11.父の醜聞を売る
次の休日、私はもう一度『王都新報』の編集部を訪ねた。
前に来たときより、迷わず扉を開けられた。
――中は相変わらず騒がしい。
机の上には紙束が積み上がり、記者たちが声を飛ばし合っている。奥では印刷機の動く音が響き、インクと煙草の匂いが鼻についた。
「アスター・スヴェナさんはいますか?」
「俺を訪ねに?」
聞き覚えのある声に振り向く。
アスターは机に向かって何かを書いていたらしく、ペンを持ったまま立ち上がった。
「エラさん……あなたはきっとまた俺を訪ねに来ると思っていました」
アスターは真剣な表情だった。
「……あなたの叔母上の家で、何かわかりましたか?」
私は先日、アスターと「叔母様の家に行く」と言って別れたことを思い出した。
――私が何かの情報を得て、また自分を訪ねてくることをわかっていたのだろうか。
鼻のいい“鼠”だ。
「……そのことで、お話があります」
私の顔を見て、アスターは頷いた。
「……わかりました。外へ行きましょうか」
私たちは、新聞社から近い前回と同じ喫茶店へ移動した。
「ここは騒がしいですから。逆に話をしやすいんですよ」
アスターはそう言って、慣れたように角の席を引いた。
確かにこの喫茶店は仕事帰りらしい労働者などで込み合っていて、小さな声はかき消されてしまうほど騒がしかった。
席に座った私は鞄から日記帳を取り出した。
「それは?」
「私の日記です」
「見せてもらえるんですか?」
「必要なところだけ……」
私はまず、昨日エリザ叔母様から聞いたことを話した。
ヴァレンティン公爵との書簡が、本当にあったこと。
叔母様がそれを燃やしたこと。
そこに何が書かれていたのか、詳しい内容までは教えてくれなかったこと。
「叔母様は、私が公爵のところへ行くことはもうないのだから、終わったことだと言いました」
「……なるほど」
アスターは腕を組んだ。
「叔母様の反応からすると、お父様が私を金銭と引き換えに公爵に渡そうとしていたのは、たぶん本当です」
口にすると、まだ胸が痛んだ。
けれど、昨日ほど息苦しくはなかった。
私は日記帳を開いた。
「それから、これを読み返しました」
十歳の冬。
髪を切られた日。
十一歳から十三歳にかけて、舞踏会や音楽会に行かせてもらえなかったこと。
父の客の前へ出るなと言われたこと。
十四歳になり、父が私の容姿を褒め始めたこと。
その一方で、クロエが外出を厳しく制限するようになったこと。
アスターは黙って頁を追った。
「……ずいぶん細かく書いてありますね」
「お母様から、毎日少しでも書きなさいって言われていたので」
「……これは助かるな」
興味深そうに日記帳を見つめるアスターの手から、私は日記帳を引っ張った。
「記事の材料として喜ばないでください」
「……申し訳ない」
アスターは私に頭を下げた。
私は少し驚いて、日記帳をテーブルに置いた。
――この人は、きちんと言えば謝ってくれる。
「……最初は、クロエが私を嫌っているからだと思っていました。髪を切ったのも、舞踏会へ行かせなかったのも、私が綺麗になるのが気に入らなかったからだって」
「でも、今は違う?」
「……はい」
自分の髪に触れる。
「ヴァレンティン公爵が若い金髪の少女を好むなら、クロエは私を公爵から隠していたんじゃないかと思います」
アスターはすぐには答えなかった。
「十歳の頃から?」
「公爵とお父様がいつから付き合っていたのかは、まだわかりません。でも、借金の肩代わりが始まるより前から知り合いだった可能性はありますよね」
アスターは頷いた。
「それに、屋根裏には内側から鍵がかけられました。お父様のお客様が来る夜は、絶対にそこから出るなって言われていた」
宝石箱のことも話した。
使用人を辞めさせた理由。
私に家事や帳簿を覚えさせた理由。
……今まで悪意だと思っていたことが、少しずつ違う意味に見え始めていること。
「だから」
私は日記帳の上に手を置いた。
「クロエの過去を知りたいんです」
「過去を?」
「どこで育ったのか。どんな人たちと付き合っていたのか。……ヴァレンティン公爵のことを知っていたのかも」
アスターは私をじっと見た。
「それを調べて、どうしたいんです?」
私は少し迷ってから答えた。
「あなたの記事を、訂正してほしい」
「記事?」
「“悪しき継母”って書いた記事です」
アスターの眉が少し上がる。
「私は、クロエがあなたの書いたような“悪しき継母”ではなかったと思います」
言ってから、自分でも驚いた。
少し前までなら、絶対に口にしなかった言葉だ。
「まだ、全部わかったわけじゃありません。クロエがお父様を殺したのは、たぶん確かだと思いますが……」
私はそこで少し言葉を止めた。
「許せるかどうかは、わかりません。でも、少なくとも、私を苦しめるためだけにあんなことをしていたわけじゃなかった。それなら、あなたが書いた記事も、そのままではよくないと思うんです」
アスターはしばらく黙っていた。
やがて、少し真剣な顔で聞いた。
「つまり、シモンズ伯爵が自分の娘をヴァレンティン公爵に差し出そうとしていて、クロエ夫人はそれを阻止しようとしていた、と書けということですか?」
「……はい」
「それは、お父上の名誉をかなり傷つけますよ」
胸の奥が痛んだ。
お父様の笑顔が浮かぶ。
お土産に菓子を買ってきてくれたこと。
頭を撫でてくれたこと。
幼い頃、膝の上に座らせてくれたこともあった。
クロエに髪を切られて泣いた私へ、『かわいそうにな』と言ってくれた。
私は、あの言葉が嬉しかった。
でも。
お父様は何もしなかった。
そして十四歳になった私を見て、急にまた優しくなった。
その頃、ヴァレンティン公爵から金を受け取っていた。
――そして、たぶん、私を公爵へ売ろうとしていた。
「……書いてください」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
アスターが目を見開いた。
「いいんですか?」
「はい」
「一度記事になれば、取り返せません。シモンズ伯爵は、亡くなったあともずっと“娘を売ろうとした父親”として名前が残るかもしれない」
「……それでも」
私は拳を握った。
「本当なら、書いてください」
父の娘だからといって、父が私にしようとしたことを擁護して守る必要はない。
もう、伯爵家の名誉を守る必要はない。
「クロエについても、本当のことを書いてください」
アスターは私を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「わかりました」
私は少し肩の力を抜いた。
けれど、アスターはすぐに続けた。
「ただし、“本当なら”です」
「え?」
「今あるのは、ヴァレンティン公爵が伯爵の借金を肩代わりしていたという帳簿。それから、叔母様が“そういう書簡があった”とあなたに話したという証言だけです」
「叔母様が認めました」
「俺は直接聞いていません。それに叔母上があとで否定したら、証明できない」
「でも、帳簿には――」
「金を貸したことしか書いてないでしょう?」
私は黙った。
「それだけでは、“娘を渡す代わりの金だった”とは書けません。ヴァレンティン公爵は王家とも繋がりのある大貴族です。証拠なしにそんな記事を出したら、こちらが潰されます」
「……じゃあ、何もできないんですか」
「……そうは言ってません」
アスターはテーブルの上の日記を指で軽く叩いた。
「まず、クロエ夫人の過去を調べましょう」
「クロエの?」
「あなたの推測が正しいなら、そこからヴァレンティン公爵との繋がりが出てくるかもしれない。それに、俺もあの記事については調べ直す必要がありそうです」
「……訂正してくれるんですか?」
「事実と違っていたなら」
「その言い方、ずるいですね」
「記者なので」
またそれだ。
でも、以前ほど腹は立たなかった。
「では、お願いします」
私は鞄を開いた。
「それから――」
折りたたんだ新聞記事を何枚も取り出し、テーブルへ並べた。
アスターが目を丸くする。
「……何です、これ」
「あなたの記事です」
「俺の?」
「はい」
王都の貧民街についての記事。
娼婦街で起きた傷害事件。
行方不明になった女性についての調査記事。
数年前に起きた、娼婦を狙った連続殺人事件の記事もある。
娼婦ばかりが夜道で襲われ、何人かは刃物でひどく傷つけられた事件だった。
「ずいぶん集めましたね」
「あなたのことを調べましたから」
「俺を?」
「はい」
アスターは驚いたように瞬いた。
「……クロエに言われたんです」
「何て?」
『取引する相手のことは、よく調べなさい。そうじゃないと後悔するわよ』
市場で初めて一人で買い物をさせられたとき、親切そうな店主に高い手数料を取られそうになった私へ、クロエはそう言った。
『品物だけじゃないわ。相手がどんな人間かも見なさい』
当時は、卵や小麦粉を買うだけなのに大げさだと思った。
「……“取引相手のことはよく調べろ”って」
「俺たち、取引するんですか?」
「一緒にクロエを調べるなら、取引みたいなものでしょう」
「厳しいなあ」
アスターは記事を一枚手に取った。
「それで、調べた結果は?」
「あなた、娼婦についての記事をたくさん書いていますよね」
笑っていたアスターの表情が、わずかに止まった。
「貧民街の記事も多い。でも、その中でも、娼婦の事件は特に詳しく追っている」
私は連続殺人事件の記事を指した。
「これだって、事件が終わったあとも何度も続報を書いています。被害者の生い立ちや、残された家族のことまで」
「よく読みましたね」
「どうしてですか?」
アスターは答えなかった。
「今回、あなたが私のところへ詳しい事情を聞きに来たのも、クロエが元高級娼婦だったからですか?」
「……」
「クロエに興味を持った理由が、それなのかなって」
しばらく沈黙が続いた。
アスターは手にしていた記事をテーブルへ戻した。
「俺の母親は、たぶん娼婦だったんです」
「……え?」
思ってもいなかった答えだった。
「たぶん、ですけどね」
アスターは笑った。
でも、いつもの軽い笑い方ではなかった。
「俺、生まれてすぐ孤児院に預けられたんですよ」
「……孤児院?」
「そこに残っていた記録には、母親の名前も父親の名前もありませんでした。ただ、当時あの孤児院には、近くの娼館街から預けられた赤ん坊がかなり多かったらしいんです」
アスターは肩をすくめた。
「俺はすぐに今の両親に引き取られました。商売をしている普通の夫婦です。子どもができなかったから、俺を養子にした」
「……優しい方たち?」
「ええ。とても」
今度は少しだけ、いつもの笑顔になった。
「母さんは今でも帰るたびに食わせすぎるし、親父は会うたび仕事辞めて店を継げって言います」
思わず笑ってしまった。
「じゃあ、アスターさんにとってのご両親は、その方たちなんですね」
「そうです」
アスターは迷いなく頷いた。
「俺の親は、俺を育ててくれた二人です。そこは変わらない」
でも、と続けた。
「それでも、ときどき考えるんですよ。俺を産んだ女はどんな人だったんだろうって」
アスターは窓の外を見た。
「生きてるのか。死んでるのか。俺を捨てたかったのか、それとも、捨てるしかなかったのか」
「……」
「だから、娼婦街で事件があると気になるんです。取材していれば、いつか偶然何か聞くかもしれないって思ってるところもある」
「お母様のことを?」
「はい」
「探しているんですか?」
「積極的に探すってほどじゃないです。今の両親に悪い気もするし」
「そんなこと……」
「そう思っちゃうんですよ」
アスターは苦笑した。
「でも、知りたい気持ちはある」
私は、その言葉を聞いて、日記帳に手を置いた。
「……私と同じですね」
「え?」
「私も、クロエのことを知りたい」
私は少し考えてから続けた。
「知ったからって、今までのことが全部なくなるわけじゃない。でも、知らないままでいるのは嫌なんです」
アスターが私を見た。
「そうですね」
「あなたのお母様のことも、何かわかるといいですね」
「ありがとうございます」
「その代わり」
「はい?」
「クロエのこと、ちゃんと調べてください」
「交換条件?」
「取引です」
アスターは一瞬ぽかんとしたあと、声を上げて笑った。
「わかりました。じゃあ、取引成立で」
「私はあなたの記事をちゃんと確認しますからね」
「……はい」
私は少しだけ笑った。
最初に会ったときは、嫌な男だと思った。
人の不幸を嗅ぎ回って、面白おかしく記事にする”鼠”。
今も、その印象が全部消えたわけではない。
――でも。
この”鼠”なら、一緒にクロエの過去を追ってもいいかもしれない。
私はそう思い始めていた。




