深呼吸の極
昼食を取るために家へ戻る一行だったが、その道中はお通夜を通り越して、もはや現世を捨てた修行僧のような静寂に包まれていた。唯一、真白だけが春の陽気のように鼻歌を歌いながら、軽やかな足取りで帰路についている。
「みんな、午前中の特訓ですごく疲れちゃったみたいだね。よし! 今日は私がとびっきりの昼食を用意するねっ!」
「……真白ちゃん、私も手伝うわよ」
どこか上の空のシロミだったが、天使のような真白にだけ負担をかけまいと、消え入りそうな声で言葉を絞り出した。しかし、その瞳には光がなく、脳内では先ほどの「影」が晒した醜態が無限ループしている。
「ええと……今日の献立は……。前菜に愛らしいフリル下着の盛り合わせで、メインは黄金に輝くビッグフランクと完熟の鮑のソテーでよかったかしら……」
シロミは死んだ魚の目をしたまま、もはや隠すべき理性のフィルターを失い、深層心理にこびり付いた単語をそのまま口に出していた。
「……そうね、それでいいんじゃない。……全部食べて、全部忘れましょう……」
「……ああ、俺もそれでいいと思う。……フランクは、なるべく光ってないやつにしてくれ……」
アリスと剣一の二人も、もはや羞恥心のキャパシティを超え、中身のない空殻のような返事を繰り返している。シロミが何を言ったのか、その異常なメニューの内容すら脳に届いていない。
「だ、ダメだよお姉ちゃんっ! みんなもしっかりしてっ! 下着はお料理じゃないし、フランクフルトはそんなにいっぱいいらないでしょっ!」
真白の鋭いツッコミが、訓練場に響き渡る。
三人の大人が、一人の少女に正気を取り戻させてもらわなければならないという危機的状況に陥っていた。
「……はっ!だ、ダメ!あんなに大きいフランクフルトは食べられないからっ!!」
アリスが突然、何かに弾かれたように絶叫した。その脳裏には、先ほど見た剣一の影が誇示していた限界突破した魔剣が焼き付いて離れないらしい。
「……っ! お、おい、アリス! 何を言ってるんだお前はっ! あれは食べ物じゃないだろっ!!」
剣一が顔をこれ以上ないほど真っ赤にしながらツッコむ。だが、彼自身も「大きくて食べられない」というフレーズに、ありもしない状況を想像してしまい、視線を泳がせている。
「……っ! ど、泥棒猫は許さないわ……っ! あの愛らしい下着は、誰にも渡さないわよ……! たとえ真白ちゃん本人の許可があっても、姉であるこの私が、神聖な聖域として永久欠番にするんだからっ!!」
シロミもまた、虚空を掴むような手つきで執念を燃やしていた。その目は据わっており、もはや教育者としての理性をどこか遠い銀河へ捨て去ってきたかのようだ。
「……お、お姉ちゃん……。私、お姉ちゃんがたまに怖くなるよ……」
唯一、まともな感性を維持している真白が、一歩、また一歩と後ずさりする。
尊敬していたはずの兄、共に戦うはずの友人、そして大好きな姉。
その三人が、真昼間の道端で巨大フランクと下着の所有権を巡って精神崩壊している姿は、カオスの軍勢よりもよほど真白の心を削っていた。
「……よし! みんな、おうちに帰ったら、まず冷たいお水で顔を洗おうねっ!」
真白の必死な提案が、三人の限界突破した脳に届くのは、もう少し先のことになりそうだった。
ようやくリビングに戻り、真白とシロミが昼食を作り終え、一同は重苦しい空気のまま席に着く。だが、アリスの口は止まらなかった。
「……ほんっと、ありえない。マジで最悪なんだけど。……剣一もさっき、訓練場でチラチラ見てたしっ」
「なっ!? ……あんなものが視界に入ってきたら、男として見てしまうだろ! アリスの……その、姿形をしているんだから……っ!」
剣一が必死に弁明するが、アリスは耳まで真っ赤にしてフォークを突きつけた。
「……っ! あ、アレはあたしじゃないっ! 鏡が出した偽物、別人だからっ!! ……そ、それに、あんな偽物のじゃなくて……あ、あたしのだけ、見てればいいのに」
「……っ!? 流石に本人に向かって見せてくれなんて、口が裂けても言えないだろっ!」
思わず本音が漏れた剣一に対し、アリスは一瞬絶句したが、羞恥心が一周回って謎の対抗心を燃やし始めた。
「……っ! み、見たいなら……いつでも見せるしっ!」
「……!? ……ほ、本当にいいんだな? 嘘じゃないな?」
「……うっ。い、いいよ。あんたがそんなに見たいなら……は、恥ずかしいけど、覚悟決めるからっ……!」
二人の間で、謎の「全裸開示合意」が成立しようとしたその瞬間。
「……あなたたち、見せる約束するのは勝手だけれど、私と真白ちゃんもいるのよ?」
シロミの氷点下を下回る冷徹な一言が、二人の後頭部に突き刺さった。
「「…………っっ!!」」
二人は同時に石像のように固まった。
目の前では、真白が「お兄ちゃん、アリスちゃん。そんなに何が見たいの? 私、ピーマンなら中身見せてあげられるよ?」と、底抜けに純粋な瞳で首を傾げている。
「……あらあら、ピーマンより先に、二人のその煮え繰り返った脳みその中身を、私が解剖してあげた方が良さそうねぇ?」
シロミが手に持ったフォークを不気味に光らせる。
その殺気に当てられ、剣一とアリスは音を立てて椅子に座り直し、猛烈な勢いで味のしないパスタを口に詰め込み始めた。
イチャコラがもはや平常運転になりかけている二人と、午前の醜態を経てこれ以上の地獄はないと自分に言い聞かせるシロミ。そして、純粋に気合を入れ直す真白が、再び決戦の訓練場へと足を踏み入れた。
「もう、どんなことが起ころうとあたしは気にしないから。……どうせ全部見られちゃったんだしっ!」
「ああ、俺ももう大丈夫だ。……あれ以上の精神攻撃は、影にだって不可能だろう」
「そうねぇ……。私も流石に、あれ以上の汚点は出ないと思うわ。……ええ、大丈夫なはずよ」
三人はどこか悟りを開いたような、清々しくも危うい表情で『写影魔鏡』の前に立つ。
「みんな、気合十分だねっ! 私も負けないように頑張るっ!」
真白の無邪気な声に押されるように、剣一とアリスが鏡の前に並び立ち、魔力を流し込んだ。鏡面がドロリと溶け、二人の深層心理が実体化して飛び出してくる。
「……落ち着け、冷静になるんだ俺」
剣一は自分に言い聞かせ、眼前の霧を睨み据える。
「スーハーッ……ふぅ。……大丈夫、あたしは気高く美しい乙女……深呼吸、深呼吸……」
アリスもまた、深呼吸で乱れる心を整えようとした。
だが、霧が晴れた瞬間に現れた光景は、二人の覚悟を塵も残さず粉砕した。
そこにいたのは、全裸の影アリスが影剣一の頭をその胸に深く抱き込み、口を半開きにして悦びに天を仰ぐ姿。対する影剣一は、その胸元に顔を埋めたまま左右にフリフリと顔を擦り寄せ、あろうことかこちらを見るたびに「これがお前の望みだろ?」と言わんばかりの完璧なドヤ顔をキメていた。
「「…………落ち着けるわけねぇだろぉぉぉぉぉぉ!!!」」
二人の絶叫が訓練場を震わせる。羞恥心は一瞬で「殺意」へと変換され、二人の魔力がかつてない密度で共鳴を始めた。
「アリスっ!!」
「剣一っ!!」
二人が互いの手を、骨が軋むほどの力で握りしめる。
瞬間、アリスの蒼い炎と、剣一の青白く輝く魔力が激しく混ざり合い、巨大な光の渦となって二人を包み込んだ。
「「『蒼炎怒光刃剣』っ!!!」」
解き放たれたのは、怒りという名の超高火力。
蒼い炎の荒嵐が影たちの退路を断つように周囲を焼き尽くし、逃げ場を失った「欲望の権化」たちへ、天から降り注ぐ無数の光の剣がトドメを刺す。
自らの恥部を物理的に消し去らんとする、あまりにも凄絶な「愛と怒り」の連携技だった。
常時、限界突破を発動させながら、最大魔力で放った執念の一撃。その反動で、二人はもつれ合うように訓練場の地面へと倒れ込んだ。
だが、あろうことか、着地したその姿勢は先ほど粉砕した「影」と寸分違わぬものだった。剣一の顔が、吸い寄せられるようにアリスの柔らかな胸元へと収まってしまったのだ。
「……っ! す、すまない! 今すぐ離れるっ、すぐにっ!!」
剣一が慌てて身を引こうとしたその時、耳元でアリスの小さく、震えるような声が響いた。
「……ちょ、ちょっとだけなら……いい……よ」
「……えっ?」
驚きで固まる剣一を、アリスは逃がさないと言わんばかりに、ぎゅっと力強く抱きしめた。
アリスの心臓の鼓動が、ダイレクトに顔面に伝わってくる。その熱さと、風呂上がりとはまた違う、戦いの中での情熱的な香りに、剣一の理性の堤防が決壊した。
剣一は脳内で猛烈な葛藤を繰り広げた末、己の本能に従い、その顔を左右に一度だけ、フリフリッと手際よく擦り寄せてしまった。
「……も、もう。……ゆっくり、してよ」
アリスは耳まで真っ赤に染めながら、羞恥心と充足感が入り混じったような吐息を漏らす。剣一もまた、その至福の感触に抗うのをやめ、観念したように彼女の温もりに顔を埋め直した。
「……あ、アリス。その……ありがとう」
「ふ、ふんっ! 感謝してよねっ! ……あんたが、あんまりにも情けない顔で見てくるから、特別にサービスしてあげてるんだから……っ!」
地面に倒れ込んだまま、動こうとしない二人。
そこには、先ほどまでの破壊的な殺意は微塵もなく、ただただ甘い「共鳴」の余韻だけが漂っていた。
一方、同じ訓練場の別区画では、真白とシロミの前にも『写影魔鏡』から飛び出した影が現れていた。……のだが、そのあまりにも異様な光景に、二人は石像のように固まっていた。
「ね、ねえ、お姉ちゃん……アレ……。一体、何がどうなってるの……?」
真白の声が、かつてないほど引きつっている。
「…………。……ちょっと待って。一分……いえ、一時間ほど考えさせてちょうだい」
シロミは顔面を蒼白に染め、口元を抑える指先は震えていた。
二人の目の前で展開されているのは、戦いでも何でもなかった。
影シロミが、あろうことか影真白のスカートの中に顔を突っ込み、狂ったように「スーハーッ! スーハーッ!!」と深呼吸を繰り返しているのだ。ひとしきり吸い終えると、影シロミは頬を赤らめ、この世の法悦を凝縮したようなご満悦な表情で天を仰ぐ。そしてまた、吸い寄せられるようにスカートの中へと戻っていく。
それは、教育者としての、そして姉としてのシロミが守り続けてきた「最後の一線」が、深層心理では完全に決壊していることを告げていた。
「……お姉ちゃん。私の影、すごく困った顔してるよ……? なんか、お姉ちゃんの影が凄く執拗に……その……スーハーッてしてくるから」
真白の指摘は、まさに急所を突いていた。
目の前の影シロミは、もはや理性を投げ捨てた獣のような形相で、真白の影に抱きつき、その匂いを貪り尽くしている。
「……っ! アレは……アレは私の魔力が……その、真白ちゃんの純粋な聖域を分析しようとして、偶然……っ! 決して、決して私の本心ではないわ!」
シロミは顔面を真っ赤に染め上げ、目元に涙を浮かべながら、必死の形相で弁解した。その手はガタガタと震え、フライ返しを握る力も心もとない。
「そうなの? よかったぁ! お姉ちゃんが、ただの変態さんかと思っちゃった!」
真白が心の底から安心したように、パァッと笑顔を咲かせる。
その純真無垢な「変態さん」という言葉が、シロミの心臓を物理的な鈍器よりも激しく打ちのめした。
「はぅあっ……ッ!! そ、そそ、そんなわけないじゃない! ……も、もしかしたら、この『写影魔鏡』の調子が、極端に良くないのかもしれないわね……。……ね、ねえ、真白ちゃん? ……今は、私の影が何か変なことをしたとしても、全部鏡のせいだと思ってくれるかしら……?」
シロミはすがるような目で真白を見つめ、何としてでも「変態認定」を回避しようとあがく。
その様子を、数十メートル先でようやく体を起こした剣一とアリスが、遠い目をして眺めていた。
「……アリス。あれ、鏡のせいだよな?」
「……ええ、流石にね。鏡が悪いわ。シロミお姉様は……聖人君子じゃん……?」
アリスの棒読みのフォローが、訓練場の空気に冷たい風を吹き抜ける。シロミは恥辱のあまり、その場に伏して「……あああ、殺して……今すぐ私を消去して……」と地面を掻きむしるしかなかった。
「お姉ちゃん、しっかりして! 私たちの絆で、あの変な影をやっつけよう!」
真白の真っ直ぐな言葉が、絶望の淵にいたシロミを無理やり引き戻した。
「え、ええ、そうね……。あの影の野郎をブチ殺さないと、私の尊厳が死滅するわっ! いくわよっ! 真白ちゃん、後ろ失礼するわねっ!」
シロミは執念の炎を瞳に宿し、真白の背後へと密着した。
「あいつ、絶対に許さないわ……。私がまだ、理性を保ってしたことがないことを、あんなに堂々と……ッ!!」
真白が変形を解き放ち、銀に輝くレイピアを影へと向ける。その後ろで、シロミは真白の顔の横から、両手を真白越しに突き出した。
「……あっ、お姉ちゃんっ! 魔力が熱いっ……強くて、激しいよ……っ!」
「……っ! 少し我慢しなさい。もう、私の熱は止められないわ……デュフッ!」
シロミの魔力が真白の身体を駆け巡り、二人の境界が溶け合う。
「うっ……あっ、ああっ……!」
「真白ちゃんの魔力……なんて芳醇で、甘美なの……。ああ、すごくいいわぁ……デュフデュフッ!! いくわよっ!!」
「「『十字架暗黒昇竜拳』っ!!!」」
咆哮と共に、地面からドロリとした闇が巨大な拳となって噴出し、欲望の権化たる影を天高く突き上げる。その頭上には、純白の光を放つ巨大な十字架が出現し、断罪の如く影を押し潰した。
光と闇が交差した瞬間、爆音と共に世界が白く染まり、影は悲鳴を上げる間もなく消滅した。
その衝撃の反動で、二人は前方に倒れ込む。
……だが、そこにはさらなる「不慮の事故」が待っていた。
スカート越しではあるが、倒れ込んだシロミの顔の真ん前には、真白の柔らかな曲線を描くお尻が鎮座していた。
「はぁ、はぁ……っ。お、お姉ちゃんの魔力、凄かった……。身体が……まだ熱いよ……」
地面に伏せたまま、肩で息をする真白。その無防備な背中を、シロミは至近距離で見つめる。
「……ま、まずいわね。私も身体が動かないわ……。おまけにこの状況……たまらないわ。……ええ、ご褒美以外の何物でもないわね……」
「えっ? お姉ちゃん、何か言った……?」
「ま、真白ちゃん……。魔力の乱れを落ち着かせるために、深呼吸をするのよ。そ、そう……私もちょっと……失礼するわね。……スーハーッ! スーハーッ! クンクン! ……スーハーッ! クンカクンカッ!! ……ああ、あああああッ! ビクンビクンッッ!!」
「スーハーッ……。お、お姉ちゃん大丈夫!? 身体がビクビクしてるよっ!?」
真白は、姉が魔力の反動で痙攣しているのだと思い、心配そうに声をかけた。
だが、数メートル先でそれを見ていた剣一とアリスは、もはや言葉を失い、ただ静かに互いの目を覆い隠すしかなかった。




