光陰矢の如し
それぞれ激しい訓練を終え、心地よい疲労感が漂い始めた頃、見回りに出ていたツキノとルミナが帰還した。
「特に異常はなかったんだぞっ! アジトの周囲はネズミ一匹通さないくらい平和だったんだぞ。みんなも訓練は終わったんだぞ?」
ツキノが軽やかな足取りで報告すると、剣一は額の汗を拭いながら頷いた。
「ああ、今終わったところだ。……今日はこのくらいにして、明日に備えて休もうと思う」
「そうね。ロロとララも、私のアドバイスをよく聞いて頑張っていたわ。成長を促すためにも、今はしっかり休むことが大事よ」
シロミが二人の頭を撫でながら、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。そこへ、壁に背を預けていたバレットが、ぶっきらぼうに言葉を添えた。
「……あー、言うのを忘れてたが、ここにはまともな飯も寝床もねぇぞ。そこにある乾いたパンを適当に齧っておいてくれ。寝る時もその辺の床に布団でも敷いて、雑魚寝してくれりゃ構わねえ。あと、シャワーも一応あるが、水が出るだけマシだと思って適当に使ってくれ」
「……わかった。屋根があるだけありがたいさ。今は贅沢を言う時じゃない」
剣一はバレットの言葉に小さく笑って応じた。豪華な設備はなくとも、自分を信じてくれる仲間が隣にいる。その事実が、何よりの活力になることを全員が感じ取っていた。
「食事なんて味よりも、誰と食べるかが大事なんだから大丈夫っ! みんなと一緒に囲める、それだけで最高のご馳走だよっ!」
真白が屈託のない笑顔で拳を握ると、場がパッと明るくなる。
「ふふ、そうね。私も真白ちゃんの幸せそうな顔を見ながら食べられるだけで、お腹いっぱいになれそうだわ」
シロミが目を細めて真白を見つめる傍らで、アリスだけは一点を見つめたまま、なにやら別の悩みに没頭していた。
「……シャワー、一人分のスペースしかないんだ。……そ、そうなんだ……。し、仕方ないっ……。……混浴とか、そういう展開には……ならないか……。うん、我慢しよ……っ」
「……あらあら、アリスちゃん? 心の声が全部漏れているわよ。みんなに丸聞こえだから、もう少し気をつけたほうがいいわよ?」
「……っ!? う、嘘っ! こ、声に出ちゃってた……? 」
シロミの妖艶な指摘に、アリスは顔から火が出るほど真っ赤になり、その場に蹲った。剣一はといえば、聞こえていないふりをして不自然に視線を泳がせ、バレットは「やれやれ」と肩をすくめている。
そんな大人たちの喧騒の傍らで、ロロとララが大きな涙をボロボロとこぼしながら、配られた硬いパンを夢中で頬張っていた。
「うう……美味しい。美味しいよぉ……っ。今まで、まともに食事なんて食べられなかったから……。みんなと一緒にこうして食べられるなんて、本当に幸せだよ……っ」
「あっちも……あっちも幸せ。すごく美味しい。……ずっと、みんなで笑って食べるのが夢だったから……」
喉を詰まらせるようにして、けれど慈しむようにパンを噛みしめる二人。その小さな背中に、彼らが背負ってきた孤独と空腹の記憶が透けて見え、広間にしんとした静寂が広がった。
「あらあら、泣かないの。美味しい食事中は、笑顔でいるのよ。私たちにとってはね、あなたたちのその笑顔も立派なご馳走の一つなんだから」
シロミは二人の隣に優しく腰を下ろすと、汚れを拭うようにその頬を指先で撫でた。魔王の鋭い気配は消え、そこには幼い命を慈しむ聖母のような温かな慈愛だけが満ちていた。
その光景を、少し離れた場所から見つめていたリリアの瞳にも、熱いものが込み上げる。彼女は鼻の奥がツンとするのを必死に堪え、あらぬ方向を向いて瞬きを繰り返した。
「リリアも泣きそうなんだぞっ! 今までずっと、一人で必死に頑張ってきたんだぞ。……我慢しないで、泣いちゃってもいいんだぞっ?」
ツキノが背中をポンと叩きながら、全てを見透かしたように顔を覗き込む。
「な、泣いてなどいないっ! この私が、このような場所で涙を流すわけがないだろう……っ! もぐもぐ、もぐもぐっ!」
リリアは慌てて乱暴に目元を拭うと、動揺を隠すように次から次へと口へパンを運び、頬をリスのように膨らませた。
強気な言葉とは裏腹に、震える手でパンを噛みしめる彼女の姿は、ようやく「独り」から解放された安堵に満ちていた。
「……リリア。あまり詰め込みすぎると、喉に詰まる」
隣に座っていたルミナが、いつになく穏やかな手つきで、リリアの背中をトントンと優しく叩く。感情を出すのが苦手なルミナなりに、リリアの心の揺れを静かに受け止めていた。
「も、もふっ!? ……はぁっ、はぁっ、……わ、わかっている……っ!」
喉に詰まりそうになりながらも必死に飲み込むリリアを見て、ミーナが慌てて水を用意しながら諭すように言葉を放った。
「もぉ、みなさんっ! パンはまだたくさんありますから、もっと落ち着いて食べてくださいねっ! 飲み物もちゃんと飲まないとダメですよ?」
ミーナの甲斐甲斐しい気遣いに、張り詰めていた広間の空気はさらに和らぎ、食卓にはいつの間にか自然な笑顔が戻っていた。
そして訪れた就寝時間。殺風景なアジトの床に布団をピチッと二列に並べて敷き詰めると、初めての大人数での雑考寝に、一同はここが敵地の真っ只中であることを忘れ、束の間の楽しい時間を堪能しようと、まるで旅行気分かのように浮き足立った気分に包まれていた。
「さぁ、待ちに待った枕投げの時間なんだぞっ! ルールは一つ、魔法を使うのは厳禁なんだぞっ!」
ツキノが掛け声と共に先制攻撃の構えを見せると、場に心地よい緊張感が走る。
「……くらえっ!」
剣一が狙いを定め、まずは隣で立ち尽くしていたバレットに向かって全力で枕を放った。至近距離から放たれた枕は、無防備だったバレットの顔面に「べしっ!」と見事な音を立てて直撃する。
「……てめぇ、やりやがったな、剣一」
バレットがゆっくりと顔を上げ、その瞳に静かな闘志が宿る。
二人が火蓋を切ったのを合図に、広間は一気にカオスと化した。あちこちで枕が飛び交い、覚醒したばかりの超人的な身体能力を無駄に使った、ハイレベルな枕の投げ合いが始まった。
「ちょっとリリア! どさくさに紛れて剣一に急接近しないでっ!」
アリスは自慢の推進力を脚力に変換し、リリアに向かって猛烈な勢いで枕を連射する。その速度はもはや弾丸のようだったが、リリアも「雷神」の如き反射神経でそれを全て叩き落とした。
「何を言う! 私はただ、剣一の隙を突こうとしただけだ。……そら、お返しだぞっ!」
一方、バレットは剣一とのタイマンを楽しんでいたが、そこに小さな援軍が加わる。
「お父様をいじめるなーっ! えいっ、えいっ!」
「バレットさん、覚悟してくださいっ!」
「お、おいっ! お前らまで……! ぐはっ、ロロ、今のはいいコントロールだ……!」
ロロとララの健気な波状攻撃とミーナの力の入っていない投擲に、流石のバレットも苦笑いしながら防戦一方となる。その隙を見逃さないのがシロミだった。彼女は魔王の風格を漂わせながら、飛んでくる枕を踊るような優雅さでかわし、隙だらけになった者の後頭部へ正確無比な一撃を叩き込んでいく。
「あらあら、戦場で後ろがお留守なのはどうなのかしら?」
「……っ!!」
無表情のまま、ルミナも参戦していた。彼女は氷の女王らしい冷静さで、あえて誰とも視線を合わせず、最短距離の投擲で次々と仲間を「仕留めて」いく。実はその瞳の奥には、今までにない楽しげな輝きが宿っていた。
「……あいたっ! ルミナ、今のは本気なんだぞっ!? 私の枕捌きを見せてやるんだぞーっ!」
ツキノが叫び、枕の雨が部屋中を埋め尽くす。
「お姉ちゃんも後ろがお留守だよっ!」
背後ばかり狙っていたシロミに狙いを定めて勢いよく投げつける。
最強の力を持った者たちが、ただの綿の塊を全力で投げ合う。その光景はあまりに馬鹿げていて、けれど、これ以上ないほど温かい絆に満ちていた。
嵐のような楽しい時間もあっという間に過ぎ去り、もはや布団を並べた意味がないほど、室内は枕と眠りこけた仲間たちで散乱していた。激戦の疲れから一人、また一人と深い眠りに落ちていく中、アリスだけは「剣一の隣」という特等席を死守すべく、気合でまぶたをこじ開けて睡魔と戦っていた。
「……んー……剣一ぃ……どこぉ……?」
意識が朦朧とする中、アリスが手探りで隣を探す。
「ここにいるぞ。……相当疲れただろう。もう頑張らなくていい、ゆっくり休め」
剣一が優しく声をかけ、その頭をそっと撫でると、アリスの口元がだらしなく緩んだ。
「……ん、……えへへー。……ぎゅーっ」
安心しきった様子で、アリスが正面から剣一の胸板に抱きつく。ようやく眠りにつこうとしたその時、背後から音もなく忍び寄る気配があった。見計らったかのようなタイミングで、ミーナがこっそりと剣一の背中にしがみつく。
「……っ!? み、ミーナっ。起きていたのか……?」
「……あ、アリスさんだけずるいです……。私も、こうして温もりを感じながら寝たいです……」
ミーナは十尾の狐らしい体温の高さで、甘えるように剣一の背中に頬を寄せた。挟み撃ちのような形になった剣一が困惑していると、腕の中のアリスが薄っすらと目を開け、寝ぼけ眼でミーナを睨む。
「……あたしの、剣一なのにぃ……。でも……今日だけは、許して……あげる……」
ライバルを追い払う気力も残っていなかったのか、アリスはミーナの存在を認めるように小さく呟くと、そのまま幸せそうな寝息を立ててミーナと剣一と共に深い眠りへと落ちていった。




