第2章 第2話:折れた聖剣と、静かなる憤怒
かつて栄華を極め、人々の笑顔と活気に満ち溢れていた王都は、今や見る影もなく果てていた。
天を覆うのは、どんよりとした不吉な紫黒の暗雲。街を囲む外壁の向こうからは、飢えた魔獣たちが放つ悍ましい咆哮と、金属を引っ掻くような爪音が絶え間なく響いてくる。民衆は家々に閉じこもり、ただ恐怖に身を震わせながら、二度目の世界の終焉を待つように息を潜めていた。
その厳重な魔獣の包囲網の、わずか紙一枚ほどの隙間を、二つの影が音もなく通り抜けていく。
「――大丈夫かい、セリア」
「ええ、問題ないわ。エイルの『隠密』の影に入っていれば、魔獣の目の前を通り過ぎても本当に気づかれないのね」
灰色の髪に深いフードを被ったエイルと、質素な旅装に身を包んだセリアは、息を合わせて崩壊した市街地の路地裏を駆け抜けていた。
エイルの右腕は、セリアが注ぎ続けた愛の祈りによって、全盛期とは異なる『聖なる影の魔力』を宿して部分的に覚醒していた。かつてような圧倒的な狙撃能力はまだ完全には戻っていない。だが、気配を周囲の風景に完全に同調させ、敵の五感を欺く『隠密・極振り』の技術は、むしろ以前よりも洗練され、不気味なほどの精度を誇っていた。
二人は誰にも発見されることなく、王都の中央に位置する王立騎士団の臨時の防衛本部へと滑り込んだ。
かつては秩序正しく、騎士たちの気高き精神が満ちていた作戦室は、今や完全なパニック状態に陥っていた。
「レイハルト様が……人類無敗の太陽たるあの御方が、まさか奈落の顎で敗北されるなど……っ!」
「聖剣も折れたという報告は本当なのか!? もはや我らに勝ち目は無い! この王都も、数日と持たずに魔獣の胃袋に収まるのだ!」
机を叩いて怒鳴り散らす将軍たち、頭を抱えてすすり泣く若手騎士たち。総大将であるレイハルトを失った組織は、骨組みを抜かれた泥人形のように脆く崩壊しかけていた。
「皆さん、落ち着いてください」
張り詰めた絶望の空気を切り裂くように、凛とした、しかしどこか懐かしい鈴を転がしたような声が作戦室に響いた。
振り返った将軍たちの目が、驚愕に見開かれる。
「せ……、セリア聖女様っ!?」
「そんな、一年前、聖教会の地位を捨てて行方をくらまされたはずの、あの聖女様がなぜここに……っ!」
「神は我らを見捨ててはいなかった! 聖女様、どうか我らにお導きを……っ!」
縋るようにセリアの元へ駆け寄る将軍たち。セリアはかつての気高き聖女としての仮面を完璧に被り直し、毅然とした態度で彼らの応対を引き受けた。
その混乱の最中、エイルはセリアの「従者・しがない下級斥候」という体を装い、誰の目にも留まらないように静かに作戦室の物陰へと移動した。彼の存在感は完全に消去されており、誰も彼を不審者として咎めることすらしない。
エイルの目的は、将軍たちの無意味な愚痴を聞くことではなかった。
彼の特異な観察眼は、作戦室の奥にある、誰も触れようとしない「一角」を捉えていた。
そこには、地下迷宮『奈落の顎』から生還したわずかな兵士たちが持ち帰ってきた、レイハルトの「遺品」が並べられていた。
エイルは音もなくその祭壇へと近づき、そっと手を伸ばした。
並べられていたのは、半ばから無残に、まるでガラスのようになだらかに叩き折られた、白銀の聖剣の破片。そして、レイハルトが肌身離さず持っていた、血痕のついた作戦日誌だった。
エイルは左手で折れた聖剣の断面に触れ、残されたわずかな魔力の残滓を精査した。
断面には、光のエネルギーを内側から腐食させ、因果を完全に反転させるという、極めて悪質な『虚無の呪い』の痕跡がベッタリとこびりついていた。
(……そういうことか。この新敵『虚無の王』は、レイハルトの真っ直ぐな光を逆に吸収し、その強さに比例して威力を増す『初見殺しの反転結界』を迷宮に張っていたんだな。これじゃあ、お前がどれだけ血の滲むような努力を重ねて剣を鋭くしても、届くはずが無い……)
エイルは次に、血に染まった作戦日誌をめくった。
そこに書き殴られていたのは、レイハルトがこの一年間、どれほどの強烈なプレッシャーと、孤独な恐怖の中で孤軍奮闘していたかを示す、悲痛な足跡だった。
『影の英雄。君がいない世界は、これほどまでに残酷で、これほどまでに理不尽に満ちているのか。私は、君がかつて一瞬で消し去っていたはずの「見えざる呪い」の正体を、未だに一つも掴めずにいる』
『民は私を無敗の太陽と呼ぶ。セリアも私の背中を信じてくれた。だから、私は偽物のままで死ぬわけにはいかない。君が守り抜いたこの世界を、今度こそ私の本当の力で、命を換えてでも守り抜いてみせる』
『明日、奈落の顎へ突入する。予感がするのだ。そこには、私の光では決して照らせない、底なしの虚無が待っていると。それでも、私は行かねばならない。セリアの生きる世界を、これ以上脅かさせるわけにはいかないからだ』
日誌の最後のページは、激しい血痕で汚れており、そこで記述は途絶えていた。
それを読み終えたとき、エイルの胸の奥で、かつてないほどの激しい熱量を持った「静かなる憤怒」が爆発した。
レイハルトは、本当にバカで、本当に真っ直ぐで、本当に「良い奴」だった。
エイルという影の存在を知り、自分の実力が偽物であったと突きつけられてなお、彼はエイルを逆恨みするどころか、その背中に追いつこうと、狂ったような努力を重ねていたのだ。すべては、エイルが命を懸けて守った世界のため、そしてセリアの幸福のために。
そんな本物の英雄を。
セリアを幸せにするはずだった、眩しい太陽を。
どこの馬の骨とも知れない『虚無の王』などという不届き者が、理不尽な初見殺しの罠でハメ込み、無残にへし折り、泥の中に引きずり落とした。
エイルの右手首に巻かれた焦げた緋色のリボンが、彼の激しい怒りに呼応するように、黒白の鋭い魔力をパチパチと放ち始める。
(……レイハルト。お前は slippery な光の中にいなきゃ駄目な男だ。こんな薄暗い奈落の底で、無様に転がっていい奴じゃない)
エイルは折れた聖剣の破片を静かに置き、フードの奥から、冷徹極まりない、しかし底知れない殺意を宿したスナイパーの瞳を覗かせた。
(俺の相棒をそこまでコケにしてくれた代償は、高くつくぞ。虚無の王……お前の仕掛けた理不尽なシステムごと、俺がこの闇の中で、完膚なきまでにブチ抜いてやる)
その時、エイルの鋭い五感が、作戦室の床のさらに奥、王都の地下全域に張り巡らされている「不穏な魔力の脈動」を捉えた。
彼は即座に、作戦室の中央で将軍たち相手をしていたセリアへと視線を送る。
セリアもまた、エイルのわずかな視線の動きだけで、彼の意図を完璧に察知した。彼女は将軍たちへ「少し、大聖堂の遺物を確認してまいります」と告げると、自然な動作でエイルと共に作戦室の裏廊下へと抜け出した。
「エイル、何か気づいたのね?」
「ああ……。防衛本部のバカどもは、レイハルトが囚われたことだけに目を奪われて、足元の本当の絶望に気づいていない。……この王都市街地の地下全域に、すでに敵の『崩壊のカウントダウン罠』が仕掛けられている」
エイルは廊下の床に片膝をつき、右手の指先を床へと触れさせた。
動かなかったはずの右腕が、セリアの魔力供給とエイルの怒りによって、ジワジワと熱を帯びていく。
「術式発動まで、あと一時間というところか。発動すれば、王都の地盤ごと、住んでいる数万の民衆が奈落の顎へと強制的に滑落する。レイハルトを失って絶望しているところに、トドメを刺すつもりの罠だ」
「そんな……! だったら、今すぐこれを解除しないと!」
「ああ。今の俺の指先なら、この程度の因果の捩れ、音もなく解きほぐせる。……セリア、俺の右腕を支えてくれ」
dusky
「ええ、任せて、エイル!」
セリアはエイルの背後から、彼の右肩へと両手をそっと添えた。彼女の体内から、純粋で、かつてないほど一途な『聖女の祈り』が、エイルの体内へとダイレクトに流れ込んでいく。
一人で孤独に戦っていたあの日とは違う。今のエイルの裏には、自分を120%信頼し、その命を預けてくれる最高の相棒がいた。
「よし……、解体を始めるぞ」
エイルの右指から、漆黒と純白の混ざり合った不可視の魔力糸が放たれ、床を透過して地下の呪いの核へと正確に伸びていく。
折れた太陽を泥の中から救い出し、自分たちの静かな幸福を守るための、光と影の反撃の幕が、今ここに静かに切って落とされたのだった。




