13. 二匹の兎
「では、もう一つだけ、聞かせてください」
私は聞いた。
「クロエは、どうしてお父様と結婚したんですか?」
女主人が私を見る。
「アルバート様から聞きました。クロエはその頃、ルチアン辺境伯のところへ行くつもりだったって」
「ああ」
「それなのに、お父様と結婚した。どうしてです?」
女主人はしばらく黙ってから、大きく息を吐いた。
「……正妻になれるからだろうね」
「正妻?」
「ルチアン辺境伯が用意していたのは、愛人としての屋敷だった」
女主人はそう言って、背もたれに身体を預けた。
「どれだけ大切にされたって、愛人は愛人だ。――それに、クロエは子どもが生めなかったから。相手が飽きれば、それで終わりだ」
「……子どもが?」
目を見開いた私に、女主人はばつが悪そうな顔をした。
「……昔、身体を悪くしてね。それから子どもは望めないと言われたそうだよ」
私は口を押さえた。
――そういえば、クロエとお父様の間には、七年間子どもはできなかった。
「ところが、ジャック・シモンズの妻が亡くなった」
お母様——胸の奥が少し痛む。
「そのあとジャックが、クロエを愛人じゃなく、正式な妻として迎えたいと言ってきた。クロエはそっちを選んだ」
女主人は苦笑した。
「あの子はね、女主人になりたかったのさ」
「女主人……」
「誰かに部屋を用意してもらって住むんじゃなく、自分の家で、自分が家の女主人になる。それが欲しかったんだろう」
私は何も言わなかった。
クロエが伯爵夫人になった理由。
私は今まで、お父様が好きで、伯爵夫人の座が欲しかったからとばかり思っていた。
けれど、クロエは、女主人の座というよりは――自分の家が欲しかったのでは?
「それと――」
女主人が立ち上がった。
「ちょっと待ってな」
奥の部屋へ消えていく。
しばらくして戻ってきた女主人は、腕に何かを抱えていた。
それを見た瞬間、私は目を見開いた。
「……兎?」
白い兎のぬいぐるみだった。
長い耳。青い刺繍糸の目。首に結ばれた薄い色のリボン。
見覚えがある――というより。
「これ……」
私の部屋にあるものと、ほとんど同じだ。
幼い頃、お母様からもらった兎のぬいぐるみ。
ずっと大事にして、伯爵家を出るときにも鞄へ入れてきた。
「王室にも品を納めている職人のものだよ。今の王女様も持っているとかなんとか」
女主人が言った。
「子どもへの贈り物として有名でね。特に赤ん坊が生まれたときには、よくこれを贈るんだよ」
「どうして、これを持ってきたのですか?」
「クロエが買ったんだよ」
「クロエが?」
私は兎のぬいぐるみから顔を上げた。
「あなたにやるつもりだったらしい」
「……私に?」
「シモンズ伯爵と結婚するって決まった頃だったかな」
女主人は懐かしそうにぬいぐるみを見る。
「『あの人には娘がいるから』って言ってね。これを買ってきた」
「……」
「ラッピングまでしていたのにね。……でも、結局、持っていかなかった」
「どうして?」
「さあ」
女主人は肩をすくめた。
「『私が渡すものじゃない』って、ここへ置いていったよ」
私は兎を見つめた。
どういう意味だったのだろう。
私にはもう、お母様がくれた同じ兎があったから?
それとも。
クロエは、私の母親になるつもりで買ったのに。
途中で、それをやめたのだろうか。
「持っていきなさいな」
「え?」
「もともと、あんたのために買ったものだ」
女主人は私に差し出した。
私は両手で受け取った。
ふわりと柔らかな感触が掌に触れた。
新品ではない。
七年ほどここに置かれていたせいか、布は少し色褪せている。
それでも、大切にしまわれていたのだとわかった。
「ありがとうございます」
「礼を言うなら、いつかクロエに言ってあげて」
女主人はそう言った。
私は返事をしなかった。
◇◇◇
その夜――屋敷に戻り仕事を終えて使用人部屋へ戻った私は、荷物箱の奥からもう一匹の兎を取り出した。
お母様からもらった兎。
何度も抱いて眠ったせいで、毛並みはすっかり擦れている。片方の耳は昔一度取れてしまい、マーサに縫い直してもらった。
その隣に、《銀月の大広間》から持ち帰った兎を置いた。
二匹は、よく似ていた。
片方は、お母様が私にくれたもの。
もう片方は、クロエが私に渡そうとして、渡さなかったもの。
私は二匹を並べたまま、しばらく見つめていた。
「……何なのよ」
小さく呟く。
私があなたを嫌いだった頃。
あなたは私の知らないところで、私の話をしていた。
買い物で騙されそうになったことまで覚えていた。
私に家事を教えた。
新聞を読ませた。
自分が幼い頃に覚えたことを、そのまま私にも覚えさせた。
そして――私に兎のぬいぐるみまで買っていた。
なのに、どうして何も言わなかったの。
どうして一度も、優しい顔で渡してくれなかったの。
私は、お母様からもらった古い兎を抱き上げた。
それから、クロエが買った兎も一緒に腕の中へ入れた。
二匹抱くと、少し窮屈だった。
それでも、どちらも離さずに、そのままベッドへ横になった。




