第1章 第2話:黒鉄の平原と、見えざる魔眼
黒鉄の平原。その名の通り、鈍色の岩肌と高濃度の鉄分を含んだ硬い土壌がどこまでも続くその地は、古来より幾多の血を吸い上げてきた忌むべき荒野だった。
地平線を埋め尽くすのは、魔王軍の先鋒を担う異形の群勢。地を這う無数の多足魔獣、天空を不吉に旋回する翼魔の群れ。そしてその中央に、山をも見上げる巨体を揺らして鎮座するのが、十の災厄が一角――『百足将・ガイザ』である。数百本の節足が大地を削る不快な金属音が、地鳴りのように味方の本陣まで響いていた。
決戦を翌日に控えた夜、王立騎士団の総大将天幕では、燦然たる明かりの下で作戦会議が行われていた。
「明日の正午、ガイザが平原の中央に陣を構えた瞬間、我が本隊が正面から突撃を敢行する!」
金髪を揺らし、熱弁を振るうのは「表の英雄」レイハルトだった。彼の放つ圧倒的な神聖魔力が天幕を満たし、疲弊した将軍たちの心に偽りのない闘志を注入していく。誰もが彼を信じていた。彼さえいれば、どんな絶望的な戦場であっても無敗のまま勝利がもたらされるのだと。
だが、会議が終わり、一人きりになった天幕の中で、レイハルトは自身の白銀の聖剣を見つめながら、深く、重いため息をついた。
「……私は、本当に、皆が言うほどの天才なのだろうか」
その呟きは、誰の耳にも届かない。
レイハルトは純粋な努力家であり、高潔な正義の味方だ。だからこそ、自分の戦績にずっと「違和感」を抱いていた。
前回の戦いでもそうだ。死角から放たれたはずの魔獣の奇襲が、なぜか直前で不自然に軌道を逸らし、まるで自分の聖剣の軌道上に自ら飛び込んできたかのように綺麗に両断できた。あの時、自分の感覚よりも一瞬早く、何かが空間の歪みを「消し去った」ような感覚があった。
周囲は「さすがレイハルト様! 神の加護だ!」と称賛するが、レイハルト自身の理性が、それは己の実力だけではないと告げていた。だが、その正体が何なのか、どれほど感覚を研ぎ澄ませても掴むことはできない。希望の偶像として振る舞いながらも、彼の内側は強烈なプレッシャーと孤独に苛まれていた。
――同じ頃。
本陣の最外縁、冷たい夜風が吹き抜ける禿山の岩陰に、エイルは静かに身を溶け込ませていた。
普段の輜重部隊の衣服ではなく、光を一切反射しない漆黒の隠密衣に身を包んでいる。彼の気配は完全に消え失せており、たとえ数歩隣を人が通り過ぎたとしても、そこに生き物がいることすら気づけない。それほどまでに研ぎ澄まされた、絶対的な『隠密・極振り』の領域。
「……レイハルト、お前が悩む必要は無いんだよ」
エイルはそっと息を吐き、右手を前に突き出した。
固有魔術『影の兵装』により、黒鉄の平原の闇を凝縮したかのような、身の丈を超える巨大な黒の長弓が現れる。
エイルはレイハルトの「違和感」に気づいていた。だからこそ、さらに完璧に、さらに精密に、レイハルト自身にすら悟らせないレベルの『完璧な偶然』を演出せねばならないと、己に課していた。
左指で弦のない弓を引き絞ると、大気中の魔力が限界まで圧縮され、一本の「不可視の矢」が形成されていく。
エイルの狙撃は、ただ矢を飛ばすだけのものではない。彼の脳内では、今この瞬間も、凄まじい速度で「世界の因果」が計算されていた。風向き、湿度、大気の密度、魔力の乱れ、敵の移動速度、そして弾道上に存在するすべての障害物の分子構造。それら数万通りの変数を一瞬で処理し、脳が焼き切れるような負荷に耐えながら、彼はただ一つの「必中の軌道」を導き出す。
「まずは、明日の突撃ルートの掃除からだ」
エイルの視線は、平原の中央、一見すると何の変哲もない空間に固定されていた。
だが、エイルの特異な観察眼は捉えていた。そこには、ガイザが仕掛けた空間の歪み――侵入した生命体の心臓を一瞬で止める『即死反撃の呪い結界』が十三層にわたって張り巡らされている。レイハルトがそのまま突っ込めば、どれだけ強固な聖なる鎧を着ていようとも、因果の刃によって即死する罠だ。
パシィン、と。
弦のない弓から、極小の、しかし超高密度の魔術矢が放たれた。
音もなく、光もなく、ただ空間を滑るように飛んだ不可視の矢は、前哨戦として夜間偵察を行っていた味方の斥候が接近するよりも遥か手前で、空間結界の「第一の核」を正確に貫いた。ガラスが割れるような微かな音と共に、即死の呪いが霧散する。
「が、はっ……!」
一発放つごとに、エイルの右腕の筋肉がミシミシと軋み、魔力の逆流が血管を焼くような激痛となって襲いかかる。本来なら、人間が耐えられる負荷ではない。
だがその時、右手首に巻かれた緋色のリボンが、微かに熱を帯びた。
セリアが「お守り」として結んでくれたその布切れから、暖かく、ひたむきな癒やしの魔力が流れ込んでくる。セリア自身の魔力はそこまで膨大ではないはずなのに、彼女がエイルを想って込めた純粋な祈りは、エイルの体内で暴れ狂う影の魔力を、奇跡的なほど優しく、完璧に宥めてみせた。
「本当に、君の祈りは温かいな、セリア。……これなら、まだいくらでも戦える」
エイルは自嘲気味に微笑み、再び弓を引き絞った。
夜明けまでに、あと十二個の核を、レイハルトに気づかれない角度とタイミングで破壊し尽くさねばならない。
そして翌日、正午。
太陽が天頂に達した瞬間、万雷の咆哮と共に王立騎士団の本隊が突撃を開始した。
「全軍、私に続け――っ! 光の神の加護は、我らと共にあり!」
黄金の髪をなびかせ、白銀の聖剣を高く掲げたレイハルトが先頭をひた走る。その姿はまさに太陽そのものだった。
本陣の後方で、セリアは胸の前で両手を固く組み、一心に祈りを捧げていた。彼女の瞳には、眩いばかりの光を放って敵陣へと切り込んでいくレイハルトの背中だけが映っている。その祈りが、手首のリボンを通じて遥か遠くの禿山にいるエイルの右腕を支えていることなど、彼女は知る由もない。
「ギチギチギチギチ……! 聖剣の小僧が、調子に乗るな!」
ガイザの巨体が蠢き、その数百の目が一斉に怪しく不気味な紫色の光を放ち始めた。それを見たエイルの目が見開かれる。
(あれは――『無差別即死の魔眼』!)
発動すれば視界に入ったすべての生命体の魂を強制的に刈り取る、ガイザ最大の禁忌魔術。発動までの猶予は、あと三秒。レイハルトは聖剣に光を集めている最中で、敵の魔力の溜まりに気づいてはいるものの、それが「即死」の性質を持つことまでは見抜けていない。あのまま放たれれば、前線は全滅する。
(絶対に、発動させるか――!)
エイルの精神が、極限のさらに先へと加速する。
周囲の音が完全に消え、世界の動きが極限まで遅くなる。
ガイザの巨体にある、数百の眼球。その中で「魔力の供給元」となっている真の主眼は、眉間の奥に隠された、わずか数センチの小さな単眼だった。
三千ヤードの距離。激しく吹き荒れる戦場の爆風。乱れ飛ぶ魔力の残滓。
常人であれば標利を視認することすら不可能な条件下で、エイルはただ一つの針の穴を通すような弾道を導き出し、左指を離した。
ガキィン! と、エイルの右腕の骨が悲鳴を上げる。
手首のリボンが焼き切れんばかりに発光し、エイルの命そのものを燃料とした、最大出力の『影穿ちの矢』が放たれた。それは閃光すら置き去りにする、文字通りの絶技。
レイハルトが聖剣を振り下ろす、まさにその「〇・一秒前」。
ガイザが魔眼を開帳し、絶望の光が世界を染めようとしたその瞬間に――エイルの放った不可視の矢が、ガイザの眉間にある「主眼」を寸分の狂いもなく貫き、爆砕した。
「ギ、ギガァァァァァー――ッ!? 目が、我が魔眼がぁぁぁっ!?」
最大出力を迎えていた魔力が体内で暴走し、ガイザの巨体が内側から崩壊を始める。そこへ、タイミングが完全にシンクロする形で、レイハルトの放った渾身の『聖剣一閃』が叩き込まれた。
ドゴォォォォォン!!!
眩い金色の光が平原を包み込み、爆風が異形の群れを吹き飛ばす。
光が収まったとき、そこにあったのは、完全に消滅したガイザの残骸と、聖剣を掲げて毅然と立ち尽くす、若き英雄レイハルトの姿だった。
「おお……勝ったぞ! レイハルト様が、十の災厄を打ち破られたぞ!」
「奇跡だ! 敵の凶悪な魔眼が開く直前、レイハルト様の放った聖なる光が、その邪眼を焼き払ったのだ!」
戦場は、割れんばかりの歓声と、レイハルトを称える声で埋め尽くされた。
しかし、聖剣を掲げるレイハルトの心臓は、恐怖で激しく波打っていた。
(違う……。今、私の剣が届く直前、確実に『別の誰か』が敵の核をブチ抜いた。私の光ではない、もっと冷徹で、圧倒的な一撃が……。一体、誰が私を『無敗』に仕立て上げているんだ……!?)
勝利の歓声の中で、レイハルトだけが、見えざる影の英雄の気配に戦慄していた。
――その頃。
遥か後方の禿山の頂で、エイルは地面に膝をつき、激しく血を吐き出していた。
「ガハッ……、はぁ、はぁ……っ」
右腕は完全に感覚を失い、だらりと垂れ下がっている。全身の毛細血管が破裂したかのように、皮膚の下が赤黒く染まっていた。
だが、エイルは、右手首に巻かれたリボンを見つめた。少し焦げてしまったが、それが解けずに残っているのを見て、彼は本当に安心したように、力なく唇を吊り上げた。
「……よかった。レイハルト、お前はそのまま光の中にいろ。セリアを泣かせないために、お前は世界一の英雄でいなきゃいけないんだからな……」
自分がここで死にかけていることも、その功績がすべて別の男のものになったことも、エイルにとっては心底どうでもいいことだった。
ただ、あそこで輝くレイハルトが五体満足で帰還し、それを見てセリアが心から笑っている。その事実だけで、エイルのボロボロの身体には、十分すぎるほどの報酬だった。




