14.公爵邸から消える娘たち(アスター視点)
「アスター! お疲れさん」
新聞社に戻ると、同僚が俺に手を挙げた。
《銀月の大広間》から戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
外にはガス灯が灯っている。編集部では、ランプに火を灯し、まだ大勢の人間が残って仕事をしていた。締め切り前の記事を怒鳴るように読み上げる声。紙の束を抱えて走る見習い。奥では印刷機が規則正しく音を立てている。
俺は自分の机まで戻ると、椅子を引いて座った。
狭い机の上には、取材ノートや古い新聞が何冊も積み重なっている。
エラには“鼠の巣”なんて言ったが、俺の机だけを見れば否定できない。
「……さて」
俺は上着を脱ぎ、積んであった紙束を横へどかした。
その下から、古びた一冊の取材ノートを取り出す。
三年前に王都の娼婦街で起こった“切り裂き魔”による連続殺人事件についてまとめたものだ。俺がまだ新聞社に入る前から調べ始め、記者になるきっかけになった事件でもある。
何人もの娼婦が夜道で襲われた。
警察は一人の男を犯人と見て追っていたが、その男は捕まる前に死んだ。
自殺だったとされた。
――事件も、そこで終わった。
少なくとも世間では。
俺はノートに挟んであった一枚の写真を取り出した。
――若い男がこちらを見ている。
年齢は二十代前半。
少し長めの巻き毛に、整った鼻筋。
笑っていないのに、人目を惹きつける容姿をしている。
よく撮れた写真だ。それもそのはず、これは彼の宣伝用の肖像写真だった。
彼は大衆向けの劇場で俳優をしていた。
リック。それがこの男の名前だ。
俺がこの男に興味を持ったきっかけは、こいつと俺の顔が似ているからだ。
事件の犯人とされた男が逃げていた頃、俺は取材でも何でもなく、娼婦街の近くを歩いていた。
突然、通りの向こうにいた男が叫んだ。
『あいつだ!』
何のことかわからなかった。
次の瞬間には人が集まってきて、俺は腕を掴まれた。
殺人犯だと間違えられたのだ。
警官が来て、年齢や身元を確認して、すぐに誤解は解けた。
――けれど。
そのとき初めて、犯人とされた男の写真を見た。
確かに似ていたのだ。俺とこの男の顔は――気味が悪いほど。
それで俺は事件を調べ始めた。
――リックの年齢は俺よりも五歳年上。
そして、リックも俺と同じ孤児院の出身で、養父母に引き取られていた。
俺は生後間もなく孤児院から養父母のもとへ引き取られたし、孤児院の記憶はない。
けれども、そこで、俺はリックに妙な親近感を抱いた。
リックが引き取られた先は、あまりよい家庭ではなかったらしい。
調べれば調べるほど、嫌な話ばかり出てきた。
養父母は酒飲みで、借金を抱え、暴力が絶えなかったらしい。
そして、彼は人目を引く容姿を利用され、金を稼ぐために大人の客の相手をさせられていたという証言まであった。
十代後半から大衆劇の俳優として端役をやっていたものの、リックも酒や薬に頼るようになり、精神的にもひどく不安定だったらしい。
だからといって、そんな生い立ちだけで、何人もの女を殺した犯人だと決めつけられるわけじゃない。
警察が集めた状況証拠はいくつかあった。
けれど、裁判は開かれていない。
本人は何も語らないまま死んだ。
俺はリックや被害者についての証言をまとめた報告書を新聞社へ持ち込んだ。
ちょうど高等学校を卒業する年齢だった俺は、その記事を褒められ、そのまま『王都新報』へ入社した。
写真を持ち上げる。
この男が犯人だと報じられた頃、もう一つ話題になったことがあった。
若い頃のヴァレンティン公爵に似ている、と。
俺は別の紙束から新聞の切り抜きを探した。
若き日のロベルト・ヴァレンティン。
まだ二十代だった頃の肖像画を写したものだ。
金色の巻き毛に整った顔立ち。
真っ直ぐな鼻筋。
今では腹の出た老人だが、若い頃は“花の王子”ともてはやされていた。
リックの写真と公爵の肖像画が載った新聞を並べる。
「……似てるよなあ」
もちろん、そっくりというほどじゃない。
だが、目元や鼻筋、輪郭のどこかに似たところがある。
そして。
俺は机の隅に置いてある小さな鏡を引き寄せた。
自分の顔を見る。
「……嫌になるな」
俺も、似ている。
俺は写真をノートへ戻した。
今度は、別の取材帳を開く。
表紙には、『ヴァレンティン公爵』と書いてある。
エラに公爵のことを話すより前から、俺はこの男を調べていた。
理由の一つは、さっきの写真だ。
もう一つは、貴族社会の記事を書く記者なら、ヴァレンティンの名前を避けて通れないからだった。
王家の遠縁。大地主。慈善事業への寄付。
芸術家への援助。教育施設への出資。
新聞の社交欄だけ読めば、立派な人物に見える。
だが、裏側を探れば、違う顔が出てくる。
若い頃から放蕩で有名だった。
女遊びも激しかった。
そして年齢を重ねるにつれ、その相手は妙に若くなっていった。
十四、十五歳ほどの社交界デビューをしたばかりの年齢。
――特に、金色の髪をした少女を好む。
そう証言した人間は一人や二人ではない。
公爵自身は、少女たちを“愛人”とは呼ばなかった。
『後援している』『保護している』『教育を受けさせている』
そんな言葉を使った。
貧しい家の娘。身寄りのない娘。奉公先を失った娘。
そういう少女を、公爵は自分の別邸へ住まわせた。
衣服を与え、教師をつけ、音楽や礼儀を学ばせる。
そこだけ聞けば慈善事業だ。
だが、数年経つと、その娘たちは別邸からいなくなる。
結婚したと言われる者。
遠方へ移ったと言われる者。
別の富裕な男の庇護を受けるようになった者。
俺が調べた限り、一部は金持ちの男たちが集まる倶楽部を通じて、次の“庇護者”へ渡されていたらしい。
その後、行方がわからなくなった娘もいる。
心身を壊して、救貧施設へ入った女がいるという話も聞いた。
だが、どれも証言ばかりだ。
公爵自身の署名が入った契約書があるわけでもない。
当人たちの多くは口を閉ざす。
相手は王家に連なる公爵だ。証言したところで、何になる。
そう言われれば、それまでだった。
「……時代に乗り遅れた貴族」
俺は以前ノートに書いた言葉を読み上げた。
昔なら、金と爵位さえあれば許された。
少なくとも、見て見ぬふりをされた。
けれど今は違う。
商人が力を持つようになった。新聞がある。写真もある。
庶民だって文字を読む。
高貴な血筋だから何をしても許される時代は、少しずつ終わり始めている。
ヴァレンティン公爵は、それに気づいていない。
あるいは――気づいていても、自分だけは例外だと思っている。
俺は椅子の背にもたれた。
今日、《銀月の大広間》で聞いた話を思い出す。
クロエ夫人は十五歳頃には客を取っていた。
ヴァレンティン公爵の名前を出したとき、マダムは明らかに態度を変えた。
『……あったかもしれないね』
あれは知らない人間の反応じゃない。
クロエとヴァレンティンは、昔から繋がっていた。
おそらく、客として。
十五歳。
公爵が好んだ年齢と重なる。
「……」
俺はもう一度、切り裂き事件の男の写真を取り出した。
それから、公爵の肖像。
机の上に二つ並べる。
――偶然。
そう言われれば、それまでだ。
世の中には似た顔の人間なんていくらでもいる。
俺とこの男が同じ孤児院出身だからといって、それが何かを証明するわけでもない。
まして、顔が似ているから同じ血が流れているなんて、記者が書けば笑いものだ。
だが。一度浮かんだ疑問は、頭から離れなかった。
ヴァレンティン公爵は、何十年も前から若い女を囲っていた。
その中には十五歳ほどの娘もいた。
なら。子どもが生まれたことはなかったのか。
もし、生まれていたなら。
その子どもたちは、どうなった?
公爵家で育てられたとは考えにくい。
表に出せない子ども。
父親に認知されない子ども。母親にも育てられない子ども。
……その子たちはどこへ。
「……孤児院?」
俺は呟いた。
背中が少し冷たくなる。
――考えすぎだ。
自分でもそう思う。
俺の母親が娼婦だったという確かな証拠すらない。
ヴァレンティン公爵と関係があった証拠なんて、何一つない。
切り裂き事件の男だって同じだ。
顔が似ている。それだけ。
それでも。
俺は新しい頁を開いた。
そこへ一行書く。
『ヴァレンティン公爵が過去に庇護した少女たち――その後と、子どもの有無』
少し考えて、その下にもう一つ書いた。
『孤児院への入所記録を調べる』
ペン先を止める。
もし――俺が探している“母親”と。
エラが探している“継母”と。
ヴァレンティン公爵が囲っていた少女たち。
それらが、どこかで繋がっているとしたら。
「……面白くなってきた、なんて言ったら、エラさんに怒られるな」
思わず口元が緩んだ。
すぐに笑みを消す。
これは、面白い話じゃない。
誰かの人生だ。
俺は写真とノートをまとめ直し、立ち上がった。
“鼠”なら、鼠らしく、泥の中を嗅ぎ回ろう。
壁の穴からしか見えないものを、探せばいい。




