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月影のスナイパー ~報われぬ愛を、君に幸福に捧ぐ~  作者: 最後に残った形


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第1章 第1話:硝子(がらす)の英雄とお守りの糸


 王立騎士団の輜重しちょう天幕の裏は、いつも錆びた鉄の匂いと、乾いた馬糞の混じり合った、噎せ返るような空気で満ちている。

 華やかな最前線の喝采など、ここには一切届かない。届くのは、前線から運ばれてきたボロボロの武具の金属音と、血に汚れた包帯を洗う泥水の音、そして上官たちの怒鳴り声だけだった。


「おい、エイル! 何を突っ立ってやがる! 第三部隊の予備矢筒が二十、まだ前線の集積所に届いてねえぞ! 手足が腐ってんのか、この能無しが!」

「すみません! すぐに、今すぐに運びます!」


 エイル・ラングレンは、わざとらしく声をひっくり返らせながら、ずり落ちそうになった大きめの革手袋をはめ直した。

 煤と泥で汚れた灰色の髪を揺らし、数世代前の古びた旧式な荷車を押して、ぬかるんだ地面に足を取られながら不器用に進む。周囲の若い騎士たちからは「お荷物斥候」「戦えない補給係」と陰口を叩かれ、時にはわざと足を引っ掛けられることもある。だが、彼にとってはこれが最高に居心地のいい聖域であり、完璧な「擬態」だった。


 この大戦乱の時代において、誰も彼の本気を知らない。知る必要がない。

 彼の役割は、ただ一つ。幼馴染である少女――セリアの笑顔と、彼女が生きる世界を守ること。そのためだけに、彼は自分の存在を、名前を、実力を、世界のすべてから完全に消し去っていた。


「はぁ……。今日も相変わらず、地味な仕事ばっかり押しつけられて。見てるこっちがハラハラしちゃう」


 重い荷車を劇場の裏方のように器用に(しかし周囲には必死に見えるように)押し込み、ほっと息をついたエイルの背中に、鈴を転がしたような、しかしどこか呆れた響きを持つ声が降ってきた。


「セリア」


 振り返ると、そこに立っていたのは、見事な白銀の軽装鎧を身にまとった少女だった。

 燃えるような琥珀色の瞳と、活動的にまとめられた栗色の髪。彼女は、今や人類の希望の象徴となった「表の英雄」レイハルトを支える聖教会の支援部隊において、若くして異例の信頼を集める優秀な聖女の一人だった。かつて泥にまみれて一緒に野山を駆け回っていた幼馴染は、今や遠い雲の上の存在になりつつあった。


「やっぱりここにいた。もう、エイルったら。せっかく幼馴染のよしみで、私が前線から遠い補給係の推薦書を書いてあげたのに、それでも毎日ヘトヘトじゃない。危ないから、本当に前線の方には出ないでね? あなた、剣の才能も魔法の才能も、これっぽっちも無いんだから」

「あはは、ありがとね、セリア。心配してくれて嬉しいよ。でも俺、これくらいしか取り柄がないからさ。重い荷物を運ぶのだけは、昔から結構得意なんだ」


 エイルはへらへらとした締まりのない笑みを浮かべ、わざと右腕を大げさに振ってみせた。

 だが、その袖の奥、包帯で固く巻かれた右手首が微かに悲鳴を上げる。

 ――ほんの数時間前。最前線のさらに外縁、誰も見向きもしない不浄の沼地から、推定災害級の魔獣『兇顎竜きょうがくりゅう』の眉間を、三千ヤードの距離から正確に撃ち抜いた。その際に生じた強烈な魔力反動キックバックが、いまだに筋肉を焼くような鈍い激痛となって手首を痺れさせている。


 もしエイルが、竜が咆哮の直前に展開しようとした「空間断裂の固有結界」を魔術矢で事前に破砕していなければ、今頃この本陣ごと人類の軍勢は全滅していただろう。

 だが、そんな真実は誰の耳にも届かない。届いてはならないのだ。


「もう、のんきなんだから」

 セリアはため息をつきながらも、どこか安心したように微笑んだ。

「でも、よかった。エイルが後ろにいてくれると思うだけで、私、すごく安心できるの。ほら、前線は……その、レイハルト様がいつも命がけで、私たちのために戦ってくださっているから」


「レイハルト様」

 その名を口にした瞬間、セリアの頬が、戦場の煤煙を忘れさせるほど鮮やかな朱に染まった。

 エイルの胸の奥が、冷たい楔を打ち込まれたようにチクリと痛む。だが、彼の顔には、一瞬の翳りすら浮かばなかった。長年鍛え上げた「隠密」の技術は、表情や心音、精神の揺らぎすらも完全に偽装する。


「ああ、レイハルト卿か。今日も凄かったらしいね。南の渓谷を、一太刀で両断して魔獣の群れを消し去ったって、補給部隊の間でも持ちきりだよ。本当に、おとぎ話の勇者様みたいだ」

「そうなの! 本当に凄いのよ!」


 セリアは一歩前へ踏み出し、まるで自分のことのように胸を張った。

「私ね、特等席の間近で見ていたの。レイハルト様が聖剣を掲げた瞬間、あの恐ろしい魔獣たちが一歩も動けなくなって……まるで、神様が最初から victory(勝利)を決めていたみたいに、綺麗に、一撃で、全部が終わったの。あの輝きを見たら、どんな絶望だって吹き飛んじゃうわ」


(違うよ、セリア)

 エイルは心の中で、静かに、しかしどこまでも優しく呟いた。

(あの時、魔獣たちが動けなかったのは、レイハルトの威圧に怯えたからじゃない。俺が事前に、地下の影から奴らの足を地面に縫い止める『影縫いの杭』を、一億分の一の精度で撃ち込んでいたからだ。レイハルトの聖剣が届く前に、魔獣が展開していた『即死反撃の呪い』の核を、俺が三発の不可視矢で消滅させていたからだ)


 レイハルトは、決して悪人ではない。むしろ、眩しいほどの善人だ。

 貴族の生まれでありながら傲慢さはなく、民を救うために血の滲むような努力を重ねている、本物の戦士だ。

 ただ――この世界の理不尽な「初見殺し」の呪いや、次元の歪みに潜む真の絶望を処理するには、彼の「光」は少々真っ直ぐすぎた。光が強ければ強いほど、影の怪物はその真裏に滑り込む。だから、エイルがその影を、先回りで全て消し去る必要があった。


 国が、教会が、そして何よりセリアが必要としているのは、「無敗の、完璧な希望の象徴」なのだから。その偶像を守るためなら、エイルはいくらでも泥を被る。


「それでね、エイル……」

 セリアが、急に声を潜めた。もじもじと指先を弄び、視線を地面のぬかるみへと落とす。

「あの……相談、っていうか。エイルにしか言えない話があるの」

「ん? なに? 聞くよ、俺で良ければ」

 エイルは近くの木箱に腰掛け、いつもの「頼りない、だけど何でも話せる優しい幼馴染」の仮面を完璧に維持した。


「あのね……次の決戦が終わったら、レイハルト様が、その……二人でゆっくり話したいことがあるって、仰ってくれて。これって、もしかして……」

 セリアの顔は、もう熟した果実のように真っ赤だった。

「私、どうしたらいいと思う? レイハルト様のような偉大な方に、私みたいな生真面目なだけの聖女が、お似合いなのかなって。もし、本当に、その……プロポーズ、とかだったら、私、嬉しくて死んじゃうかもしれないけど、同時に怖くて……」


 ドクン、と。

 エイルの心臓が、大きく、重く跳ねた。

 手のひらの痺れが、一瞬だけ、全身に広がったような錯覚に陥る。

 幼い頃、小さな村で、泥だらけになりながら一緒に笑い合っていた少女。自分が生きる意味のすべて。その彼女が今、別の男との、もっとも幸福な未来について、自分に真剣な意見を求めている。


(ああ、そっか。もう、そんなところまで、二人の時間は進んでいたんだな)


 エイルは、自分の心の中に生まれた「黒い感情」を、一瞬で、跡形もなく圧殺した。

 そんな醜いものを表に出して、彼女を困らせてどうする。彼女が幸せなら、それでいい。彼女の恋焦がれる「光の英雄」を無敗のまま、五体満足で彼女の元へ返すこと。それだけが、エイルの、世界に対する唯一の傲慢であり、無償の愛の形だった。


「何言ってるんだよ、セリア」

 エイルは微笑んだ。これ以上ないほど、温かく、からかうような、優しい幼馴染の笑顔で。

「セリアは世界一素敵な聖女だよ。毎日、誰よりも怪我人のために祈って、泥にまみれてポーションを運んでる。レイハルト卿だって、そんなセリアの強さと優しさに、いつも救われてるに決まってるじゃないか」

「エイル……」

「自信を持ちなよ。あのレイハルト卿がお似合いになる女性なんて、世界中でセリア、君しかいないよ。俺が保証する」


「……ありがとう、エイル!」

 セリアの顔に、満開のひまわりが咲くような笑みが戻った。

 彼女は嬉しさのあまり、エイルの、まさに先ほど反動で痛めた右手をぎゅっと握りしめた。


「つっ……!」

「あ、ごめん! 痛かった?」

「あはは、大丈夫、大丈夫。さっき、重い木箱を角にぶつけちゃってさ。ちょっと青あざになってるだけだよ」

「もう、本当にドジなんだから。気をつけてよね? 私、エイルに何かあったら、本当に悲しいんだから」


 セリアはそう言って、腰のポーチから、小さく折り畳まれた、色褪せた緋色のリボンを取り出した。


「これ、覚えてる?」

「それって……」

「小さい頃、私が初めて編み物の練習をした時に作った、お守りのリボン。エイルが昔、転んで怪我した時に巻いてあげたやつ。ずっと持っててくれたでしょう? こないだ、エイルの天幕の机の上に置いてあったから、少しほつれてたの、私が直しといたよ」


 彼女は、エイルの傷ついた右手首に、その緋色のリボンを優しく、丁寧に結びつけた。


「はい、これで大丈夫。レイハルト様には私の祈りがあるけど、エイルには、この私のお守りがあるからね。戦場では、絶対に私の後ろから出ちゃダメだよ?」

「……うん。約束する。ありがとう、セリア」


 手首に巻かれたリボンからは、微かにセリアの、いつも香る野苺のような甘い匂いがした。

 エイルは、そのリボンの結び目を、愛おしそうに左指でのなぞった。


 彼女が去った後、夕闇が静かに戦場を包み込み始める。

 遠くの陣頭では、金色の髪をなびかせたレイハルトが、多くの騎士たちに囲まれながら、明日の作戦会議へと向かう姿が見えた。歓声と、信頼の眼差し。彼こそがこの世界の太陽だ。


 エイルは、夕闇の影の中に完全に身を溶け込ませながら、輜重部隊の物陰へと移動した。

 周囲に人がいないことを「気配感知」で完全に確認すると、彼は結ばれたリボンの上から、右手をそっと宙に突き出した。


 空間が、微かに歪む。

 彼の固有魔術『影の兵装シャドウ・アーマリー』が発動し、漆黒の、身の丈ほどもある異形の長弓が姿を現した。弦はなく、ただ純粋な魔力の高まりだけが、大気を微かに震わせている。


 右手の痺れは、リボンが巻かれたことで、不思議と和らいでいるように思えた。


「……セリアが、選んだ人だ」


 エイルは、ぽつりと呟いた。

 その声には、悲哀も、恨みも、何もなかった。ただ、鋼のような、絶対の決意だけがあった。


「絶対に、死なせない。あいつが死んだら、君の未来が泣くからな」


 明日、連合軍は「黒鉄の平原」にて、魔王軍の幹部、十の災厄の一角である『百足将ひゃくそくしょう・ガイザ』との決戦に臨む。

 レイハルトは表の総大将として、燦然たる光を放ちながら敵陣へ切り込むだろう。

 そして、エイルは――その遥か後方、あるいは誰にも見えない奈落の底から、ただ一射の、絶望を刈り取る矢を放つために、影を這う。


 世界が彼を知らなくとも、彼女が別の誰かを愛していても。

 この緋色のリボンが手首にある限り、エイル・ラングレンは、誰よりも無敵の「影の英雄」であり続けるのだ。

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