混沌の思惑①
「ふぁっ……。んーっ……! ほんと、あいつらやってることが終わってるじゃん。……ありえない、マジで反吐が出る」
アリスがゆっくりと身体を起こし、大きな背伸びをしながら毒づいた。真白の魔法による深い眠りから覚めた彼女の瞳には、すでに戦士としての鋭い光が戻っている。
「起きたか、アリス! 身体の具合はどうだ? どこか痛むところはないか?」
剣一が心配そうに駆け寄ると、アリスは「心配しすぎ」と笑って見せた。
「うん、もうすっかり大丈夫! 身体も軽いし、魔力も満タン。……真白、今回もありがとうね。あんたのおかげで助かった」
「ううん、お安い御用だよっ! アリスちゃんが無事で本当によかったっ……」
真白が胸をなでおろし、ようやくアジトに穏やかな空気が流れ始めた――その時だった。
「――お前たち。倒したいという意気込みだけは立派だが、肝心の実力が伴っていないな」
冷徹で、どこか超然とした声が響き渡る。
声の主は、拠点の入り口でも、窓からでもなく、何の前触れもなく一行の「中心」に立っていた。
「……っ!? カオス!!」
剣一が即座に魔剣の柄に手をかける。そこには、全身を黒いマントで覆い、不気味な黒の仮面を被った男――混沌の神、カオスが佇んでいた。
音もなく、魔力の揺らぎすら感じさせずに出現したことに、バレットやシロミさえも息を呑み、一歩後退る。
「……何の用だ。忠告なら、もう聞いたはずだぞ」
剣一が鋭い視線で問い詰めるが、カオスは動じる様子もなく、ただ冷ややかに一同を見渡した。
「おい、剣一! こいつは何者なんだ……っ!? 神の陣容に、こんな奴は存在しないぞッ!!」
バレットが唸るように問いかける。その言葉に、剣一は目を見開いた。
「な、なんだと!? こいつは『混沌の神、カオス』……そう自称したはずだ!」
「……そうだ。我が名は混沌の神、カオス。だが、神であって神ではない。ただ、それだけだ」
カオスの声はどこか虚ろで、この世の理から外れたような響きを持っていた。
「一体どういうことだ……。まさか、お前……神の奴らに『造られた』存在なのかっ!?」
剣一の追求に対し、カオスは仮面の奥で僅かに目を細めたように見えたが、答えることはなかった。
「……これ以上、馴れ合うつもりはない。用件だけを伝える。お前たちは確かにマグネを退け、強くなった……だが、今のままでは『神』には手も届かんだろうな」
カオスが片手を上げると、アジト内の空気が凍りついたような重圧に支配される。
「力が欲しいだろう。お前たちに、更なる高みへと至る方法を授けてやる。だが、以前の『写影魔鏡』とは少し違う。必要なのは、自身との対話、認知……そして、己の心との戦いだ。それを乗り越え、自己を喰らい尽くせば、自ずと更なる力を得られるだろう。――ではな、神を堕とす申し子たちよ」
「なっ! 待てっ……! 聞きたいことが山ほどあるんだ……っ!」
剣一が手を伸ばすが、カオスの姿は霧のように消え去っていた。直後、一同の足元に巨大な魔法陣が展開され、淡い燐光を放つ。
「……っ!? なんだ、急に意識が……」
抗えぬほどの眠気が一行を襲い、一人、また一人とその場に崩れ落ちていく。
――次に剣一が目を開けたとき、そこには何もなかった。
上下左右の概念すら失われるような、地平線まで続く純白の世界。
「……ここは、どこだ?」
剣一が呆然と立ち尽くしていると、目の前の白い床が不気味に波打ち始めた。足元から這い上がるように、ドロリとした漆黒の魔力が「剣一」の形へと形成されていく。
「少し違うが、あの時の……写影魔鏡と同じ仕組みなのか……?」
目の前に現れた「自分」は、表情を一切持たない虚無の影だった。
同じ瞬間、他の仲間たちもまた、外界と遮断された白銀の精神世界の中で、自分自身と対峙していた。
「お前は……俺なのか?」
「そうだ。俺はお前であり、お前の奥底に沈めた本音そのものだ。認めろ、剣一。お前は今のままでは、神を討つどころかその足元にすら辿り着けずに終わる」
「なんだと……! 俺は神を倒す。何があってもだ!」
「威勢だけで世界が救えるなら苦労はない。前回の戦闘で、喉元まで死の刃を突きつけられて理解したはずだ。……答えろ。お前の真の弱さはなんだ?」
「俺の弱さだと……? ……魔力の総量が足りない。技術も、まだ完成には程遠い。それは自覚している」
影の顔があるべき場所が、嘲笑うように歪んだ気がした。
「そんなものは誰もが抱える課題に過ぎない。俺が聞いているのは、お前だけの、その歪んだ精神の欠落だ。……分からないのか? ならば、今すぐ俺がこの意識の外へ出て、お前の愛すべきアリスを殺してやろう。今の彼女なら、一瞬で屠れる」
「……貴様、それを俺が許すとでも思うのか!!」
剣一の殺気に、影は冷淡に応じる。
「なぜ激昂する? お前、なぜ真っ先にその言葉が出てきたか、自分で分かるか?」
「どういう意味だ……!」
「お前は今、俺が返り討ちに遭う可能性を微塵も想像しなかっただろう。『アリスが負けて死ぬ』。その光景を真っ先に浮かべたことこそが、何より彼女の力を欠片も信用していない証拠だ。信頼し合っているだと? 腑抜けたことを。お前の愛は傲慢だ。仲間を信じているのではなく、頭の中で勝手に自分より『弱い存在』だと決めつけているんだ」
「っ……!」
図星だった。剣一の足元が、激しい動揺に揺らぐ。
「確かに、俺はどこかで……俺が守らなければ、彼女は壊れてしまうと思っていたのかもしれない。だが、守りたいと願うのは、間違いじゃないはずだ!」
「ああ、願いは尊いだろう。だが、戦場においてそれは足枷にしかならん。死ぬまで常に守りながら戦うつもりか? それをアリスが、一人の戦士として望んでいると思うか? お前がやっていることは、彼女を『お荷物』だと蔑んでいるのと同義だ」
「そんなことは……っ! ……いや、そうだったな。彼女が求めていたのは、守られることじゃない。隣に立つことだったんだ……」
剣一の瞳から迷いが消え、鋭い光が宿る。影は満足げに、その漆黒の剣を構えた。
「心の弱さはいつか致命的なボロを生む。だが、今気付いたのならまだ間に合う。愛を信じ、高みを目指せ。……さっさとこの問答を終わらせるぞ。己の慢心を、その剣で叩き潰してみせろ!」
「ああ、助かる。……行くぞ、俺! ――限界突破Ⅱ(ダブル)、鬼人ッ!!!」
剣一の咆哮と共に、これまでとは比較にならないほど濃密な、紅蓮の魔圧が爆発した。背中には鬼の如き闘気が立ち昇り、瞳は理性と野生が混ざり合った鋭い輝きを放っていた。
「――黒双無閃撃ッ!!!」
四本の刃を構え、剣一が地を蹴る。
それは、もはや剣筋を追うことすら不可能な超高速の連撃。四つの刃が交差するたび、空間を切り裂く「黒の閃撃」が漆黒の刃線となって溢れ出し、無尽蔵の嵐となって正面の影へと殺到した。
一方でアリスも、白銀の虚無の中で自身の影と対峙していた。
「あんたは……あたし、だよね」
「そう。あんたの心の一番柔らかい場所を司る、あんた自身よ。……ねえ、アリス。あんたはいつまで剣一に守ってもらうつもりなの? 二人で高みを目指すんじゃなかったの?」
「……っ! そ、そんなことわかってる! あたしがもっと強くならなきゃいけないことなんて、自分が一番……っ!」
「じゃあ、なぜ剣一の腕の中で守られることに安心してんの? 口では強気なことを言いながら、心の中では『彼がいれば大丈夫』って、自分では何もしない言い訳にしてない?」
影の言葉が、アリスの胸を深く抉る。
「うっ……確かに、安心していたのかもしれない。剣一の優しさに……あたし、甘えてた。彼の後ろにいることが、いつの間にか心地よくなってた」
「このままだと、あんたはここで終わるから。大好きな剣一と何一つ成し遂げられないまま。そんな結末、あんたは耐えられるの?」
「……耐えられるわけないっ! あたしは剣一と幸せになりたい。自分でも戸惑うくらい好きなの。好きで好きで、たまらないっ! この気持ちにだけは、絶対に嘘はつけない……」
アリスは拳を握りしめ、溢れ出しそうな涙を拭った。
「だけど、今のままじゃダメだよね。あたし、この愛を『強さ』に変える。剣一に愛されているあたし自身を、誇れる戦士でい続けるために。彼を守り返せるくらいの力を手に入れるためにっ!」
「……いい目になったね、アリス。立ち止まるのも、甘えるのもダメとは言わない。でも、戦士であることを忘れた乙女は、戦場ではただの『お荷物』。それを忘れないで」
影が蒼炎の魔力を解放し、アリスと同じ構えを取る。
「さあ、始めましょう。恋する乙女である前に、気高き戦士であるアリス。あんたの全力を、あたしに刻んでみなさい!」
「ありがとう、あたし。……もう迷わない。あたしはもっと先へ、彼と一緒に高みへ行くっ! いくよっ!!ーー限界突破!不死鳥の羽衣ッ!!! 」
白銀の世界に、一際鮮烈な蒼い光が爆発した。
アリスの背後に、空間を圧するほど巨大な「蒼炎の翼」が展開される。それは羽ばたくたびに周囲の空気を焼き、彼女自身を象徴する、神聖にして苛烈な蒼炎の輝きで全身を包み込んだ。
「――蓮獄蒼炎連打ッ!!!」
アリスが地を蹴ると、その姿は蒼い閃光と化した。
腕と脚に蒼炎の爆発的な加速を纏わせ、文字通り「地獄」のような、逃げ場のない超高速の連打を影へと叩き込む。一撃一撃が蒼い炎の渦となり、影の身体を内側から焼き尽くさんと激しく蠢いた。




