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月影のスナイパー ~報われぬ愛を、君に幸福に捧ぐ~  作者: 最後に残った形


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第2章 第1話:折れた太陽と、静寂を破る風


 青い硝子がらすの海は、今日も世界の最果てで静かに煌めいていた。

 王都を揺るがした『狂える終焉』との大決戦から、早くも一年以上の月日が流れていた。あの激動の日々が嘘のように、この最果ての断崖に佇む小さな木屋には、穏やかで優しい時間が満ち満ちている。


「エイル、お昼ご飯できたわよ。今日はあなたが昨日採ってきてくれたお魚のハーブ焼き。ほら、お皿を持つから動かないでね」

「あはは、ありがとうセリア。いつもすまないね、片手だとどうにも手際が悪くて」


 エイル・ラングレンは、不器用に左手だけで薪を暖炉にくべながら、エプロン姿で微笑むセリアを愛おしそうに見つめた。

 彼の右腕は、あの日以来、肩の付け根から先が一切の感覚を失い、だらりと力なく垂れ下がったままだ。右手首には、セリアが「一生解けない約束の糸」として結び直してくれた、あのボロボロに焦げた緋色のリボンが今も大切に巻かれている。

 魔力は枯渇し、かつて世界を裏から救った無敵の異形長弓『影の兵装』を顕現させることも二度とできない。今の彼は、名実ともにただの「戦えない青年」だった。


 だが、今の彼には、聖女の地位を捨てて自分と共に生きることを選んでくれた、世界で一番大切な少女が隣にいる。

 昼食を終え、二人が硝子の海を見下ろす特等席のベンチに座り、穏やかな風に吹かれていた、その時だった。


 ――バサバサバサッ、と。


 最果ての静寂を破り、大気を乱暴に切り裂いて一羽の「伝書鷹でんしょたか」が丘へと舞い降りてきた。その脚に括り付けられているのは、一般の郵便物ではない。王立騎士団の最高機密を示す、白銀のろうで封印された極秘の軍事書簡だった。

 鷹はエイルではなく、まっすぐにセリアの肩へと止まる。セリアは怪訝そうな顔でその書簡を受け取り、封を切って目を通した。


 その瞬間、セリアの美しい琥珀色の瞳が、みるみるうちに驚愕と絶望に染まっていく。


「そんな……嘘、でしょ……!? レイハルト様が……王立騎士団が、壊滅……っ!?」

「何だって……!?」


 エイルは思わず身を乗り出した。

 書簡に書かれていたのは、王都に残されたかつての同僚たちから、元聖女であるセリアへ宛てた悲痛な救援要請だった。


『狂える終焉』を倒し、名実ともに人類の絶対的な救世主となったレイハルトは、その後も民の期待に応えるべく、本物の無敗の英雄になろうと血の滲むような努力を重ねていた。エイルという「影の盾」を失い、自分の勝利がすべて彼のお膳立てによるものだったという真実を知ったからこそ、彼は自らの誇りをかけて、今度こそ自分の力だけで世界を救おうと奮闘していたのだ。

 だが――世界の悪意は、レイハルトの真っ直ぐな正義よりも、遥かに狡猾で、冷酷だった。


 魔王軍の残党を糾合し、新たなる支配者として君臨した謎の存在――『虚無の王』。

 数日前、レイハルト率いる王立騎士団の主力は、その『虚無の王』が仕掛けた未踏の地下迷宮『奈落のあぎと』の攻略に臨んだ。しかし、そこに張り巡らされていたのは、光の魔力や聖剣の威力を完全に吸収し、侵入した者の五感を狂わせる、理不尽極まりない「概念級の初見殺し罠」だった。


 影のサポートを持たないレイハルトは、その罠の性質を見抜くことができず、真正面から突撃。その結果、聖剣は半ばから叩き折られ、騎士団の主力は全滅に近い打撃を受け、レイハルト自身も迷宮の最奥部に囚われの身となってしまったという。

 現在、王都は再び這い出してきた魔獣の群れに包囲され、明日をも知れぬ絶望の底に沈みつつあった。


「どうして……。レイハルト様はあんなに強いのに……っ! 世界は、またあの人を、私たちを絶望に突き落とすの……っ!?」


 セリアは書簡を強く握りしめ、悔しさに唇を噛み締めて涙を流した。

 彼女はもうレイハルトを男としては愛していない。だが、共に戦場を駆け抜けた大切な戦友であり、何より、エイルが命を削ってまでその首を繋ぎ止めた「世界一の良い奴」なのだ。あいつがこんな理不尽な罠で無残に殺されるなど、あってはならないことだった。


 セリアの涙を見た瞬間、エイルの瞳の奥で、かつて消え失せたはずの「仄暗い影」が、静かに、しかし凄まじい熱量を持って再び揺らめき始めた。


「……セリア。お弁当の準備をしてくれるかい」

「え……? エイル?」


 セリアが涙を拭い、驚いて顔を上げる。

 エイルはゆっくりと立ち上がり、だらりと垂れ下がったままの右腕を、左手で愛おしそうにさすった。その顔には、先ほどまでの穏やかな隠居青年の表情はどこにもない。かつて一撃で絶望を摘み取っていた、冷徹で無敵の『影の英雄』の顔がそこにあった。


「あいつが倒れたら、この国が滅びる。この国が滅びたら、俺たちがせっかく掴み取ったこの硝子の海の静かな生活も、君の笑顔も、全部脅かされることになる」


 エイルは一歩、前へと踏み出した。


「お前が死んだらセリアが泣くから立つんだよ、って……あの日、大聖堂であいつに言ったばかりなのにさ。本当に、手のかかる英雄様だ」

「エイル……、でも、あなたの身体は……。魔力だって、もう弓を引く力なんて……っ!」


 セリアは引き止めるようにエイルの服の裾を掴んだ。彼女はエイルが再び傷つき、自分の前から消えてしまうことが何よりも恐ろしかった。


「大丈夫だよ、セリア。あの日とは違う。今の俺には、君が隣にいてくれる」


 エイルは左手で、セリアの小さな手を優しく包み込んだ。


「あの日までは、俺は自分のすべてを隠して、君に蔑まれながら、一人で孤独に影を這っていた。だけど今は違う。君は俺の真実を知って、俺のすべてを受け入れてくれた。……正体を隠す必要が無くなった影のスナイパーが、どれほど凶悪か、あの『虚無の王』とやらに教えてやろう」


 その言葉と同時に、奇跡が起きた。

 エイルの右手首に巻かれた緋色のリボンが、まばゆい漆黒と純白の混ざり合った「新たな魔力」を帯びて発光し始めたのだ。

 一年以上、セリアがエイルの右腕に注ぎ続けた「真実の愛の祈り」と、エイルの「彼女を守る」という執念が交わった瞬間、枯渇していたはずの彼の体内に、世界のシステムらをも凌駕する、全く新しい『聖なる影の魔力』が芽生えたのだ。


 ピクリ、と。

 一年以上動かなかったエイルの右手の指先が、確かに動いた。


「腕が……、動くの……っ!?」

「あ天、まだ弓をまともに引けるほどじゃない。だけど、斥候としての『目』と『足』、そして罠を解除する『影の指先』なら、今この瞬間からでも全盛期以上だ」


 エイルは不敵に唇を吊り上げ、セリアの目を見つめた。


「行こう、セリア。今度は、俺の後ろに隠れてもらうんじゃない。二人で一つの英雄として、あのバカな太陽を、泥の中から引っ張り上げに行くんだ」

「――ええ! どこまでだって、あなたと一緒に行くわ、エイル!」


 セリアは力強く頷き、涙を拭って最高の笑顔を見せた。

 最果ての硝子の海に、二人の決意を乗せた強い風が吹き抜ける。

 かつて世界を救った光と影の物語は、今度は「二人の未来の幸せを守るため」の、さらに容赦のない新章へと突入するのだった。

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