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月影のスナイパー ~報われぬ愛を、君に幸福に捧ぐ~  作者: 最後に残った形


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第1章 第4話:祝福の足音と、遠い日の約束


 王都の市場は、お祝いムードの買い出し客と、それを当て込んだ商人たちの活気ある声で溢れ返っていた。

 あちこちの店先に色鮮やかなリボンや花飾りが並び、行き交う人々は誰もが笑顔を浮かべている。十の災厄を打ち破った「光の英雄」の存在は、この都市に生きるすべての人々に、確かな平和の予感をもたらしていた。


「ねえ、エイル! 早く早く、こっちに素敵な小物が置いてある店があるの!」


 人混みをすり抜けながら、振り返ってエイルの手を引くのは、見事な刺繍が施された白い私服ドレスに身を包んだセリアだった。

 普段、聖教会の支援部隊を率いる彼女は、常に凛とした態度を崩さない「気高く完璧な聖女」として周囲から畏敬の念を集めている。弱音を吐かず、誰よりも前線で傷ついた兵士たちのために祈りを捧げる少女。

 だが、今のエイルの前にいる彼女は違った。もじもじと指先を弄んだり、気に入らないことがあればぷっと頬を膨らませたりする。それは、かつて小さな村で泥だらけになりながら一緒に野山を駆け回っていた頃の、「わがままな少女」そのものの姿だった。


「待ってよ、セリア。そんなに急がなくても、店は逃げないよ」

「もう、エイルがのんびり歩いてるからでしょ? 今日はレイハルト様への大切なお祝いの品を選びに来たんだから、私が焦るのも当然じゃない」


 セリアはエイルの腕をきゅっと掴み、少し背伸びをして彼の顔を覗き込んだ。

 その琥珀色の瞳には、一点の曇りもない信頼が宿っている。彼女にとってエイルは、どんな自分を見せても決して嫌わず、すべてを受け入れてくれる「絶対の安全地帯」なのだ。聖女としての重圧から解放され、ただの女の子に戻れる唯一の避難所。


 エイルは、彼女の小さな手が自分の袖を掴む感覚を、たまらなく愛おしいと思った。

 だが同時に、彼の胸の奥は、冷たい氷の楔を打ち込まれたように鋭く痛んでいた。彼女が自分に見せるこの無自覚な甘えは、エイルを「男」として意識していないからこそのものだ。何でも話せる幼馴染という都合のいいポジション。彼女の心の中心にいるのは、ここにはいない白銀の英雄なのだから。


「それでね、エイル。レイハルト様はいつも夜遅くまで遠征の報告書を書いていらっしゃるから、上品な濃紺の万年筆なんてどうかしら? ほら、あそこの専門店に飾ってあるやつ」

「……うん、すごく良いと思うよ。レイハルト卿は実直な人だから、セリアが自分の仕事のことを考えて選んでくれた贈り物なら、きっと何だって宝物にするさ」


 エイルはいつも通りの穏やかな微笑みを浮かべ、セリアの言葉に頷いた。

 自分の胸がどれほど張り裂けそうでも、彼女の幸福を曇らせるわけにはいかない。エイルの培った隠密の技術は、表情だけでなく、心の動揺や悲哀すらも完璧に消し去ってしまう。


 プレゼントを購入し、小箱を大切そうに抱えたセリアと市場の端を歩いていると、ふと、古びた異国の民芸品を扱う露店の前で彼女が足を止めた。

 そこには、遠い東の果ての国で作られたという、青い硝子がらすの細工物が並んでいた。夕暮れの光を浴びて、それはまるで深い海の色のように静かに煌めいている。


「わあ……綺麗。ねえ、エイル。これ、なんだか懐かしいね」

「……ああ。昔、俺たちの村にやってきた旅の商人に見せてもらった、海の向こうの景色みたいだ」


 エイルの言葉に、セリアはくすくすと懐かしそうに笑った。


「そう、それ! よく覚えてるね。私たちがまだ小さくて、村の外の世界なんて何も知らなかった頃……二人で夜空を見上げながら、話したじゃない。お互いに大きくなったら、一緒にこの小さな村を出て、あの硝子みたいな綺麗な海がある、遠い国へ行こうって。エイルが、私を連れていってくれるって約束したの、覚えてる?」


 セリアは何の気なしに、子供の頃の他愛のない思い出話としてそれを語った。

 だが、エイルにとっては違った。あの夜の約束は、彼が「影の英雄」として泥をすすり、命を懸けて戦い続けるための、人生のすべてを支える原初の誓いだったのだ。


「……忘れるわけないよ。そんなこともあったね」

「ふふ、あの頃は世界がこんなに恐ろしい魔獣で溢れてるなんて知らなかったから。あの約束、今考えると本当に子供の可愛い迷信みたい。……でもね、エイル。私、今なら分かるの」


 セリアは硝子細工から視線を外し、王都の中央にそびえる大聖堂の、光輝く尖塔を見上げた。


「レイハルト様がこの世界からすべての絶望を消し去ってくれたら、本当に、あの頃夢見たような平和な世界が来るんだって。私は聖女として、レイハルト様の隣でその新しい世界を一緒に見に行きたいの。エイルも、輜重部隊の後ろから、私たちのことを見守っていてね?」


 セリアの言葉は、あまりにも純粋で、そして残酷だった。

 彼女の語る輝かしい未来の中に、「エイルと二人で歩く道」は、最初から一歩も用意されていない。彼女にとってエイルとの約束は過去の迷信であり、レイハルトとの未来こそが現実なのだ。


「うん……。レイハルト卿なら、きっとそんな世界を作ってくれるよ。セリアの夢が叶うのを、俺も心から応援してる」


 エイルは微笑んだ。これ以上ないほど温かく、優しい幼馴染の顔で。

 ――セリア、君が夢見るその平和な世界を作るために、俺は、あいつの影で泥をすすり、骨を折り、命を燃やし続ける。君がその光の未来に手を伸ばすなら、俺は奈落の底から、君の足元を絶対に揺るがせない。

 すべてが終わったら、俺は二人の前から静かに姿を消そう。それが、影として生きることを選んだ自分の、最後の大仕事だ。


「――おや、そこにいるのはセリア、そして輜重部隊のエイル君か?」


 背後から、低く、しかし驚くほど澄んだ声がかけられた。

 振り返ると、そこには宿舎へと続く回廊の前に立つ、金髪の若者――「表の英雄」レイハルトその人が立っていた。


「レイハルト様……!」


 その姿を見た瞬間、セリアの顔から「昔のわがままな少女」の表情が完全に消え去り、凛とした、しかし恋する聖女としての顔へと一瞬で切り替わった。掴まれていたエイルの袖から、彼女の手が、何のためらいもなく離れていく。

 エイルは咄嗟に猫背になり、いつもの頼りない補給兵の姿勢を取って、深く頭を下げた。


「これは、レイハルト様。お騒がせしてしまい、申し訳ありません」

「いや、頭を上げてくれ。君を咎めにきたわけではないんだ。エイル君」


 レイハルトは、眩しいほどの善意に満ちた笑顔を浮かべ、歩み寄ってきた。彼は一介の補給兵であるエイルに対しても、全く傲慢な態度を取らない。本当に、どこまでも真っ直ぐで高潔な「良い奴」なのだ。


「セリアからいつも聞いているよ。君は彼女の幼馴染で、いつも後ろから補給や雑務で彼女を支えてくれていると。先日の黒鉄の平原でも、君たち輜重部隊の迅速な手際があったからこそ、我々は前線で何一つ憂いなく戦うことができた。本当に感謝している」


 レイハルトは、エイルの右手を両手で固く握りしめた。

 その瞬間、エイルの右手首の奥で、まだ癒えきっていない筋肉がズキリと激痛を上げたが、エイルは完璧にそれを押し殺し、恐縮したような笑みを浮かべ続けた。


「もったいないお言葉です。私は、自分にできる地味な仕事をこなしているだけに過ぎません」

「いや、その地味な仕事こそが、この軍隊の礎だ。……それから、エイル君。君に、男として一つ伝えておきたいことがある」


 レイハルトの表情が、真剣なものへと変わった。


「近いうち、教会を通じて、私とセリアの婚約が発表されることになるだろう。私は、彼女を生涯をかけて愛し、守る覚悟だ。……君は、彼女にとって誰よりも大切な、家族のような幼馴染だと聞いている。だからこそ、君にも私たちの未来を、一番近くで見守っていてほしいんだ。これからも、変わらず彼女の良き相談相手でいてやってくれないだろうか」


 100%の善意。100%の信頼。

 悪気など微塵もない、本物の聖戦士からの懇願だった。あいつは本当に、セリアを幸せにするために命を懸けているし、エイルのことも「セリアの大切な友人」として心から尊重しているのだ。


(ああ……お前がそういう奴だからこそ、お前が『本物の英雄』だからこそ、俺は安心して、全部を譲れるんだ)


 エイルの心の中にあったのは、嫉妬でも憎悪でもなかった。ただ、深い安堵だった。

 レイハルトなら、セリアを絶対に裏切らない。自分が正体を明かしてこの光の偶像を壊す必要など、どこにもないのだ。


「はい……。レイハルト卿。セリアを、どうかよろしくお願いいたします。あいつは、少しお調子者で、ドジなところもありますが……誰よりも優しくて、強い子です。どうか、幸せにしてあげてください」

「ああ、約束するよ。ありがとう、エイル君」


 レイハルトは満足そうに微笑み、セリアを伴って宿舎の中へと歩いていった。

 遠ざかっていく二人の背中は、夕暮れの光に照らされて、まるで一枚の美しい絵画のようにお似合いだった。


 一人、夜風が吹き抜ける回廊に残されたエイルは、右手首の緋色のリボンをもう一度きつく結び直し、静かに闇の広がる倉庫へと、自らの居場所へと帰っていくのだった。

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