第1章 第6話:真実の残痕と、無垢なる悔恨
世界の終焉を告げるかのような闇が去り、王都には再び柔らかな陽光が降り注いでいた。
大聖堂の跡地では、奇跡的な勝利を収めた「光の英雄」レイハルトを称える民衆の歓声が、未だに地鳴りのように響き渡っている。世界は救われた。人々は絶望の底から引き揚げられ、輝かしい未来の到来を信じて疑わなかった。
だが、その熱狂から取り残されたように、王都の外縁に佇む半壊した時計塔の頂には、重々しい沈黙が支配していた。
「……レイハルト様、本当にここに、あの時の『声』の主がいたのですか?」
ドレスの裾を泥と煤で汚したセリアは、不安げな表情で崩れた石段を上り、時計塔の最上階へと足を踏み入れた。
彼女の隣を歩くレイハルトは、白銀の礼服を引き裂かれた痛々しい姿のまま、ただ無言で前を見つめている。彼の瞳にあるのは、勝利の喜びではなく、自らの傲慢さを突きつけられた者の深い懊悩だった。
「ああ。間違いない、セリア。私の脳内に直接響いたあの凄まじい魔力の指向性通信――その弾道の起点は、間違いなくこの時計塔の頂だった。奴はここで、私に世界のすべてを託し、あの怪物の十三層の次元結界を一人でブチ抜いたんだ」
最上階の床は、激しい衝撃で剥き出しになり、周囲の壁は内側から吹き飛ばされたようにひび割れていた。
そして――二人の視線は、部屋の中央で止まった。
そこには、言葉を失うほどの凄惨な光景が広がっていた。
床の一角に、どす黒く変色した大量の血溜まりができていた。人間の一人や二人が、体内のすべての血を吐き出したかのような、悍ましい量の血痕。そしてその中心に、一本の「異様な物」が突き刺さっていた。
それは、すでに形を失いかけ、煤けて焦げ付いた、漆黒の魔術矢の残痕。
その矢の根元に、まるで弾道の衝撃から自らの肉体を繋ぎ止めるための触媒として、肉に食い込むほど固く巻き付けられていた「布切れ」があった。
それを見た瞬間、セリアの呼吸が止まった。
「あ……、あ、ああ……っ」
セリアの細い身体が、目に見えてガタガタと震え始めた。
琥珀色の瞳が限界まで見開かれ、視線がその布切れに吸い付けられて離れない。
どんなにボロボロに焼け焦げていようとも、それが何であるか、彼女が忘れるはずがなかった。それは数日前、自分が輜重倉庫の裏で、あの「ドジで情けない幼馴染」の右手に、お守りとして結びつけてあげた、色褪せた緋色のリボンだった。
「嘘……でしょ……? なんで、エイルの、リボンが……ここに……?」
セリアは這うようにして血溜まりへと近づき、震える指先でそのリボンに触れた。
かすかに、本当に微かに、自分がいつも身につけている野苺の香油の匂いが、鉄の臭いの中に混じって残っていた。
その瞬間、セリアの脳裏に、これまでエイルと交わしてきた会話のすべてが、凄まじい濁流となって押し寄せてきた。
『危ないから、本当に前線の方には出ないでね? あなた、剣の才能も魔法の才能も、これっぽっちも無いんだから』
『あはは、ありがとね、セリア。でも俺、これくらいしか取り柄がないからさ』
『レイハルト様が聖剣を掲げた瞬間、あの恐ろしい魔獣たちが一歩も動けなくなって……まるで、神様が最初から勝利を決めていたみたいに、綺麗に、一撃で、全部が終わったの』
『自信を持ちなよ。あのレイハルト卿がお似合いになる女性なんて、世界中でセリア、君しかいないよ。俺が保証する』
『あの約束、今考えると本当に子供の可愛い迷信みたいで、今アップデートしてもすごく可愛いよね』
『……忘れるわけないよ。そんなこともあったね』
「あああああ……っ! ああ、あああああああ――っ!!!」
セリアは自分の頭を掻きむしり、その場に崩れ落ちて激しく号泣した。
胸を切り裂かれるような、いや、魂を粉々に粉砕されるような激しい後悔が、彼女の全身を襲っていた。
すべてはエイルだったのだ。
レイハルトが奇跡的な無敗の英雄でいられたのも、魔獣たちが不自然に動きを止めたのも、自分が戦場で一度も傷つかずに笑っていられたのも。神の加護などではなかった。エイルが、自分の知らない影の底で、骨を折り、血を吐き、命を削りながら、そのすべての「偶然」を裏でお膳立てし続けてくれていたのだ。
それなのに、自分は。
何も知らず、無垢な正義面をして、彼の前で他の男への恋焦がれる気持ちを語り、プロポーズの相談まで持ちかけていた。彼の放った矢の反動で痺れる右手を、無自覚に強く握りしめて傷つけ、あろうことか「あなたは私と違って無能だから、私の後ろに隠れていてね」と、残酷な言葉を笑顔で浴びせ続けていた。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい、エイル……っ! 私は、私はなんてことを……っ! あなたの気持ちを、何も知らずに、踏みにじって……っ!」
床の血痕に顔を擦り付けながら、セリアは声を枯らして泣き続けた。
これほど大量の血を流して、エイルが無事でいるはずがない。彼は、自分の命と、自分の愛した「光の英雄」の命を、そして二人の未来の幸福を守るためだけに、自らのすべてを燃料にして消え去ってしまったのだ。
「セリア……」
レイハルトが、沈痛な面持ちで彼女の肩に手を置いた。
彼は突きつけられた真実に、誇りを激しく傷つけられていたが、それ以上に、一人の男としてエイルの「無償の愛の深さ」に、心の底から脱帽していた。
「私は……英雄などではなかった。彼こそが、本当の、唯一の英雄だ。私は彼の作った舞台の上で、ただ踊らされていただけのピエロに過ぎない。……セリア、君の婚約者は、私のような偽物であってはならない」
「レイハルト……様……」
「彼は生きている。いや、生きていなければならない。これほどの執念を持つ男が、簡単に果てるはずがない。……セリア、君が本当に行くべき場所は、私の隣ではないだろう」
レイハルトは誠実に、しかし力強く言った。
セリアは、涙でボロボロになった顔を上げ、手の中にある焦げた緋色のリボンを強く、強く握りしめた。
激しい後悔の嵐の向こう側から、彼女の胸の奥に、今まで気づかなかった、いや、無意識に目を背けていた「本当の恋慕」が、確かな形を持って燃え上がってくるのを感じていた。
自分が本当に愛し、必要としていたのは、眩しい太陽などではない。いつも自分のすべてを優しく受け止めてくれた、あの灰色の髪の、愛おしい幼馴染の少年だったのだ。
「私……行くわ」
セリアは泥を拭い、立ち上がった。
その瞳からは、先ほどまでの無力な聖女の涙は消え失せ、どんな困難にでも立ち向かう、強い覚悟の光が宿っていた。
「エイルは、自分のすべてを消して私を守ってくれた。なら、今度は私が、聖女としての地位も、名誉も、全部を捨てて、世界の果てまであいつを探しに行く。ボロボロになったあいつの右手を、今度は私が、絶対に離さないために」
守られるだけだった無垢な少女は、今、一人の「影の英雄を救うための旅人」へと、強く、能動的に生まれ変わった。
焦げたリボンを胸に抱き、セリアは光に満ちた大聖堂には目もくれず、エイルの消えた仄暗い世界へと、自らの足で力強く歩み出すのだった。




