裏白魔術
次の日の朝、リビングの扉が開くと、剣一とアリスがどことなく柔らかな、そして隠しきれない親密な空気を纏って姿を現した。
「おはよう、二人とも。……あらあら。なんだか昨日の惨劇が無かったかのように、ふわふわと浮ついているわねぇ。……昨夜は寝室で、ちゃんと目標を狙って再発射できたのかしら?」
キッチンで真白のために朝食を並べていたシロミが、二人を振り返り、意地の悪い笑みを浮かべて言い放つ。
「……っ! してない! あれは……あれは不可抗力の事故だったんだ!」
剣一が昨夜の「発射事件」のフラッシュバックに顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
「あ、朝から何言ってんのあんたっ! してないしっ! 変なこと、一ミリもしてないからっ!」
アリスもまた、昨夜の「全部受け止める」という自らの大胆な発言を思い出し、爆発しそうな羞恥心を必死に隠して食卓についた。
「あら、残念。……私はてっきり、昨夜の勢いで既成事実でも作ったのかと思ったのに。……まだ可愛い赤子の顔を見るのは、ずっと先になりそうねぇ」
シロミはつまらなそうに肩をすくめ、トーストを運ぶ。その余裕たっぷりの態度に、アリスの防衛本能が、つい余計な一言を漏らさせてしまった。
「あ、当たり前でしょっ! まだ……まだ昨日、寝る前にホッペにキスしただけなんだからっ!! ……あっ」
言葉を放った瞬間、アリスは自分の口を両手で押さえたが、時すでに遅し。リビングに、冷ややかな、けれど最高に愉悦に満ちた沈黙が流れた。
「……へぇ。……へぇぇ? ホッペに、キス。……あらあら、剣一。あなた、あんな事故のあとに、そんな甘酸っぱいご褒美を頂いていたのね?」
シロミの目が、獲物を追い詰めた肉食獣のように妖しく光る。剣一はもはや、焦げたトーストのような顔色で固まっていた。
「……あ、ホッペにキスってご褒美なんだねっ!良かったね、お兄ちゃんっ!アリスちゃんと好き同士なんだねっ」
真白がキラキラとした太陽のような笑顔で、逃げ場のない正論を突きつける。その純粋すぎる言葉は、隠し事をしていた剣一とアリスの心臓を、鋭い真っ当さで貫いた。
「……ま、真白。……否定はしないが、その、あまり大声で言わないでくれ……」
剣一はついに観念したように、顔を伏せたまま消え入りそうな声で呟いた。隣でアリスも、沸騰したヤカンのように顔を真っ赤にして固まっている。
「そうなの? わかったっ」
真白は物分かりよく頷くと、再びトーストを頬張り始めた。
だが、その光景を黙って見ていられなかった者が一人。先ほどまで二人を揶揄っていたシロミが、昨夜の「ご褒美」の味を思い出し、羨望と欲望の混ざった複雑な表情で真白を見つめる。
「……ま、真白ちゃん。……あの、私も。……私も、ホッペに……その、ご褒美の……キス、されてみたい……なんて……」
シロミは上目遣いで、期待に胸を膨らませながら消えそうな声でねだった。昨夜、あんなに「スーハー」して尽くしたのだから、自分にもその権利があるはず――そんな淡い期待が透けて見える。
「…………」
だが、真白はピタリと食事の手を止め、氷のような無機質な瞳でシロミをじっと見つめた。
「……お姉ちゃん? 何か言った?」
「………ご、ごめんなさい…っ!! ひ、ひぃっ!!」
シロミは恐怖と背徳的な昂揚感に背筋を震わせ、ガタガタと椅子を鳴らして縮こまった。その様子を、剣一とアリスは「……一体、昨日の夜に何があったんだ?」と、引き切った目で見つめるしかなかった。
朝の訓練へと向かう道中。柔らかな日差しが降り注ぐ中、前を歩く剣一とアリスの微かな話し声を聞きながら、後ろを行く真白が、シロミにだけ聞こえる低い声で警告するように話し出す。
「……ねえ、お姉ちゃん。さっきみたいに、みんなの前でご褒美が欲しいなんておねだりしちゃ……ダメだからね? 」
真白の視線は前を向いたままだが、その声には抗いようのない威圧感が宿っていた。シロミは反射的に肩を震わせ、顔を伏せる。
「ご、ごめんなさい……。……つい、昨日のことが忘れられなくて……。……もっと、真白ちゃんにご褒美を貰いたいって、頭が真っ白になっちゃって……っ」
シロミは自らの浅はかな執着を恥じ入りながらも、昨夜、真白の匂いに包まれて眠った至福の時を思い出し、頬を紅潮させた。
「ふふっ。……そっか、そんなに欲しかったんだねっ。……じゃあ、今日の訓練が全部無事に終わったら、また特別なご褒美をあげるねっ!」
真白がパッと明るい笑顔に戻り、シロミの耳元で囁く。その「アメとムチ」の使い分けに、シロミの理性はあっけなく粉砕された。
「あ、ありがとう、真白ちゃん……っ! ……ええ、任せてちょうだい! 今日の訓練、サクッと終わらせてみせるわっ!!」
シロミの瞳に、不穏なほどのやる気が宿る。昨夜以上の「ご褒美」を確約された彼女は、もはや最強の戦士か、あるいは最も忠実な猟犬のような足取りで、訓練場へと突き進んでいった。
訓練場へと到着した四人が、いつものように自己を写し出す「写影魔鏡」を発動させる。
鏡の中から飛び出してきたのは、もはや隠す気も失せたのか、熱烈に抱き合いながら愛を囁き合う剣一とアリスの影……。だが、それ以上にその場の空気を凍らせたのは、隣に現れた姉妹の影だった。
そこには、豪奢な椅子……ではなく、四つん這いになったシロミの背中を椅子に見立てて堂々と足を組み、愉悦の表情を浮かべる真白の影があった。シロミの影の首には太い鎖の首輪が嵌められ、そのリードを真白の影が優雅に握っている。
「……ああっ! ど、どうしようお姉ちゃんっ! 私の影が、なんだかすごく偉そうなことしてる……っ!」
真白が顔を真っ赤にして右往左往する。一方、本物のシロミは、その光景を凝視しながら小刻みに震えていた。
(……ああっ、素晴らしい……! なんて神々しい光景なの……! 羨まし……はっ!? いけないわ、理性を保つのよシロミ!)
「ぐぬぬっ……! うらやま……はっ! ぜ、全然そんなことないわよっ! こ、ここ、ここは私が、剣一とアリスに説明するわっ!!」
シロミは鼻血が出そうな興奮を必死に抑え込み、ドン引きしている二人の方をバッと振り返った。
「……なぁ、真白。あれは一体、どういう状況なんだ……? 昨日のわんこの空耳、聞き間違いじゃなかったのか?」
剣一が、引き攣った笑顔で真白を心配そうに見つめる。
「……真白に、一体何があったっていうの? あんた、あんな清純な子に何を教え込んだのっ!」
アリスもまた、昨夜の「ホッペにキス」の甘い余韻が吹き飛ぶほどの衝撃に、シロミを鋭い眼光で射抜いた。
「二人ともっ! わ、私が説明するから、落ち着いて聞いてくれるかしらっ!? 昨日ちょっと魔力の何かが乱れて、色々あってあんな影になっちゃってるけれど! 真白ちゃんには……と、特に何もないのよっ! 私が勝手に、その、イメージの中で遊んでしまっただけよっ! 嘘じゃないわ、信じてっ!」
「そ、そうなのか……? 真白が大丈夫ならいいんだが。……シロミ、お前、本当に修行のストレスが溜まってるんじゃないか?」
剣一が同情の混じった、けれど一歩引いた視線を向ける。
「あんた……真白に変なこと吹き込んで、自分だけいい思いしようとしてないっ!? その影の真白、完全にそっち側の目をしてるじゃんっ!」
アリスの追及に、シロミは滝のような冷や汗を流しながら、必死に「真白は無実である」という一点を死守しようと捲し立てた。だが、その隣で鏡の中の「女王様」な自分の影をじっと見つめていた真白が、ポツリと、けれどはっきりとした声で本音を漏らす。
「……う、うう。あ、あんなのっ……ずるいよっ! 私だって、本当はあんな風にしてみたいのにっ!!」
「なっ!? ま、真白ちゃん、落ち着くのよっ! い、今それを言っちゃうのはまずいわよっ!!」
シロミが弾かれたように真白の口を塞ごうとするが、時すでに遅し。訓練場に、本日二度目の「氷点下の静寂」が訪れた。
「……真白? 今、してみたいって言ったのか……?」
剣一が、信じられないものを見るような目で妹を見つめる。
「ちょっと……あんた、本気なの!? あの影みたいにシロミを椅子にして、首輪つけてリードに繋げたいってこと……っ!?」
アリスが顔を引き攣らせ、後ずさりする。二人の脳裏には、昨日までの「純真無垢な真白」がガラガラと崩れ去り、代わりに鞭を手にした「女王真白」が君臨し始めていた。
「だって……お姉ちゃんに意地悪すると、すごく胸がドキドキするんだもんっ! あの影みたいにお姉ちゃんを可愛がってあげられたら、きっともっと楽しいのにっ!」
真白は頬を上気させ、拳をぎゅっと握りしめて熱弁を振るう。その瞳は、もはや影の自分に負けないほどの、支配的な熱を帯びていた。
「はぅあっ……! 真白ちゃんに可愛がってあげるなんて言われちゃったわぁぁっ!! ……い、いけない! 剣一、アリス! 今のは教育上の不手際であって、決して私の趣味が伝染したわけでは……っ!」
シロミは恐怖に震えつつも、真白の言葉に抗えない昂揚感を感じてしまい、弁明の声が情けなく裏返る。
「……ダメだ。この姉妹、もう完全に手遅れだ……」
剣一は天を仰ぎ、深く、地底まで届くかのような重い溜息をついた。かつての清純な妹の姿は、鞭と首輪の幻影に掻き消され、もはや戻らない現実として彼の肩に重く圧しかかる。
「あたしの……あたしの知ってる、あの純粋な真白は……一体どこへ行っちゃったのよぉっ……!」
アリスは地面に崩れ落ち、俯きながら嗚咽を漏らす。彼女の心の中で、聖母のようだった真白の像がバキバキと音を立てて崩壊していた。
その絶望の静寂を切り裂くように、写影魔鏡から現れた影の四人が、それぞれに殺気を孕んだ攻撃を仕掛ける。
本物の真白は、動揺する周囲とは裏腹に、かつてないほど熱く、背徳的な思いを胸の中で滾らせていた。
その「目覚め」を見透かしたかのように、影の真白が愉悦に満ちた笑みを浮かべ、リードを放ちレイピアへ持ち替え、本物の真白へと襲いかかる。
「ふふっ、本物の私。……そんなに迷ってる暇があるなら、もっと自分の欲望に素直になりなよ!」
だが、その衝撃は彼女を打ちのめすどころか、内側に淀んでいた最後の理性を粉々に砕き散らし、心の奥底に封じ込めていた「純粋な支配欲」を解き放った。
「……くっ。……あはは。いいなぁ。自分にそんなに素直になれるなんて、本当に羨ましいよ」
真白は口元を拭い、低く、陶酔を孕んだ声で笑った。その瞳からは光が消え、底の見えない夜のような闇が広がっている。
「私は自分が怖かった。こんな歪んだ気持ち、おかしいんじゃないかって。……でも、お姉ちゃんは喜んでくれた。私の全てを、この壊れた愛さえも受け入れてくれた……! だから、もう迷わない。あなたを、徹底的にお仕置きしてあげる」
真白の意識が深淵へと沈むにつれ、溢れ出る魔力が禍々しい威圧感となって周囲を圧する。顕現した聖霊王アマケシカの装束は、本来の純白が嘘のように、墨を流したような漆黒へと染まり変わっていく。彼女は黒く変色したレイピアを優雅に構え、死を予感させる鋭い踏み込みを見せた。
「あなたのおかげで吹っ切れたよ、影の私。……お礼に、とっておきを見せてあげる。――裏白魔術、身体弱化!」
本来は対象を祝福し強化するはずの聖なる術式を、真白はバチバチと火花を散らしながら強引に逆流させ、どす黒い負のエネルギーへと変質させて叩きつけた。
「なにっ……!? 身体に、力が……入らないっ……! 魔力が霧散していく……!?」
影真白が驚愕に目を見開く。だが、真白の攻勢は止まらない。
「あははっ。まだだよ? ……逃がさない。逆回復!」
慈愛の光であるはずの治癒魔法が、無理やり反転させられたことで漆黒の侵食エネルギーへと変貌し、ただ敵を痛めつけるためだけの魔法が影の体内へと突き刺さる。
「ぐ、ぐがっ……あ、ああぁぁっ!!」
猛毒に侵されたかのように、影の身体が内側から崩壊を始める。再生を拒絶し、存在そのものを腐食させる絶望の輝き。
「ふふふ。……悪い子は、ちゃんとお仕置きしなきゃね。……また明日会おうね。聖霊王の一刺!!」
真白のレイピアが流星のごとき速さで影の核を貫く。
その一撃は、影だけでなく、真白の中の「かつての自分」を葬り去るような、決別の一刺だった。
異様な魔力の奔流を察知し、離れて戦っていた三人が必死に影を片付け、真白の元へ駆け寄る。
「おい、真白っ!今のはなんだ!一体何をしたんだっ!!」
「えぇ? ちょっと魔術構成の向きをいじってみただけだよ? お兄ちゃん、どうしたの? そんなに怖い顔して」
真白は何事もなかったかのように無邪気な笑顔を浮かべる。だがその瞳の奥には、まだ仄暗い闇が居座ったままだ。
「お前っ……! 魔術構成を勝手にいじるなと、言っただろ! 何が起こるかわかっているのか! 聖なる魔力を逆流させるなんて、ただの魔力枯渇じゃ済まない……魔力が暴走し、精神ごと持っていかれて、戻って来れなくなる恐れだってあるんだぞっ!!」
剣一の怒鳴り声が訓練場に響く。しかし、何よりも真白の心に刺さったのは、隣にいたシロミの、震えるような懇願だった。
「……真白ちゃん。私は、あなたのどんな欲望も、支配も、全て喜んで受け入れるわ。……だから、お願い。その技を使うのだけは、もう二度とやめてちょうだい……っ。あなたが壊れてしまったら、私は……!」
シロミは真白の手を握りしめ、涙を浮かべて訴える。その手は、恐怖からではなく、最愛の妹を失うことへの絶望に震えていた。
「……っ。……あ……」
その必死な叫びに、真白の瞳を覆っていた底知れぬ闇が、陽光に曝された霧のように霧散していく。漆黒に染まっていた装束が、元の純白へとゆっくりと描き直されていった。
「ご、ごめん……なさい……っ! そんなつもりじゃ……私、ただ……お姉ちゃんと、もっと……っ!」
真白の瞳に光が戻り、大粒の涙が頬を伝って地面に落ちる。自分が手にした力の恐ろしさと、それを振るってしまったことへの後悔が、波のように押し寄せてきた。
「いいのよ、真白ちゃん。……さあ、おいで」
シロミは優しく微笑むと、震える真白の身体を壊れ物を扱うかのように、その胸の中へと抱き寄せた。
「あなたは、自分の中に芽生えた初めての感情に、ただ少しだけ戸惑っていただけなのよね。私たちの愛は、他人から見れば歪で、異常なのかもしれない。……けれど、この広い世界に一人くらい、そんな人がいたっていいじゃない。
誰が決めたかもわからないルールに従わされて、そこから少し逸れただけで『異常』だと指を差される……。そんな窮屈な世の中の方が、よっぽど狂っているわ。私たちは誰に後ろ指を指される筋合いもない。自分たちの心を、信じていいのよ」
シロミの柔らかな温もりが、真白の冷え切った心をじわじわと溶かしていく。
それは、昨日までの「主従」という鎖を残しながらも、その根底にあるのが紛れもない「家族の慈愛」であることを刻み込むような、静かで深い抱擁だった。
「……ううっ、お姉ちゃん……っ、ごめんなさい……!」
真白はシロミの胸に顔を埋め、幼子のように声を上げて泣きじゃくった。
その光景を、剣一とアリスは少し離れた場所から、安堵と、どこか確信めいた想いで静かに見守っていた。




