めるように見つめられ、胸の奥がぞっとした。
それでも微笑むと、公爵も笑った。
「ジャックによく似ている」
「父をご存じだったんですか?」
「ああ。長い付き合いだった」
やっぱり。
「新聞で読んだよ。今は使用人として働いているそうだね」
「はい」
「大変だろう」
公爵の声は優しかった。
「困っているなら」
公爵が微笑んだ。
「私が助けてあげよう」
昔の私なら。その言葉を夢のように聞いたかもしれない。
けれど今は。
意味が違って聞こえた。
助ける。保護する。後援する。
アスターの取材帳に並んでいた言葉。
その言葉のあとに、何人の少女が公爵邸から消えたのだろう。
――もしかしたら、クロエもその中にいた?
私は胸の前で手を組んだ。
少し不安そうに。
十五歳の、父を亡くして困窮した少女らしく。
「……私を、助けてくださるのですか?」
公爵の目が細くなった。
「ああ」
満足そうな笑顔だった。
「もちろんだ」
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「近いうちに連絡をしよう」
そう言って、公爵は去っていった。
その背中が十分離れてから、私は息を吐いた。
「エラ」
いつの間にかアスターが横にいた。
「……うまくいったわ」
アスターは頭を抱えて呻いた。
「……全然嬉しくない」
「私も」
公爵の姿を見る。
馬車へ向かう途中で、何度かこちらを振り返っていた。
私は微笑まなかった。
もうその必要はない。
あとは、招待を待つだけだ。




