16.”悪しき継母”を書き直す
数日後――私はアスターと一緒に、王都の外れに診療所を構えるリンク医師を訪ねた。
お母様が倒れた時に、お父様が呼んだ家の主治医だった先生だ。
私が表札を見上げて立ち止まると、アスターが私の背中をたたいた。
「……俺が呼び鈴を押そう」
リンリンとアスターが呼び鈴を鳴らすと、診療所の扉が開いた。
「エラ・シモンズさん……」
白髪の混じり始めた男性が、私たちを迎えた。
「リンクです。……お母様のことですね」
その一言で、胸が重くなった。
◇◇◇
七年前。
私の八歳の誕生日。私は朝から浮かれていた。
お母様が朝食の席で、私の髪を梳きながら笑った。
『今日はエラの好きなものを作ってもらいましょうね』
『お父様も帰ってくる?』
私が聞くと、お母様は少し困ったように笑った。
『帰ってくると思うわ』
お父様は、私の誕生日でも家にいないことがあった。
友人との集まり。カード遊び。観劇。
大人には大人の付き合いがあるのだと、お母様は言っていた。
――でも、その年だけは。
お父様は夕食までに帰ってきた。
その前に、花とワインが届いた。
『わあ!』
私は花束を覗き込んだ。
『誰から?』
札はなかった。
お母様も不思議そうにしていた。
『送り主が書いてないわね』
そこへ帰ってきたお父様が、ワインを見て笑った。
『せっかくの祝いだ。今夜開けよう』
『でも、誰からかわからないのよ』
『構わないだろう。祝いの品なんだから』
食卓で、お父様が栓を抜いた。
お父様も飲んだ。お母様も飲んだ。
私は子どもだから、葡萄の果汁だった。
そのあと――お母様が胸元を押さえた。
『……苦しい』
グラスが床へ落ちた。
『アイリス?』
お父様の心配そうな声。お母様は椅子から崩れ落ちた。
口元に血が滲んだ。
『お母様!』
私は泣き叫んだ。大人たちが走り回った。
医師が来た。私は部屋から出された。
――そして翌日。
お母様は死んだ。
『急な病気だったんだ』
お父様はそう言った。その言葉を、私は信じた。
◇◇◇
「……普通の病死とは、思っていませんでした」
診療所の応接室で、私とアスターの向かいに座ったリンク先生は俯いた。
「当時から?」
「はい」
胸が冷たくなる。
「では、どうして」
「シモンズ伯爵に言われたんです」
リンク医師は顔を上げた。
「『妻は病気で死んだことにしてくれ』と」
「……」
声が出なかった。
「症状は不自然でした。けれど――伯爵家に逆らえば、王都で仕事を続けられなくなるかもしれないと思った」
医師は唇を噛んだ。
「私はずっと、自分に言い訳をしてきました。確証はなかった。伯爵がそう言うなら、そうなのだろう。余計なことを言わない方がいい、と」
「……お母様が死んだのに?」
思わず責めるような声になった。
リンク医師は目を伏せた。
「はい」
言い訳しなかった。
「申し訳ありません」
静かな声だった。
「今回、伯爵自身が似た症状で亡くなったと警察から聞き、七年前のことを改めて尋ねられました。それで、すべて話しました」
「……」
「あなたのお母様に、ずっと申し訳ないと思っていました」
私は何も答えられなかった。
許すとも、許さないとも言えなかった。
ただ、一つだけはっきりした。
お父様は知っていたんだ。お母様の死が、普通の病死ではないことを。
なのに――病気で死んだことにしてくれと、医師へ頼んだ。
◇◇◇
診療所を出てから、私はしばらく何も話さなかった。
アスターも珍しく黙っていた。
「……ねえ」
歩きながら、私から声をかける。
「どう思う?」
「何を?」
「全部」
アスターは少し考えた。
「新聞社へ戻ろう。……こういうときは、あそこが一番落ち着く」
アスターは私に笑った。
「来客用の紅茶を淹れるよ。……砂糖もたくさん」
私は「ありがとう」と笑った。
それからクロエがグレイ夫妻に送った手紙に、『甘いものが好き。紅茶に砂糖をたくさん入れる』と書いていたことを思い出した。
クロエは私の好みをよく知っていた。
新聞社につくと、アスターは私に甘い紅茶を持ってきてくれた。
それから、自分も紅茶を一口飲んで、ゆっくりと話し出した。
「クロエ夫人が二人とも殺した、と考えれば、確かに話は簡単だ」
アスターの机の前で、私は腕を組んだ。
「黒髪の女がワインを送る。そのワインを飲んだアイリス夫人が死ぬ。クロエ夫人はそのあと伯爵夫人になる」
アスターは指を折った。
「七年後。伯爵も似た毒で死亡。クロエ夫人は行方不明。正妻が邪魔で殺して妻の座を奪った悪い継母が、夫と不仲になり夫も殺してしまった」
「……わかりやすいわね」
「そう。でも」
アスターは机の上に積まれた古い新聞を一枚引き抜いた。
「“わかりやすい”のと、“本当”なのは別だ」
そこには、三年前の切り裂き事件の記事が載っていた。
写真の男はリックだ。
「リジーが……、私の同僚の女の子が、あなたと似ていると言っていたわ。その子のお母様がファンなんだって。――不謹慎よね」
アスターは苦笑した。
「そう。世間は不謹慎だ。それらしい物語を信じてしまう」
それから、リックの写真を見つめた。
「リックも、警察が犯人だと見て追っていた。捕まる前に死んだ。それで事件は終わった」
「本当は違ったかもしれない?」
「わからない」
アスターは新聞を畳んだ。
「本当にこいつが犯人だったかもしれない。でも、裁判はなかった。本人の話も聞けなかった。それでも世間では、“切り裂き魔リック”で確定した。――狂った美麗な殺人者、それがリックの物語だ」
少し黙ってから、アスターは言った。
「俺は同じことをしたくない」
「クロエの記事?」
最初の記事で彼がクロエについて書いたのは“悪しき継母”。
――それは、私が今まで信じ込んでいたクロエの姿。
けれど、今では、私の中のクロエの姿は違う。
「俺は嘘を書いたわけじゃない。……でも、今となっては、あれで全部だったとも思えない」
アスターは椅子へ座った。
「だから、まず今わかっていることを書かないか?」
「でも、まだ事件について全部わかってないわ」
「事件を断定する記事じゃない」
アスターは私を見た。
「クロエ夫人が、どういう人だったのかを書くんだ」
◇◇◇
数日後――『王都新報』に新しい記事が載った。
記事を持ったアスターがグレイ家を訪れた。
見出しを見た瞬間、私はアスターを睨んだ。
『意地悪な継母は、なぜ令嬢に暖炉掃除を教えたのか?』
「……もう少し普通の題名にできなかったの?」
「読まれなきゃ意味がないだろ」
「それは、そうだけど……」
記事には、私のことが書かれていた。
伯爵夫人になった元娼婦クロエは、八歳の継娘に掃除や洗濯、裁縫、買い物をさせた。
それだけなら、昔話に出てくる意地悪な継母に見える。
けれど。
家庭教師が父親によって解雇されたあとは、クロエ自身が読み書きや算術を教えた。
七年後、伯爵家は破産した。
十五歳の娘は屋敷を失い、使用人として働くことになった。
そこで役に立ったのは、かつて継母から叩き込まれた技能だった。
掃除。裁縫。帳簿。買い物。値段を比べること。
自分の給金を管理すること。
さらに記事は、クロエ自身の生い立ちにも触れていた。
七、八歳で母親と離れ、《銀月の大広間》へ。
下働きをしながら、家事と読み書きを覚えたこと。
私は最後まで読んだ。
記事の終わりには、こう書かれていた。
『伯爵令嬢を灰まみれにした継母は、本当に娘を苦しめたかったのか。それとも、いつか灰の中から自分の足で立ち上がれるようにしていたのか』
「……」
「どうかな?」
「格好つけた文体だわ」
「そこ?」
「でも」
もう一度、記事を見る。
「……前よりは、いいと思うわ」
アスターが笑った。
「光栄です」
記事は思った以上に読まれた。
没落した伯爵令嬢が使用人として働いているという話も、王都の人たちには珍しかったらしい。
グレイ家へ来る商人から、
『新聞の令嬢だ』
と声をかけられたときは、恥ずかしかった。




