第2章 第4話:虚妄の牢獄と、揺るぎなき絆
地下迷宮の第四層へと足を踏み入れた瞬間、それまでの結晶に満ちた洞窟の景色は掻き消え、世界はねっとりとした、不気味な紫色の霧に包まれた。
大気そのものが意思を持っているかのように、肌にまとわりついてくる。こここそが、侵入者の精神に眠る「最も傷ついた記憶」を穿ち、狂気へと叩き落とす最悪の精神牢獄――『虚妄の精神牢獄』だった。
「うっ……、頭が、割れそうに痛むわ……っ」
セリアがこめかみを押し、苦悶の声を漏らす。彼女の聖印の光が、紫の霧に侵食されてチカチカと不自然に明滅していた。
この階層の奥では、すでに心を折られたレイハルトが「私は偽物の英雄だ」という幻影の絶望に囚われ、廃人のように佇んでいるはずだった。
「大丈夫だよ、セリア。俺の影に入って」
エイルは瞬時にセリアを左腕で引き寄せ、己の『聖なる影の魔力』を展開して彼女を霧から遮断した。
右手首の焦げた緋色のリボンが、エイルの魔力に呼応して黒白の光を放つ。セリアはエイルの胸に顔を埋めることで、ようやく激しい頭痛から解放され、安堵の息を吐いた。
だが、世界の悪意は二人を逃がさない。
二人の足元の影がぐにゃりと歪み、霧が集まって「あり得ざる光景」を形作り始めた。
それは、まばゆい陽光が降り注ぐ王都の大聖堂。
美しいウェディングドレスを着たセリアが、黄金の髪をなびかせたレイハルトと手を取り合い、大歓声の中で誓いのキスを交わしている。そして、その式場の片隅、誰も見向きもしないゴミ溜めのような物陰で、右腕を失い、血を吐いて這いずりながら、誰にも看取られずに孤独に息絶えていくエイル自身の姿だった。
『見よ。これがお前が望んだ未来、お前が迎えるはずだった真実の結末だ』
霧の奥から、低く不快な、中ボスである虚無の眷属『幻魔公・ジハル』の声が響く。
『お前はどれだけ命を削ろうとも、所詮は光を際立たせるための泥に過ぎん。その女の心の中に、お前の居場所など最初から無いのだ。お前が隠居先で見た幸福な日々など、死にゆくお前の脳が見せた都合の良い走馬灯に過ぎんのだよ……!』
残酷な幻影。そして、かつてエイルが心の奥底で、一番恐れていた「最も暗い可能性」の具現化。
普通の人間であれば、この精神の急所を突かれ、現実と幻覚の境界を見失って発狂していただろう。
エイルは一瞬、大聖堂の幻影を見つめ、胸の奥をチクリと刺されたような感覚を覚えた。
だが――彼の瞳に宿ったのは、絶望ではなく、心底呆れ返ったような、冷徹な軽蔑の光だった。
「……セリア。あいつ、俺たちのことを何も分かってないな」
「ええ、本当に。あまりにも的外れで、笑えてくるわ」
エイルの胸に抱かれていたセリアが、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の琥珀色の瞳には、恐怖も迷いも一切無かった。そこにあるのは、エイルへの絶対的な愛と、彼を侮辱されたことへの激しい怒りだけだ。
セリアはエイルの首へと両手を回し、幻影のドレス姿の自分など踏みつけるように、本物の、温かい身体をエイルへと強く、強く押し付けた。
「私は今、ここにいるわ、エイル。あなたの胸の中に、あなたを世界で一番愛する私が、確かにここに生きている。あんな偽物の光のステージなんて、私は一度だって望んでいないわ!」
「ああ。分かっているよ、セリア」
エイルは左腕でセリアの細い腰をしっかりと抱きしめ、その温もりを全身で確かめた。
一年前の孤独なエイルなら、この罠にかかっていたかもしれない。だが今の彼は、セリアの真実の愛を知っている。二人が紡いできた最果ての時間は、こんな安っぽい幻覚で揺らぐほど脆くはなかった。
「最高のプレゼント(真実の愛)を貰っちゃったな。おかげで――あいつの居場所が、完全に繋がった(リンクした)」
エイルの右手首の緋色のリボンが、爆発的な輝きを放った。
エイルは、敵が仕掛けてきた「精神攻撃の霧」そのものの魔術波形を、右指の『影のハッキング・コード』で完全に逆探知していたのだ。幻影を見せるために二人の脳へと侵入してきた敵の術式回路を、エイルの超演算脳が逆に辿り、霧の奥の奥、空間の割れ目に潜む中ボス・ジハルの座標をミリ単位で特定した。
「セリア、魔力を最大出力で。あいつの脳を直接書き換える」
「ええ、私のすべてを使いなさい、エイル――っ!」
セリアがエイルの右肩に全ての魔力を注ぎ込む。純白の聖なる光が、エイルの漆黒の影と交じり合い、因果を捻じ曲げる『聖影の逆ハック・システム』が起動した。
エイルは動かないはずの右指を宙に向けてパチンと弾いた。
「術式全反射――『妄想の因果逆転』」
キィィィィィィィン!!! と、大気が引き裂かれるような超高周波の精神魔力波が、エイルの指先から、霧の迷路を突き破って一直線に放たれた。
それは、敵が仕掛けてきた精神崩壊の術式をそのまま120%に増幅し、**「ジハル本人の脳内へと強制的にブチ込む」**という、容赦なき精神の処刑だった。
「ギ、ギャアアアアアアアアアアアアッ――!?!?!?!」
霧の奥から、鼓膜をツンざくような、ジハルの凄まじい絶叫が響き渡った。
ジハルの脳内には今、彼自身が最も恐れる『虚無の王に無残にスクラップにされ、暗闇の中で永遠に部位解体され続ける』という、極限の恐怖の幻影が無限ループで叩き込まれていた。
自分が作った完璧な精神牢獄に、自分自身がハメられたのだ。
「あ、が……、あ、頭が、割れる、私が、消える、虚無が、私がぁぁぁっ!!」
ジハルは自らの爪で自らの頭部を掻きむしり、脳の全神経細胞がストレスで一瞬にして焼き切れ、その場に血を吐いて泡を吹いて倒れ伏した。主を失った紫の霧は、まるで幻だったかのように綺麗に霧散し、あたりには再び薄暗い洞窟の景色が戻った。
目の前に転がっているのは、精神が完全に崩壊し、廃人となったジハルの哀れな姿だけだった。エイルは一度も武器を振るうことなく、指先一つで、レイハルトを破った迷宮の支配者の一角を完全に自滅させてみせた。
「……さあ、行こうか、セリア。この先が、最奥部だ」
「ええ。あのバカな英雄を、早く助け出してあげましょう」
エイルはフードを被り直し、セリアの手をしっかりと握った。
二人の揺るぎなき絆の前には、どんな絶望のシステムもただのおもちゃに過ぎない。光と影の真の反撃は、いよいよ迷宮の最深部、レイハルトの囚われる『虚無の玉座』へと到達しようとしていた。




