艱難辛苦(かんなんしんく)
ロキの耳障りな笑い声をよそに、真白の心は完全に叩き折られていた。瞳からは光が失われて虚無に染まり、頬を伝う涙だけが、辛うじて彼女の生存を証明している。
「イヒヒッ!本当、哀れな奴らだぜェッ!なァ、今、どんな気持ちなんだァ?教えろよォ。真白ちゃんッ!!」
ロキが顔を覗き込み、愉悦に浸りながら問いかける。その時、真白の唇が微かに震えた。
「……ゆ……許さない……お前だけは……絶対に……許さない……許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さないっ!許さないッ!ユルサナイッッ!!!!」
「アァ?壊れちまったかァ?イヒヒッ!」
呪詛のような叫びと共に、真白の全身から泥濘のようなドス黒い魔力が噴き出した。凄まじい負の波動が大気を震わせ、周囲の床や頑丈な鉄の建物が、悲鳴を上げるようにパキパキとひび割れていく。
「真白……!? 真白っ、落ち着くんだっ!! それ以上は命に関わる、やめろっ!!!」
最愛の妹の異変に、剣一は喉が裂けんばかりに叫ぶ。しかし、暴走する魔力の渦に呑まれた真白の耳には、兄の声すら届かない。
「君の相手は、私だよ。大切な妹が壊れていく時に余所見とは、感心しないなぁ」
追い打ちをかけるように、白銀のランスを携えたプラチナが冷徹な刺突を繰り出す。その高速の一撃一撃が剣一を死線へと追いやり、妹の元へ駆け寄ることすら許さない。
「くっ、どけと言っているんだ! ――限界突破Ⅱ(ダブル)鬼人ッ!!!」
剣一の瞳が赤く染まり、その肉体に鬼の如き魔力が宿る。鬼気迫る勢いで怒涛の斬撃を仕掛けるが、プラチナは眉一つ動かさず、最小限の動きでそのすべてを精密に防ぎ切る。
「焦燥は刃を鈍らせる。その程度の剣では、私の鎧に傷一つ付けることはできないよ」
「……黙れッ!」
剣一の叫びも虚しく、焦りが攻撃の精度を下げ、本来の鋭さを失わせていく。
一方、シロミもまた、崩壊していく愛する彼女を前に悲痛な叫びを上げていた。
「真白ちゃんっ!! ダメよ、自分を失わないでっ!! お願い、戻ってきてッ!!!」
シロミの背後に巨大な悪魔の翼が広がり、『大魔王憑依』へと変貌を遂げる。荒れ狂う闇の魔力を拳に纏わせ、補佐官へ高速の連打をお見舞いするが、怒りに任せた力押しの連撃は、補佐官の手の平の上で容易く受け流されていく。
「無駄な足掻きだ。守るべき相手が壊れていく絶望……それを特等席で眺めているがいい」
「っ……! どきなさい、邪魔だって言ってるのッ!!」
必死に手を伸ばそうとするシロミだったが、焦燥により、眼前の壁を崩すことができない。二人の守護者が敵に釘付けにされている間にも、真白から溢れ出すドス黒い魔力は、彼女自身の命を削るように膨れ上がっていった。
「……あ……カ、ガ……ガギ……ギ……@&$&¥★〇△▫■◆♀♂々〆※★」
真白の口から漏れるのは、もはや言葉の体をなさない、耳障りなノイズのような音の羅列だった。
「アァ? 何言ってんだァ? 本当に中身までぶっ壊れちまったのかァ? イヒヒッ!」
ロキの嘲笑を余所に、真白には形容しがたい邪悪なオーラが宿っていく。体内の魔力の流れがすべて通常の逆回転へと転じ、世界そのものを拒絶するような歪な波動を放ち始めた。
焦点の合わない虚ろな瞳のまま、心はすでにここにはない。
普段の『信愛の純光』を象徴する清楚な白銀の法衣は、その輝きをドス黒く塗りつぶされ、至る所が刃物で切り裂かれたような漆黒のボロ布へと変じている。頭を覆うフードもまた、黒く焼け焦げたように裂け、彼女の表情をより深い闇へと沈めていた。
真白の身体がゆらりと、重力を無視して宙に浮き上がる。
同時に、その右手には濃密な闇が集束し、巨大な「死神の鎌」が禍々しい姿で生成された。
その刹那――。
「……死……ね……」
予備動作の一切ない、死角からの超高速の薙ぎ払い。
漆黒の刃がロキの喉元を掠める。
「……チッ! なんだァ、こいつァ……急に気味が悪りィ動きしやがってェ……!」
間一髪で首を反らして回避したロキの頬には、薄く、だが深い切り傷が刻まれていた。先ほどまでの余裕は消え、冷や汗を流しながら真白を睨みつける。
「……死……ね……。……シネ……シネシネシネシネッ!!」
真白の喉から漏れるのは、感情の死に絶えた無機質な殺意。
ロキは忌々しげに舌打ちすると、手にしたロッドの鋭利な石突を地面へと突き立て、迎撃の構えを取った。
「クソがッ! 壊れた玩具の分際で、調子に乗りやがってよォッ!」
しかし、反撃に転じようとしたロキの目を見開かせたのは、真白の異常な挙動だった。
彼女は巨大な鎌を、重さを一切感じさせない異様な速度で振り回し、猛烈な連撃を開始する。その動きには戦士としての理法もなく、ただ獲物を解体することだけを目的にした、獣じみた執着があった。
一撃、二撃。漆黒の刃が空を裂き、ロキの退路を削り取っていく。
身体の節々が、物理的な限界を超えた動きに悲鳴を上げ、関節が逆に曲がるような不自然な角度からでも鎌が飛んでくる。それは、魂が燃え尽きるまで、あるいは対象を細切れにするまで決して止まらない、終わりのない殺戮機械のようだった。
「ッ……!? こいつ、筋肉が千切れるのも構わず動いてやがんのか……ッ!」
ロキの防戦は次第に追い詰められ、その背後には真白が放つドス黒い魔力の霧が、死の帳のようにじわりと迫っていた。
絶体絶命の瞬間、見かねたツール・プラチナと補佐官が、瞬時にロキの盾となるべく割って入る。
だが、今の真白にとってそれらはもはや障害物ですらなかった。彼女は対象のすべてを細切れにせんと、死神の鎌をさらに加速させる。
「――ッ!?」
盾となった補佐官は抵抗の暇もなく、一瞬にしてその身体を切り刻まれ、絶命した。最強クラスの戦士であるツールでさえ、白銀のランスを砕かれ、胸当てを深く切り裂かれて辛うじて一命を取り留めるのが精一杯だった。
「真白、それ以上はよせっ! 落ち着いてくれ、真白っ!!」
「真白ちゃんやめて!! これ以上は本当に、あなたの心が壊れてしまうわッ!!!」
剣一とシロミの悲痛な叫びが戦場に響く。しかし、真白はドス黒い魔力を溢れさせたまま、不敵な、そして空っぽな笑みを浮かべたままだ。
「……許さない。殺す。殺す。殺す……コロス。アハ、アハハハハハハッ!!」
狂ったように笑いながら、真白は地を這うロキを見下ろした。その瞳には感情の光はなく、ただ底冷えするような暗黒が揺れている。
「ねえ、ロキ。今、どんな気持ちなのかなぁ……? 自分のオモチャに壊される気分は、どう?」
「あんまり調子に乗ってんじゃねェぞォ、この欠陥品がッ!!!」
ロキが最後の手札を切ろうと腕を動かした瞬間、漆黒の閃光が走った。
「……ア? ――グ、ガアアアアアアァァッ!!!」
絶叫が響き渡る。庇いに入ったツールが切り裂かれ、その勢いのままロキの双腕も肩口から削ぎ落とされた。鉄の床を汚すどろりとした鮮血が、残酷なまでの現実に突きつける。
「ねえ、今どんな気持ち? 教えてよ、ねえ……ねえっ!」
真白は幼子が遊びをせがむような無邪気さで、血に濡れた顔を近づける。
「クソがッ! ゲ、ゲヒッ……あの花恋ってやつも、さっさと殺しておくべきだったなァ……イヒヒッ……」
死の淵にありながら、なおも他者を踏みにじるロキ。その言葉を聞いた瞬間、真白の周囲の魔圧がさらに一段階、跳ね上がった。
「……へえ。まだ、そんな汚い口を動かせる余裕があるんだね」
冷酷な一言と共に、鎌が再び旋回する。間髪入れず、ロキの両脚が付け根から断たれた。
「クソがッ、クソが、クソがクソがァッ!!」
四肢を失い、ただの「肉塊」と化したロキがのたうち回る。かつて彼らが多くの人々にしてきた「改造」という名の蹂躙が、最悪の形で自分自身へと返ってきた瞬間だった。
血の海に沈むロキを見下ろし、真白はさらなる絶望を刻もうと死神の鎌を振り上げる。その昏い瞳には、もはや慈愛の光は微塵も残っていない。
「真白ちゃん、お願い……もう止めて……!!」
シロミが必死の思いで叫び、暴走する魔力の渦中へと踏み込み抱きしめる。
「真白ちゃん、これ以上はダメよ……。そいつを弄ぶのは、そいつらと同じ地獄に落ちることと同じなの。復讐のために、あなたのその綺麗な心を汚しちゃいけない!」
真白の動きが一瞬だけ止まる。しかし、鎌から放たれる邪悪なオーラは消えない。シロミは構わず、真白の震える背中に語りかけ続けた。
「……真白ちゃん。あなたは今まで、たくさんの人を救ってきたじゃない。その温かい光で、私の心の闇だって照らしてくれた。今のあなたは強い。でも、今のその強さは『憎しみ』に操られているだけよ。本当のあなたは、誰かを傷つけるためじゃなく、大切な誰かを守るために、その優しさを力に変えられる人のはずよ!」
シロミの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「戻ってきて、真白ちゃん……! 私は死神のあなたじゃなくて、一緒に笑って、一緒に明日を夢見てくれる、私の大好きな真白ちゃんに会いたいの。あなたをただの人殺しになんて、絶対にさせないわよ……っ!!」
シロミの魂を削るような叫びが、真白の閉ざされた心に一筋の光を投げかける。死神の装束が微かに揺れ、漆黒の鎌を持つ真白の手が、激しく震え始めた。
「戻ってくるんだ、真白っ!!」
剣一もまた、真白の元へ一歩を踏み出す。その瞳には、恐怖ではなく、妹を信じる揺るぎない愛が宿っていた。
「お前の帰りを待っている仲間たちがいる! みんな、優しくて温かいお前が大好きなんだ! こんな奴のために、お前のその綺麗な手を汚させるわけにはいかないっ! 真白、俺を見ろ! お前の兄貴はここにいるぞ!!」
剣一の声が、真白の意識の底に沈んでいた「共に過ごした仲間との記憶」を呼び覚ます。
漆黒の死神の装束が、内側から溢れ出す本来の純白の魔力によって、内側からボロボロと剥がれ落ちていく。禍々しく渦巻いていた負の波動は、二人の叫びに浄化されるように霧散していった。
「……お……に……い……ちゃ……ん……。おね……え……ちゃん……?」
真白の虚ろだった瞳に、ほんの少しだけ生気が戻る。
その右手に握られていた巨大な鎌が、音を立てて砕け散った。真白は糸が切れた人形のように、その場に力なく崩れ落ちる。
「……あ……あああ……私、なんて……ことを……!」
自分のボロボロに変形し、赤く汚れた両手。そして、自らが引き起こした無惨な光景を目の当たりにし、真白は恐怖に顔を歪めた。
「あ……あ、ああ……っ!」
喉の奥で震える悲鳴を上げたのを最後に、真白は精神的な限界を迎え、糸が切れたようにその場に倒れ込んだ。その小さな身体を、剣一とシロミが左右から強く、二度と離さないと言わんばかりに抱きしめた。
だが、地獄の底から這いずるような執念は、まだ潰えてはいなかった。
「……ゲヒッ……まだ、終わってねェ、ぞォ……ッ!」
四肢を失い、血の海に沈んでいたロキが、あろうことか自らの武器であるロッドを口で咥え、全魔力を注いだ一撃を三人の背中へ突き立てようと襲いかかったのだ。
回避は間に合わない――。剣一が身を挺して二人を庇おうとしたその刹那、空を切る鋭い風の音が響いた。
「――そこまでよ、ゲス野郎」
閃光のごとき蒼炎の一撃がロキの心臓を貫く。
事態を察知し、間一髪で戦場に舞い戻ったアリスが、容赦なくトドメを刺したのだ。
「グハッ……バ、バカ……な……この、俺が……っ……」
ロキは最期まで呪詛を吐き散らしながら、今度こそ物言わぬ肉塊へと変わり、その醜悪な生涯を閉じた。
「……なんだか、色々と大変なことになってたみたいだけど。とりあえず、みんなが無事で良かった」
アリスは深い溜息をつきながら歩み寄る。その表情には、過酷な任務を終えた疲労と、変わり果てた戦場の惨状に対する驚き、そして仲間たちの生存を確認した安堵が複雑に混ざり合っていた。
「……ここまでの事態になっていたなんてね。ごめん、遅くなって……」
アリスの言葉に、剣一は静かに首を振った。今は言葉よりも、傷ついた妹を救うことが先決だった。
「いや、助かった……。真白は俺が背負っていく。一刻も早くここを離れ、アジトへ帰還するぞ」
剣一は、意識を失い、冷たくなった真白の身体を優しく背中に担ぎ上げた。その重みを感じるたびに、彼女に背負わせてしまった心の傷の深さが胸を刺す。
アリスとシロミが重々しく頷くと、三人は横たわるロキやプラチナの亡骸、そして崩壊した拠点を背にした。
二度と戻ることのない、凄惨な決戦の地。
一行は沈黙を守ったまま、その場を後にしたのだった。




