第1章 第3話:祝福の足音と、静かなる査察
大戦果の報に、王都は狂喜乱舞の渦に包まれていた。
十の災厄が一角『百足将・ガイザ』を討伐したという事実は、明日をも知れぬ絶望に怯えていた民衆にとって、この上ない救いの光だった。中央広場には色鮮やかな祝祭の旗が翻り、吟遊詩人たちはこぞって「光の英雄レイハルト」の偉業を歌い上げる。
だが、そんな華やかな喧騒から遠く離れた王立騎士団の輜重倉庫だけは、いつもと変わらぬ薄暗さと、古い油の匂いが立ち込めていた。
「おい、エイル! 手を動かせ! 祝勝会の宴席に運ぶ樽ワインの目録、早く書き終えろよ!」
「はい! すみません、今すぐ仕上げます!」
エイル・ラングレンは、わざとらしく頼りない笑みを浮かべながら、インクで汚れた羽根ペンを走らせていた。
泥に汚れた灰色の髪、少し猫背気味の姿勢、そして周囲の輜重兵たちにペコペコと頭を下げる腰の低さ。どこからどう見ても、戦場に数千人はいる「冴えない下級交替兵」そのものだ。
右手首の奥には、未だに黒鉄の平原での魔力逆流による激痛が燻っていたが、彼はそれを脳の奥底に完全に封じ込め、心音すらも「平穏な無能」の一定周期へと偽装していた。手首に巻かれた緋色のリボンだけが、衣服の袖の隙間から、彼にだけ分かる温もりを伝えている。
(セリア、婚約の噂、本当だったんだな……)
作業をしながら、エイルは今朝耳にした風の噂を思い出していた。教会の上層部が、今回の祝勝パーティーの席で、レイハルトとセリアの婚約を正式に内定するという。
胸が鋭く痛む。だが、それ以上の深い安堵がエイルを包んでいた。彼女は救われ、望んだ幸福を手に入れようとしている。自分が命を削って影を穿ち続けた意味は、確かにそこにあった。
――その時、輜重倉庫の古びた扉が、重々しい音を立てて開いた。
差し込んできた眩い陽光を背に、一人の男が姿を現す。
黄金の髪、威風堂々とした体躯。祝祭用の白銀の礼服を身にまとったその姿は、あまりにもこの薄暗い倉庫には不釣り合いだった。
「――レイハルト様っ!?」
倉庫にいた輜重兵たちが、驚愕のあまり持っていた木箱を取り落とし、慌ててその場に平伏する。エイルもまた、わざとらしく羽根ペンを床に落とし、大げさに狼狽してみせながら、一番後ろの床へと額を擦り付けた。
「突然すまない、皆。作業の手を止める必要はない。少し、この部隊の責任者と話をさせてもらいたいだけだ」
レイハルトの声は優しかったが、その瞳の奥には、祝祭の主役とは思えぬほどの「鋭い執念」がギラギラと燃ぎっていた。
彼は、黒鉄の平原での勝利以来、一睡もしていなかった。あの戦いの直前、そして直後に感じた、完璧すぎる『見えざるお膳立て』。自分の聖剣が届く寸前に、確実に何者かが敵の因果結界を、そして魔眼を撃ち抜いていた。
教会も国も「神の加護」と片付けるが、レイハルトの誇りが、理性が、それを許さなかった。
(私の知らないところで、誰かが世界を救っている。その者を、私は見つけ出さねばならない)
レイハルトは、弾道の起点、魔力の残滓、そして何より「全軍の配置図」を狂ったように精査した。その結果、レイハルトの突撃を完璧にサポートできる位置に潜伏し得たのは、前線ではなく、後方の「斥候部隊」か、物資を運ぶ「輜重部隊」のほんの一握りの人間だけだという結論に至ったのだ。
「……君が、ここの目録管理をしているのか?」
革靴の足音が、エイルの目の前で止まった。
エイルは床に額をつけたまま、わざと肩を小さく震わせ、声を上ずらせて応じる。
「は、はいっ! 輜重部隊、第三班の補給係、エイル・ラングレンと申します! レイハルト様のような偉大な英雄にお声がけいただけるなんて、恐縮の至りであります……っ!」
「エイル・ラングレン……。ああ、セリアから聞いているよ。彼女の大切な幼馴染だね」
レイハルトはそう言うと、静かに片膝をつき、エイルと同じ目線まで腰を落とした。
その瞬間、レイハルトから放たれた極薄の「威圧の魔力」が、倉庫の空気を一変させた。並の兵士であれば、息が詰まって本音を吐き出すか、その場に失神するほどの精神的プレッシャー。レイハルトは、目の前の男の「心音」と「魔力の揺らぎ」を、その鋭い五感で完全に観察しようとしていた。
「エイル君。少し、私個人の個人的な調査に付き合ってほしい。……君は、黒鉄の平原の決戦の日、正午から午後一時にかけて、どこで何をしていた?」
鋭い双眸が、エイルの泥に汚れた顔を射抜く。
張り詰めた、静かな心理戦。
だが、エイルの精神は、凪いだ湖のように静まり返っていた。どれほど鋭い英雄の目であっても、エイルが長年培ってきた『隠密・極振り』の精神偽装を破ることはできない。彼は心音を「極度の緊張で怯える一般兵」の不規則なリズムへと瞬時に同調させ、瞳に完璧な恐怖の光を浮かべてみせた。
「は、はい……っ! あの時は、第二集積所から前線の第三部隊へ、予備の矢筒二十個を荷車で運んでおりました! ですが、途中で魔獣の咆哮が聞こえて、恐ろしくなって……道端の岩陰に荷車ごと隠れて、ずっと震えておりました! け、決してサボっていたわけではございません! 本当です、信じてください……っ!」
エイルは涙目になりながら、必死に手を振って弁明した。その姿は、戦う才能のない、臆病で情けない輜重兵そのものだった。
レイハルトは、エイルの魔力の流れを完全に凝視していた。しかし、エイルの体内を流れる魔力は、一般の平民と変わらない、細く、澱んだ、戦闘には到底使えないレベルのものとして偽装されていた。
(……やはり、違うか)
レイハルトは内心で落胆し、威圧の魔力を収めた。
あの戦場で、因果を撃ち抜くほどの圧倒的な漆黒の魔術矢を放った「影の英雄」が、こんなにも怯え、魔力も希薄な少年であるはずがない。セリアの幼馴染ということで、わずかに可能性を疑ってみたが、ただの杞憂だった。
「すまない、エイル君。怖い思いをさせたね。君の任務のおかげで、私たちは戦うことができた。感謝しているよ」
「い、いえ! もったいないお言葉です……っ!」
レイハルトは立ち上がり、すま甘そうに微笑むと、そのまま輜重倉庫を後にした。彼の背中には、未だに「見えざる英雄」を追い求める、孤独な執念が滲んでいた。
扉が閉まり、倉庫に再び薄暗い静寂が戻る。
周囲の輜重兵たちが「心臓が止まるかと思ったぞ……」と息を吐き出す中、エイルは静かに床に落ちた羽根ペンを拾い上げた。
その顔からは、先ほどまでの「臆病な一般兵」の表情は完全に消え失せ、冷徹で、どこまでも優しい『影の英雄』の瞳が戻っていた。
(危なかったな……。レイハルト、お前の洞察力は本物だ。だけど、お前がその正体を見つけることは絶対に無いよ)
エイルは右手首の緋色のリボンを、左の指先でそっとなぞる。
(お前は光のままでいろ。世界を照らす太陽でいろ。その太陽を曇らせる影は、俺がすべて、この闇の中に葬り去ってやるからな)
エイルは再び、何事もなかったかのように目録の作成へと戻り、祝祭に沸く王都の陰で、静かに羽根ペンを走らせ続けるのだった。




