12.クロエの生い立ち
「クロエ夫人のことを調べるなら、まずはグレイさんに話を聞いてみませんか」
アスターにそう言われて、私は少し考えた。
確かにアルバート様は、以前からクロエを知っている。
私を使用人として雇ってくれたのも、クロエが事前に手回しをしていてくれたからだ。
――確か、クロエが勤めていた店の顧問弁護士をしていたと言っていたはずだ。
――その日の夕食後、私は思い切ってアルバート様とヘレン奥様に話を切り出した。
「クロエについて、お聞きしたいことがあります」
二人は顔を見合わせた。
「クロエ夫人について?」
「はい。できれば、王都新報の記者の方にも一緒に話を聞かせていただきたいんです」
奥様が少し眉をひそめる。
「新聞記者?」
「アスター・スヴェナという方です」
「ああ」
アルバート様は名前を聞いて、すぐにわかったようだった。
「シモンズ伯爵の事件の記事を書いた青年ですね」
「はい」
「……大丈夫なの?」
奥様は心配そうに聞いたので、私は頷いた。
「私からスヴェナさんに、クロエの記事について訂正してほしいとお願いしたんです。今は一緒にクロエのことを調べています」
「そうなのね」
ヘレン奥様はそれ以上止めなかった。
アルバート様も少し考えてから頷いた。
「わかった。私に話せることなら、話そう」
◇◇◇
数日後の午後、アスターがグレイ家を訪れた。
仕事中の私はいつもの使用人服だったけれど、今日は応接室の椅子に座るよう言われた。
「初めまして。王都新報のアスター・スヴェナです」
「アルバート・グレイです。こちらは妻のヘレン」
「よろしくお願いします」
アスターはいつもの軽い調子を少しだけ引っ込めて、きちんと頭を下げた。
「それで、クロエ夫人について、ですね」
アルバート様は眼鏡を外して、布でゆっくりと拭いた。
「以前にも少し話しましたが、私はクロエ夫人が働いていた《銀月の大広間》という会員制の店で、顧問弁護士をしていました」
表向きは、貴族や富裕な商人が酒や音楽、会話を楽しむ会員制のサロン。
けれど、そこで働く女性たちは、客の相手をすることもある。
つまりは、高級娼館だ。
「私は契約書を作ったり、客との金銭問題を処理したり、女性たちが困ったときに相談を受けたりしていました。身元の扱いや、退店するときの契約について揉めることもありましたから」
私はアルバート様を見つめた。
「クロエのことはそのお店にいるときからご存じだったのですか?」
「ええ。彼女が十五歳くらいの頃から知っています。もう二十年ほど前になりますね」
私は思わず姿勢を正した。
十五歳。今の私と同じ年齢だ。
――そのときには、もうクロエはそのサロンにいた。
「……クロエという女性は、どのような人でした?」
アスターが聞いた。
「……目立つ人でしたよ」
アルバート様は少し懐かしそうに笑った。
「黒い髪に灰色の目が印象的で。若い頃からとても華やかで、大人びて見えましたね。話もうまかったし、客の前で臆することがなかった」
私は十五歳のクロエを想像しようとしたけれど、できなかった。
継母としてのクロエしか私は知らない。
私のお母様は、とても繊細で優しい表情の人だったけれど、クロエは違った。
いつもしっかりと化粧をしていて、棘のある薔薇のようだと思っていた。
私と同じ年ごろのころから、そんなふうだったのだろうか。
「立ち振る舞いも洗練されていて、人気がありました。彼女の客は、何人かいた。だから――シモンズ伯爵と結婚すると聞いたときは驚きましたよ」
「……どうしてです?」
私は目を見開いた。
「……その少し前まで、別の方と話が進んでいたからです」
「別の方?」
「ルチアン辺境伯という方です。地方に大きな領地を持つ貴族で、彼もクロエ夫人のところへ定期的に通っていました」
初めて聞く名前だった。
「辺境伯は、クロエを愛人として迎えるつもりだったそうです。領地に彼女のための屋敷まで用意するという話になっていた」
「……クロエは、それを受けるつもりだったんですか?」
「私はそう聞いていました」
アルバート様は頷いた。
「『もうすぐこの街ともお別れね』なんて、本人も話していたそうですから」
「それなのに、お父様と結婚した……」
私は首を傾げた。
父とクロエの関係を、私はずっと単純に考えていた。
父がクロエに惚れて、母が亡くなったあとに迎え入れた。
クロエも、伯爵家の夫人の座が手に入るし、その話を受けた。
それだけだと思っていた。
「どうして?」
「そこまでは、私にはわかりません」
アルバート様は眼鏡をかけ直した。
「ただ、《銀月の大広間》の女主人なら、もっと詳しく知っているでしょう」
「女主人?」
「今も店を切り盛りしています。クロエ夫人が幼い頃から知っている人です」
アスターがすぐに身を乗り出した。
「紹介していただけますか?」
「……構いません。ただし、彼女が話したくないことまで無理に聞き出すのはやめてください」
「もちろんです」
アスターは真面目な顔で頷いた。
私はその横顔を見ながら、少しだけ疑った。
この人は、話したくないと言われても聞きたがる人なのではないだろうか。
でも、口には出さなかった。
◇◇◇
《銀月の大広間》は、王都の中心から少し離れた通りにあった。
私はもっと派手な建物を想像していた。
けれど実際には、外から見れば大きな邸宅のようだった。
石造りの古い建物。
入口の上には、銀色の三日月を描いた小さな看板が掛かっている。
「……ここですか?」
「そうだよ」
私とアスターを連れてきてくれたアルバート様は頷いた。
「古い貴族の館をそのまま使っている」
アルバート様は呼び鈴を押した。
中から出てきた女性が、私たちを広間に案内してくれた。
昼の店内は静かだった。
広い大広間には椅子や小さな卓が整然と並び、壁には絵が掛かっている。夜にはここに灯りが入り、音楽が流れ、大勢の客が集まるのだろう。
しばらくすると、奥から一人の女性が出てきた。
六十代くらいだろうか。
白髪をきっちりまとめ、深い色のドレスを着ている。年齢を重ねているのに、背筋は驚くほどまっすぐだった。
「マダム、この子がエラです」
アルバートが私を紹介した。
「はい。エラ・シモンズです」
私が名乗ると、女主人は目を見開いた。
「……エラ?」
「はい」
しばらく私の顔をじっと見たあと、女主人は急に笑った。
「……あなたが!」
「え?」
「そう。あなたがエラなのね」
私は戸惑った。
「私のことを知っているんですか?」
「知っているも何も」
女主人は私の顔を見て、楽しそうに目を細めた。
「クロエから何度、話を聞かされたことか」
「……クロエから?」
「ええ」
胸が大きく跳ねた。
「クロエが、私の話を?」
「よくしてたわ。あの子は自分から『娘』とはあまり言わなかったけどね。話を聞けば、全部あなたのことだった」
女主人は椅子を勧めてくれた。
「この前は買い物で騙されそうになったとか、帳簿の数字を一桁間違えたとか、縫い物で指を刺して泣いたとか」
「……」
顔が熱くなった。
「そんなことまで……」
「話してたわ」
「悪口では?」
「半分はね」
女主人は笑った。
「でも、楽しそうだった」
私は何も言えなかった。
クロエがここで私の話をしていた。それだけで、妙な感じがした。
「クロエについて知りたいんです」
私は姿勢を正した。
「どんな子どもだったのか。どうしてここへ来たのか」
女主人の表情が少し変わった。
「それから……彼は、『王都新報』の記者です」
アルバート様がアスターを紹介した。
女主人の表情が少し強張った。
「王都新報で『シモンズ伯爵殺人事件』の記事を書いた、アスター・スヴェナと申します」
アスターは帽子をとって丁寧に頭を下げると、女主人を見つめた。
「エラから、クロエ夫人についての記事を書き直すように言われまして。一緒に話を聞きに参りました」
女主人の表情が少し和らいだ。
「……そういうことね。わかりました。お話しましょう」
ソファに座るよう促される。
女主人はしばらく考えてから、ゆっくりと話し始めた。
「クロエは七歳か八歳のころに、うちに来た。あの子の母親は貧しい女でした。街の外れで客を取って暮らしていたリアナという名の女よ」
女主人は淡々と言った。
「父親が誰かは知らないわ。クロエ自身も知らなかったと思う」
「クロエは、お母さんと一緒に暮らしていたんですか?」
「小さい頃はね。でも、あの辺りは子どもを育てるにはひどい場所だった」
女主人は窓の外を見た。
「リアナは、自分の娘まで自分と同じ場所で働かせたくなかったんだろうね」
「それで、ここに?」
「たくさんの持参金を持ってクロエを預けにきた。成長すれば美人になるはずだから、ここに置いてくれって。――かなり借金した様子だったわ」
「……借金して?」
「ここは、働きたいと言えば誰でも入れる店じゃないから。……教育するのにも金がかかりますからね。将来稼げるような子しか、置かないわ」
女主人は少し苦い顔をした。
「あの子の母親は歯抜けだったけど、確かに整った顔立ちをしていた。だから、まあクロエも育ててみてもいいかもしれないと思って、うちに置くことにした」
胸が重くなった。
七、八歳。
私がクロエと初めて会ったのと、ほとんど同じ年頃だ。
その年に、クロエはここに預けられたの?
「最初のクロエは下働きだったよ。掃除、洗濯、寝具の交換、裁縫、食事の配膳。何でもやらせた」
「……何でも?」
「ここで暮らす以上、自分のことは自分でできなきゃならないからね」
私は自分の手を見た。
掃除。洗濯。寝具の交換。裁縫。配膳。
どれも、クロエが私にやらせたことだ。
「その合間に、読み書きと算術も教えた。書き取り、暗唱。覚えが悪ければ、何度でもやり直し」
「……」
「少し大きくなって、美人になるのがわかってきてからは、もっと増えたよ」
「もっと?」
「礼儀作法。会話。音楽。新聞を読んで、世の中で何が起きているか覚えること。貴族相手なら、政治や商売の話をされても黙って笑っているだけじゃ駄目だからね」
私は思わず顔を上げた。
「新聞……?」
「そうよ」
女主人は不思議そうに私を見る。
私は、自分が受けてきた教育を思い出した。
毎日の書き取り。暗唱。帳簿。
事件の記事を読まされ、その内容を要約させられたこと。
家事。買い物。値段の比較。
何度間違えても、クロエは同じことをやり直させた。
「……クロエ、自分がやらされたことを、そのまま私にやってたんだ」
思わず声が漏れた。
女主人は少し目を細めた。
「そうかもしれないね」
「でも……」
私は首を振った。
どうして。
私は娼婦になるわけではない。
クロエが覚えたのは、生きるための技術だった。
それをなぜ、伯爵令嬢だった私にまで教えたのか。
理由は少しずつ見えてきている。でも、まだ全部はわからない。
「クロエの母親は、そのあとどうなったんですか」
私が尋ねると、女主人は静かに答えた。
「クロエが十歳くらいの頃に死んだ」
「……十歳」
「病気だった。……あの暮らしじゃ、身体を壊す女は多かったからね」
「クロエは……?」
「泣かなかった」
女主人はそう言ってから、少し考えた。
「少なくとも、人前ではね」
その言葉が胸に残った。
「それから十五歳頃には、客の前に出るようになった」
私は無意識に膝の上で手を握った。
今の私と同じ年。
「クロエは人気になったよ。見た目だけじゃない。誰とでも話せたし、相手が何を求めてるか読むのがうまかった」
そこでアスターが口を開いた。
「ヴァレンティン公爵も、客だったんですか?」
女主人の表情が止まった。
「……どこで、その名前を?」
「シモンズ伯爵との金のやり取りを調べていたら出てきました」
女主人はすぐには答えなかった。
アルバート様が「アスターくん」と小さな声で叱責した。
けれど、アスターは言葉を続けた。
「クロエ夫人が、公爵のことを昔から知っていた可能性は?」
女主人は目を伏せた。
「……あったかもしれないね」
――その姿に、叔母様の姿が重なる。
『終わったことだ』とお父さまと公爵の書簡を燃やした叔母様の姿が。
「客だった?」
「昔の客のことを、今さら私から話すわけにはいかないわ」
声は穏やかだったが、それ以上聞くなという意味だとわかった。
アスターも追及しなかった。
……けれど、私の中に確信があった。
ヴァレンティン公爵とクロエは、つながりがあった――。




