接吻順列
昨夜の熱に浮かされたような夜から一転、朝の光が差し込むアジトは、どこか不思議な緊張感に包まれていた。口づけを交わした二組は、寝不足の気配を隠しつつも、心なしか表情は晴れやかで、決戦に向けた闘志に満ちている。
「アリスさん。なんだか今朝はやけに……調子が良さそうですね?」
ミーナがアリスの顔を覗き込み、小首を傾げた。その瞳は、何かを見透かすように鋭い。
「えっ!? ああ、えっと……まぁ……そう、かな?」
アリスは動揺を隠そうと視線を彷徨わせ、顔を真っ赤に染める。そんな彼女の様子に、ミーナは興味深そうに目を細めた。
「ジーッ……。なんだか怪しいですね。昨夜、何かあったんでしょうか……まさか、口付けを交わしたりしてませんよね?」
「はぇっ!? そ、そそんなこと、してないからっ!!」
アリスが狼狽して否定するのと同時、すぐ近くにいた剣一の方へ、ミーナは音もなく回り込んだ。
「……剣一さん。昨日、キスしました?」
「っ!? な、なぜそれを知っているんだ!?」
剣一はあまりの不意打ちに、あっさりと自白してしまった。
「……やっぱりですね。アリスさん? ……剣一さん、失礼しますね」
ミーナは剣一の背後に回り込むと、唐突にその耳元へと口を寄せた。
はむっ、と柔らかい感触。続いて、小犬のような舌先が耳の裏を二、三度、ねっとりと舐め上げる。
「……ああっ!? ちょ、やめるんだ、ミーナっ! くすぐったい……んっ!」
緩んだところに、顔を寄せミーナが口付けをする。
「んっ、ふふふ」
「あ、あんた、なにしてんのよぉぉぉっ!! やめなさいっ、そんなこと、あたしだって耳はまだ……っ!」
アリスが顔を真っ赤にしてミーナに飛びかかる。アジトの一角で、朝からまたもや騒がしい聖戦の火蓋が切られようとしていた。
その横で、一部始終をじっと見ていた真白が、シロミの袖を引く。
「……ねえ、お姉ちゃん。ミーナちゃんがやってたこと、お姉ちゃんにもできる?」
「はぇっ!? も、もちろんできるわよ! ……ほら、こうでしょう?」
シロミは動揺を隠しきれない様子で真白の耳元に顔を寄せると、ミーナの真似をして「はむっ」と噛みつき、舌先で二、三度なぞってみせた。
「はうっ……! ふふふ、確かにすごくくすぐったいね」
真白が嬉しそうに身をよじらせると、その無邪気な反応に耐えきれなくなったのか、シロミは情熱的な眼差しで真白の唇を奪った。
「……真白ちゃん……んっ……!」
「んっ……。ダメだよっ……? みんな起きてるのに……っ」
真白が頬を染めてシロミを押し返すと、シロミは乱れた髪をかき上げ、開き直ったように胸を張った。
「ご、ごめんなさい! でも、あまりに可愛くてつい……。全部、剣一とアリスが悪いのよ!」
「な、ちょっ……!? なんでそこであたしたちが出てくんのっ!?」
アリスがミーナを抱きしめたまま驚愕の声を上げる。シロミは冷ややかな、けれどどこか蕩けるような笑みを浮かべて言い放った。
「あなたたちが昨日、とんでもない感情を私に教えたんですもの。全部その影響よ。ねぇ、真白ちゃん?」
「そうだよ! お兄ちゃんたちから学んだことだもんっ!」
真白もまた、悪びれる様子もなく剣一に駆け寄る。剣一は頭を抱え、絶望的な溜息をついた。
「か、勝手に盗み見て真似をしたのはお前らだろっ! いい加減にしろっ!」
剣一の悲痛な叫びも虚しく、アジトは混沌のるつぼと化していた。そんな中、何故かツキノを先頭に、ルミナ、リリアと、女子メンバーたちが剣一の元へ整然と列を作り始めた。
「……お、お前ら。一体何をしているんだ?」
剣一が引きつった顔で尋ねると、先頭のツキノが堂々と胸を張った。
「えっ!? 順番待ちをしているんだぞっ。剣一から直接『とんでもない感情』を叩き込まれると聞いたら、並ぶしかないんだぞっ!」
「……私も、今のこの胸のざわつきの正体を知りたい。剣一、よろしく」
ルミナまでが冷徹な表情のまま真剣な口調で続き、リリアも頬を染めながら後に続く。
「み、みんながそんな熱い感情を持っているなら、私も置いていかれるわけにはいかないよなっ! 私だって、強くなるためなら何だって学ぶ覚悟だっ!」
「お前たち……一体、何をどう勘違いしているんだ……!?」
剣一が冷や汗を流して後ずさりするのと同時に、それまで罵り合っていたはずの真白やシロミ、さらに幼いロロとララまでが、純粋な好奇心で列に加わった。
そして、その列の最後尾。目を閉じ、腕を組んで何かを深く思索していたバレットまでもが、重々しく一歩を踏み出す。
「……フム。戦うためには、情動のコントロールも重要だ。剣一、俺にもその『極意』を伝授してくれ」
「……バレット、あんたまで何やってんのよっ!!あんたたちぃぃっ!! 流石にそれはダメに決まってるでしょおぉぉぉぉっ!!」
アリスの悲痛な絶叫が、アジトの天井を突き抜けるほど高く響き渡った。
決戦前夜の恋の火遊びは、いつしか「剣一を巡る教育実習」という名目の、前代未聞の集団パニックへと変貌を遂げていた。
「おい、アリス。落ち着けよ。これはあくまで作戦遂行のための……ッ!?」
バレットがアリスを諭そうと振り返った瞬間、整列していた全員の視線が、獲物を狙う獣のように剣一へと集中する。アジトは今、戦場よりも遥かに過酷で甘美な「聖戦」の地と化していた。
剣一は次から次へと押し寄せる欲望の波に飲まれ、抜け殻のように床へ大の字になって横たわっている。一方、すべてを目撃してしまったアリスは、もはや言葉もなく膝をつき、床に額を押し当てて完全に魂を抜かれていた。
そんな中、決行した張本人であるツキノが、物足りなそうに首を傾げる。
「……思ってた感じとは、ちょっと違ったんだぞっ。もっとこう、爆発するような何かを期待してたんだぞっ……」
「……なんだか分からないけれど、頭の中がふわふわして、雲の上を歩いているみたい」
ルミナは顔を手で覆い、陶酔しきった表情でふらついている。そんな中、真っ赤になったリリアが、ありえない勘違いをして震えていた。
「……け、剣一との……赤子が、できてしまうっ! 私は、一体どうすれば……!」
「「お父様ー! 幸せだよー!」」
ロロとララまでもが、無邪気に喜びを爆発させている。そんな混沌の中、真白がぽつりと呟いた。
「……お兄ちゃんも悪くなかったけど、やっぱりお姉ちゃんの方が良かったかなあ……」
「あらあら、私もそう思ってたのよ! やっぱり真白ちゃんとが一番ねっ!」
シロミが真白を抱きしめて恍惚としている。もはや剣一を巡る陣取り合戦なのか、ただの集団狂気なのか分からない。最後にバレットが、呆然と壁にもたれかかりながら一言だけ叫んだ。
「……よく分からんッ!! だが、何かが……何かが確かに強くなった気がするッ!!」
バレットですら何をしたのか理解できないまま、アジトには戦場とは別の意味で「終わった」後の気だるい空気が漂っていた。
しかし、リーダーの鼓動は止まらない。バレットは床に散らばる一同を仁王立ちで見下ろすと、枯れ果てた喉で叫んだ。
「よしっ! 俺たちは今、また一皮剥けたはずだっ! 今のこの『何か』を力に変えるぞ! 残り二拠点、根性入れてぶっ潰しに行くぞッ!」
「「お、おー……!!」」
皆の返事は、どこか力が抜けていて、それでいて妙に神妙だった。
そんな中、アリスの膝の上でようやく魂を戻した剣一が、罪悪感に顔を歪める。
「……アリス、俺……結局、何も守れなかった。……すまん……」
「……ううっ……。あの人数じゃ、さすがに剣一でも一人で耐え切れるわけないし……」
アリスは深く溜息をつき、悔しさを噛みしめるように唇を尖らせた。しかし、その瞳には昨日までとは違う、ある種の「所有欲」にも似た強い決意が灯っている。
「……後で、あの子たちがした分、人数分……あたしが上書きしてやるんだからっ! ……覚悟しなさいっ!」
「あ、ああ……お手柔らかに頼む……」
戦場への恐怖よりも、これから始まる「上書き」の予感に剣一は冷や汗を流す。
こうして一行は、狂乱を心の奥底に封印し、二手に分かれてアジトの扉を開いた。
外の空気は冷たく、冷徹な奴らが待ち受ける拠点はすぐそこにある。けれど、一行の歩調は不思議と力強く、歪なほどに強固な絆を湛えていた。




