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月影のスナイパー ~報われぬ愛を、君に幸福に捧ぐ~  作者: 最後に残った形


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第1章 第5話:終焉の産声と、影からの託宣


 その日は、レイハルトとセリアの婚約が正式に発表される、祝福に満ちた祝祭の日になるはずだった。

 王都の中央大聖堂は、美しい花々と、二人の門出を祝うために集まった無数の民衆の歓声で埋め尽くされていた。白銀の礼服に身を包んだレイハルトの隣で、純白のドレスをまとったセリアが、かつてないほど幸福そうな笑顔を浮かべている。

 遠くの輜重しちょう天幕の影から、エイルはその光景を静かに見つめていた。胸の奥を締め付けるような切なさはあったが、それ以上に、彼女の笑顔が守られたという事実に、彼の心は深く満たされていた。


 ――だが、世界はそれほど優しくはなかった。


 突如として、王都の上空が「漆黒」に染まった。

 陽光は完全に遮断され、大気がガラスの擦れ合うような不快な悲鳴を上げる。直後、大聖堂の真上の空間が、まるで巨大な怪物の爪で引き裂かれたかのように激しく爆ぜた。


『狂える終焉しゅうえん』――。


 それは、過去のあらゆる文献にすら存在しない、世界そのものを崩壊させるために現れた真の災厄、ラスボスだった。

 姿は定かではない。ただ、都市を丸ごと呑み込むほどの巨大な影の質量であり、そこから放たれるのは、これまでの魔王軍幹部とは次元の違う、絶対的な「無」の圧迫感だった。そのおぞましい波動が地上に降り注いだ瞬間、周囲の精鋭騎士たちが武器を握ったまま、恐怖のあまりその場に崩れ落ちた。


「みんな、下がれっ! セリア、結界を!」


 レイハルトがいち早く正気を取り戻し、聖剣を抜いて叫ぶ。

 セリアもまた、震える手で聖印を掲げ、全魔力を注ぎ込んで大聖堂を包む防御結界を展開した。


 しかし、『狂える終焉』がその影の触手を軽く一振りしただけで、人類最高峰の強度を誇るはずの聖化結界が、まるで薄い氷細工のように粉々に砕け散った。


「な……、そんな……っ!?」


 結界の破壊に伴う強烈な反動がセリアを襲う。彼女は血を吐き、その場にくずおれた。ドレスが赤く染まっていく。


「セリア――っ!」


 レイハルトが悲鳴のような声を上げ、金色の髪を振り乱して跳躍した。彼の放つ光の魔力は、確かに過去最高出力を記録していた。王都を、核心的に愛するセリアを守るという絶対の正義感が、彼の剣を極限まで鋭くさせていた。

 だが、放たれた渾身の光の一閃は、『狂える終焉』の外套に触れた瞬間、何の手応えもなく霧散し、逆に漆黒の衝撃波となってレイハルトを弾き飛ばした。


 ズガァァァァァン!!!


 大聖堂の堅牢な石柱を何本も叩き折りながら、レイハルトの身体が地面を転がる。白銀の礼服はボロボロに引き裂かれ、無敗を誇った聖剣には、無残な亀裂が入っていた。


「が、はっ……! 馬鹿な……、私の、聖剣が……通じない……?」


 レイハルトの瞳に、初めて「本物の絶望」が宿った。

 努力を重ね、民の希望を背負い、無敗の英雄として君臨してきた彼だったが、目の前にいる存在は、人間が、あるいはこの世界のシステムが太刀打ちできる領域を遥かに超越していた。

 じわり、と『狂える終厄』から伸びた巨大な影の刃が、動けないレイハルトと、その奥で怯えるセリアに向けて振り上げられる。


(これまで、か……。私は、誰も守れずに……世界は、ここで……)


 レイハルトが諦めに目を閉じかけた、その時だった。


「――立て。光の英雄」


 脳内に直接響くような、低く、冷徹で、しかし酷く耳に馴染む「声」が届いた。

 いや、それは声ではない。高密度の指向性魔術通信――『影の託宣シャドウ・オラクル』。

 誰にも感知されず、対象の精神の核にだけ直接言葉を叩き込む、隠密の極致。


「誰だ……!? どこから……」

「お前がそこで膝を折れば、世界が終わる。……何より、お前の後ろで泣いているあいつが、死ぬぞ」


 その言葉に、レイハルトの心臓が跳ねた。

 声の主の姿はどこにも見えない。だが、大聖堂の崩壊した瓦礫の影、光の届かないあらゆる奈落の底から、底知れない、しかし圧倒的に味方であると確信できる「暴虐の魔力」が急速に膨れ上がっていくのを、レイハルトは皮膚で感じ取っていた。


「お前は光の象徴だ。あいつが恋焦がれ、世界が求めた無敗の太陽だ。……なら、最後までその役割を全うしろ」

「しかし、私の剣では、あの怪物には傷一つ……!」

「お前の剣が届かない理由は、奴の周囲に十三層の『次元断絶結界』が常時展開されているからだ。お前の光が届く前に、因果そのものが捻じ曲げられている」


 声は、淡々と、しかし絶対の確信を持って告げた。


「私が、そのすべての結界を、奴の『即死の核』ごと今から射抜く。……猶予は三秒。結界が消失したその一瞬、お前のすべての命を乗せて、あの怪物の胸の奥にある、紅い結晶を撃ち抜け」

「お前は……お前は一体、何のためにそこまで……!」

「決まっている」


 声は、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、切なげに揺れた。


「あいつの未来を、あいつの笑顔を、お前に託すためだ。……あいつを悲しませたら、地の果てまで追い詰めてお前を殺す。だから――立て、レイハルト!」


 その直後だった。

 王都の遥か外縁、民衆が逃げ惑うさらに後方の時計塔の頂。

 エイルは右手首の緋色のリボンを、自身の皮膚を突き破るほどの力で肉体に縛り付けていた。彼の全身からは、これまでの比ではない漆黒の魔力が、血となって噴き出している。

 彼の固有魔術『影の兵装・最終解放シャドウ・アーマリー・オーバーロード』。

 現れたのは、弓の形すら維持していない、ただ空間そのものを歪ませる「黒い奈落の塊」だった。


「が、あああああああああっ!!!」


 エイルの口から、凄まじい絶叫が漏れる。脳の細胞が何割も同時に焼き切れ、右腕の骨がパキパキと音を立てて砕けていく。五感の大部分が消失し、視界は血の赤と完全な闇の二色に染まっていた。

 それでも、彼の観察眼スナイパー・アイだけは、大聖堂にいる『狂える終焉』の「十三層の次元結界」を完璧にロックオンしていた。


「これが、俺の最後の仕事だ……!!」


 左指を離す。

 放たれたのは、矢ではない。世界そのものを穿つ、因果の崩壊光線。


ドガァァァァァァァァァァァン!!!!!!


 大聖堂の上空で、目に見えない次元の壁が、一枚、また一枚と、猛烈な速度で爆砕していく。

 それは、一般の騎士たちには「原因不明の連続空中爆発」にしか見えなかった。だが、精神の通信を繋がれていたレイハルトには、はっきりと見えていた。

 何者かが、命を削りながら、自分のために完璧な勝利の舞台(お膳立て)を整えてくれている。


「十三、十二、十一……五、四、三、二、一……」


 脳内に響く声が、一発ごとに掠れていき、最後には血を吐くような音へと変わる。


「……全結界、破砕。……行け、レイハルト。世界を、あいつを、救ってこい」


 その託宣と同時に、『狂える終焉』の胸の奥に、隠されていた紅い結晶が完全に露出した。


「おおおおおおおおおっ!!!」


 レイハルトは立ち上がった。亀裂の入った聖剣に、自らの魂そのものを燃え上がらせた、かつてない究極の「光」を宿す。

 彼には、もう迷いも恐怖もなかった。姿も見えぬ、名も知らぬ「影の英雄」が、自らの命を賭して道を切り開いてくれたのだ。その想いに、その信頼に、応えないわけにはいかない。


「我が命を捧ぐ、一撃を受けよ――『極星・聖剣一閃ノヴァ・カリバー』!!!」


 黄金の光柱が天を突き破り、『狂える終焉』の紅い結晶へと一直線に突き刺さった。

 結界をすべて失っていたラスボスは、その絶対的な光の前に、断末魔の悲鳴を上げることすら許されず、内側から完全に純白の粒子となって霧散していった。


 王都を覆っていた闇が、ゆっくりと晴れていく。

 崩壊した大聖堂の跡地に、再び温かい陽光が降り注いだ。


「か……勝った……。本当に、勝ったんだ……」

「レイハルト様が、あの真の災厄すらも打ち破られたぞ! 世界は、世界は救われたんだ!」


 生き残った騎士たち、あるいは避難していた民衆から、これまでで最大の、地を揺るがすような大歓声が沸き起こった。

 レイハルトは、力なく聖剣を地面に突き立て、荒い息を吐きながら天を見上げた。

 周囲の歓声はどこか遠く、彼の頭の中には、先ほどまで響いていた、あの泥臭くも絶対的な「影の声」が、未だに残響として響いていた。


「レイハルト様……!」


 ボロボロになったドレスを引きずりながら、セリアが涙を流して駆け寄ってきた。

 レイハルトは彼女を優しく抱きしめつつも、静かに周囲の「影」を見渡した。だが、どこを探しても、自分たちを救ってくれたあの存在の気配は、綺麗さっぱり消え失せていた。


 ――同じ頃。

 王都の外縁、半壊した時計塔の頂で。

 エイルは、弓を引いた姿勢のまま、地面に倒れ伏していた。


 右腕は完全に炭化するように黒ずみ、ピクリとも動かない。全身から流れた血が、時計塔の床を大きな水溜まりに変えていた。呼吸は極端に浅く、心臓の鼓動は、今にも停止しそうなほどに弱々しい。


「は、は……っ。……綺麗、だな……」


 かすむ視界の向こう、闇が晴れた王都に、美しい虹がかかっているのが見えた。

 大聖堂の方からは、微かに、レイハルトとセリアを称える歓声が風に乗って届いてくる。


「約束、通り……、守った、ぞ……、セリア……」


 エイルは、血に濡れた左手で、右手首の緋色のリボンに触れようとした。だが、その指先がリボンに届く直前、彼の意識は、底のない深い闇の中へと完全に沈んでいくのだった。

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