あっ……
色々と物理的にも精神的にも危なかったが、とりあえず己の影を叩き伏せた四人は、魂が抜けたような足取りで家へと辿り着いた。
玄関の扉を開けるなり、吸い込まれるようにリビングへ。剣一とアリスは崩れ落ちるように椅子に座り、真白とシロミはソファへと深く腰を沈めた。
「……なんだかんだで、毎日自分たちの限界を超えられているな。……代わりに、色々と大切なものを失っている気もするが」
剣一が遠い目をしながら、言葉を漏らす。隣でアリスは、もはや羞恥心のコップが溢れきって空になったような、悟りの境地で頷いた。
「……あたしはもう、隠すべきところも、尊厳も、全部失っちゃったから……今さら、これ以上何が起きても怖くないかな……」
「…………っ! わ、私は何も失っていないわよっ! さっき言った通り、あれは写影魔鏡の調子が極端に悪かっただけなんだからっ!!」
シロミだけが、顔を真っ赤にしながら必死に現実を拒絶している。その膝はまだ、真白のお尻を至近距離で浴びた興奮で小刻みに震えていた。
「うん! 変な影だったけど、みんなちゃんと前に進めてるから大丈夫だよっ! 私たち、もっと強くなれるよ!」
真白の、太陽のような眩しすぎる正論。それが、闇を抱えた三人の大人たちの心に深く突き刺さる。
沈黙が流れる中、シロミがふいと視線を逸らし、毒づくように呟いた。
「……いいわよねぇ、アリスは。あなたはもう、失うものを失い切って、あとはどうせ……剣一との初めてだけでしょう?」
「…………ぶふぉっ!?」
「な、ななな……っ!?」
シロミのデッドボール級の直球発言に、お茶を飲んでいた剣一が吹き出し、アリスが椅子から転げ落ちそうになる。
「な、何言ってんのシロミ!! そんな……まだ、そこまでは……っ!」
「あら、あれだけ『いつでも見せる』だの『全部預ける』だの、食卓で愛の誓いを立てていたんですもの。あんな破廉恥な影まで生み出した二人の行き着く先なんて、一箇所しかないじゃない?」
シロミの、自暴自棄に近い他人の色恋への攻撃が始まった。己の「スーハーッ」という変態性を歴史の闇に葬り去るため、二人の関係を無理やりエロ展開に持ち込み、標的をすり替えようとするシロミ。
「あ、あたしたちは別に……っ! ま、まあ、どこかの影の変態さんみたいに? あたしたちは……誰かさんの下着の匂いを嗅ぎたくなったり、スーハーッしたりなんて、絶対にしないからっ! ねえ、剣一?」
アリスが必死の形相で、シロミの急所を抉りながら剣一に同意を求める。
「……えっ。あ、ああ、そうだな。……俺は、断じてそんなことはしない」
剣一がぎこちなく頷くが、その脳裏には今朝の密着の記憶と、影が見せたフリフリの残像がよぎり、視線が泳いでいる。
「あらあら、剣一。そんな見え透いた嘘をつかなくてもいいのよ? その……今のあなたの動揺、隠しきれていないわよ? 本当は、アリスの脱ぎたてをこう、一気に……」
「……なっ! あ、あんた……流石にそれはっ……きょ、許可できないからっ! 絶対ダメだからっ!!」
シロミの露骨な揺さぶりに、アリスが顔を爆発しそうなほど真っ赤にして椅子から立ち上がった。
「ち、違う! 俺はそんな、変な儀式に興味があるわけじゃないっ! ただ……ただ、アリスの匂いが……その、落ち着くというか、純粋に好きなだけだっ!!」
剣一が窮地に追い込まれた末に放ったのは、言い訳という名のストレートな愛の告白だった。
「「…………っっ!!」」
リビングに、氷点下の静寂と、沸点超えの熱気が同時に訪れる。
シロミは「あら、自白したわね」という勝利の笑みを浮かべ、アリスは「匂いが好き」というパワーワードに脳内がショートして、ゆらゆらと膝から崩れ落ちた。
「……お兄ちゃん。……私のお尻の匂いも、そんなに落ち着くのかな……?」
唯一、話を最初から聞いていた真白が、シロミを見上げてポツリと呟く。
その一言が、勝利を確信していたシロミの心臓に、本日最大の特大級ダメージを叩き込んだ。
「……ち、違うのよ、真白ちゃんっ! アレはあくまで鏡が見せた幻影、影が勝手にしたことだからっ!! あの影は、その……私の魔力のノイズが混ざって、ちょっと……いえ、かなり変わった性癖を持っていただけなのよっ!」
シロミは顔を引き攣らせ、必死の形相で「私は変態ではない」という一点を死守しようと捲し立てた。
「そうなの? じゃあ、よかったぁ! 私、お姉ちゃんが本当にお尻の匂いを嗅ぎたがる変態さんになっちゃったのかと思って……もう一緒に寝たりできないのかな、って不安になっちゃった!」
真白が心の底から安堵したように、パァッと花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
その純真無垢な「変態さん」という連呼と、「一緒に寝られない」という宣告。それはシロミにとって、どんな禁呪よりも残酷で、かつ甘美な響きを持っていた。
「はぅあっ……ッ!! そ、そんな、一緒に寝ないなんて……! そんなの、私の魔力供給が断絶されてしまうじゃない……っ!!」
「え? お姉ちゃん、今なんて……?」
「い、いえっ! 何でもないわ! ええ、鏡のせいよ! 全部、あの写影魔鏡のバグなんだからっ! だから……今夜も、明日も、ずっと一緒に寝ましょうね、真白ちゃん……っ!!」
シロミは涙目で真白の両手を握りしめ、必死に添い寝の権利を死守した。
その光景を、数メートル先で見ていた剣一とアリスが、完全に冷めきった目で見つめていた。
「……なぁ、アリス。あいつ、さっき自分で変わった性癖って認めなかったか?」
「……うん。シロミ、もう隠す気が無くなってきてるわ。……鏡のせいにするにしても、無理がありすぎるし……」
アリスが呆れたように溜息をつく。リビングには、シロミの必死な言い訳と、それを疑いもしない真白の笑い声、そして二人の冷ややかな視線が混ざり合い、なんとも言えない奇妙な「平和」が戻りつつあった。
だが、夕食を終えると、本日最大かつ最後の難関お風呂イベントが待ち受けていた。
脱衣所へ向かった剣一とアリス。アリスは顔を伏せたまま、剣一を先に浴室へ入るよう促した。
「さ、先に、入ってて。……すぐ、行くから」
「あ、ああ、わかった」
剣一はタオルを腰に巻き、緊張で強張る体を湯船の蒸気に沈める。
その数分後、浴室の扉が静かに開いた。
「うっ、うう……っ。は、恥ずかしい……死ぬほど恥ずかしいっ……!」
消え入りそうな声と共に、俯きながら入ってきたアリスを見て、剣一は心臓が止まるかと思った。
「……っ!! た、たた、タオルはどうしたんだっ!!」
アリスは何も纏わず、震える両手で辛うじて大事な部分を隠しているだけ。湯気に濡れた肌が街灯のように白く輝き、剣一は反射的に目を背けた。
「あ、あんたが……昼間に言ったんじゃないっ! み、見たいって……言ったでしょっ……!」
「た、確かに言ったが、まさか……その……本当にこの状況で実行するとは思ってなかったんだっ! い、いいから俺のタオルを使えっ、早く!」
「……っ!? バ、バカっ! 見えちゃうでしょっ!!」
慌てた剣一が、自分に巻いていたタオルをバッと取り去り、彼女に渡そうと立ち上がる。だが、その瞬間、剣一の「もう一人の剣一」が露わになる。
アリスが悲鳴を上げそうになりながらタオルを掴もうとしたその時、石鹸の泡で足を滑らせ、剣一の腹部へと勢いよく倒れ込んでしまった。
「……ごっ、ごめん! 痛くなかった!?」
「……だ、大丈夫だ……ぁぁあ!? ま、まずい、これはまずいっ!!」
今、アリスに離れられると正面から全裸を拝んでしまう。かといって、この密着状態では「もう一人の剣一」がアリスの柔らかな膨らみに突き当たり、暴発寸前のエネルギーを伝えてしまう。どう動いても地獄という状況に、剣一はパニックに陥った。
「……はうっ。ちょ、ちょっと! この状況、どうすればいいのっ!?」
「あ、あんまり動かないでくれっ! その、色々と……物理的にも魔力的にもやばいんだっ!」
「や、やばいって何が!? もう十分やばい状況なんだから、これ以上は……っ!」
その時、ふわふわの感触による摩擦で剣一の剣一がついに限界を迎え「それ」は起きた。
「…………あっーー」
「あら、大きな音がしたけれど大丈夫かしら?」
絶妙すぎるタイミングで、見計らったかのようにシロミが浴室の扉を開けた。彼女は重なり合う二人を一瞥し、一瞬だけ目を見開いた直後、三日月のようなニヤリとした笑みを浮かべた。
「あらあら、剣一。ついに撃っちゃったのねぇ。……でも、それは顔に撃っても赤子は誕生しないのよぉ? 次はしっかり狙う練習が必要かしらねぇ?」
「「し、シロミぃぃぃぃぃぃっ!!!」」
二人の絶叫が、浴室の壁に虚しく反響したのだった。




