欲望のミラー
リビングの空気は、昨夜の熱気とは正反対の、重苦しくもどこか甘酸っぱい沈黙に包まれていた。
ソファに座る剣一の両頬には、アリスの怒りと羞恥が凝縮された鮮やかな手形が刻まれている。対するアリスは、シロミから借りた予備のぶかぶかなローブに身を包み、膝を抱えて小さくなっていた。
「……不可抗力だ。俺は何もしていない……」
剣一が消え入りそうな声で弁明するが、アリスは顔を上げようともしない。ローブの裾をぎゅっと握りしめ、耳まで真っ赤にしたまま呟く。
「……裸も下着も見た。もう……全部見られた……。あたしの尊厳、どこに行っちゃったの……」
「そ、それは……すまない。……アリスがよければ……責任は取るつもりだ」
剣一が覚悟を決めたように視線を合わせると、アリスは肩を震わせ、一瞬だけ潤んだ瞳で彼を睨みつけた。
「……っ! あ、当たり前じゃないっ。一生かけて責任取らないと、あんたのこと本気で消し炭にするからっ!!」
「ああ、分かっている。逃げたりしない」
二人の間に流れる、もはや隠しようのない「誓い」のような空気。
それを特等席で眺めていたシロミは、優雅に紅茶を啜りながら、手元のカメラの液晶画面をうっとりと眺めていた。
「ふふ、いいわねぇ。朝から責任なんて言葉が飛び出すなんて。……真白ちゃん、見たかしら? これが愛という名の、少々暴力的な契約の形よ」
「うん! お兄ちゃんとアリスちゃん、結婚するの? 私、花嫁さんの付添人やりたいっ!」
「ま、真白っ! 結婚とか、まだそこまでは……っ!」
剣一が慌てて否定するが、隣のアリスは反論する余裕すらない。両手で顔を覆い、指の隙間から漏れる熱気で顔を真っ赤に染め上げている。
「ふふ、ご馳走様。さて、そろそろ朝食を作るわよ。真白ちゃん、手伝ってくれるかしら?」
「うん! お姉ちゃん、一緒に作ろっ!」
シロミは二人の様子を「全部分かっている」という慈愛に満ちた目で見守り、真白を促してキッチンへ向かった。
リビングに残されたのは、気まずさと甘い沈黙が漂う二人だけだ。
「……け、剣一。ごめんね。……本当は、あんたが何もしてないのは分かってるのに……つい、叩いちゃって」
アリスが俯いたまま、消え入りそうな声で謝った。剣一はその頬に残る熱を指先でなぞるように触れ、苦笑いを見せる。
「大丈夫だ、気にするな。……それも含めて、その……アリスだからな」
「……ありがと。あたし……最近、本当に好きで好きでたまらなくてっ。自然と目で追っちゃうし、近くにいないと落ち着かないし。で、でもその……そういう……アレなことは……あ、あたしも我慢してるっていうか……その……神を倒してからでも……いい?」
アレという言葉とアリスも我慢しているということに、剣一の心臓がまた一つ跳ね上がった。
今朝のパニックや、昨夜の魔剣の限界突破を思い出し、顔が熱くなるのを抑えられない。だが、アリスのその真摯な瞳を見て、剣一はゆっくりと、彼女の震える手を包み込むように握った。
「ああ。……約束する。神を倒して、この世界に本当の平和が戻ったら……その時は、俺の全部をお前に預けるよ。……だから、それまでは俺の隣で、支えてくれ」
「……剣一。……うん、絶対。絶対に勝って、あんたをあたしだけのものにするからっ!」
アリスはふいと顔を背けたが、握り返してきた手の力は強く、確かな熱を帯びていた。
少女としての恋心と、戦士としての使命感。その両方が今、二人をかつてないほど強固な「絆」で結びつけていた。
「ふふ、ご馳走様。朝ごはんの前に甘いデザートでお腹いっぱいになっちゃいそうだわ」
いつの間にかキッチンから顔を出していたシロミが、エプロン姿でフライ返しを手に、呆れたような、それでいて温かい眼差しを向けていた。
「シ、シロミ! お前、いつから……っ!」
「最初からよ。……さあ、愛を語るのもいいけれど、しっかり食べなさい。神を倒すには、その好きっていう魔力だけじゃなくて、筋肉のエネルギーも必要なんだから」
「お兄ちゃん、アリスちゃん! オムレツ焼けたよーっ!」
真白の元気な声に促され、二人は照れくさそうに立ち上がった。
朝食を終え、一行は決戦に向けた最終調整のため訓練場へと向かう。
午前は個人の練度を高め、午後はタッグで連携を確認することを決め、『写影魔鏡』を構えた。
鏡面が禍々しく波打ち、四人の姿を映し出したかと思うと、そこから不気味に蠢く「影」たちが飛び出てきた。
だが、現れた影たちの姿は、あまりにも異様だった。
「なっ!? 俺の影……なぜあんなに、限界突破した魔剣のように腫れ上がって光っているんだっ!!」
剣一が絶叫する。彼の影は、今朝の生理現象をこれでもかと強調したような、あまりにも雄々しく、そして卑猥な黄金の輝きを放っていた。
「ちょ、ちょっと待って!! なんであたしの影は全裸なの!? 剣一、見ちゃダメ! 絶対に見ないでっ!!」
アリスの影は、今朝の衣服霧散の状態を完璧に再現していた。蒼い炎を纏いながらも一糸纏わぬ姿で戦場を駆けるその影は、アリスの羞恥心を真っ向から踏みにじっていく。
「そ、そんな……。ああ、やめて頂戴……。私の姿で、そんな……頭から被ってスーハーッてしないでくれるかしら……。姉としての、私の尊厳が……っ!!」
シロミがこれまでにないほど青ざめ、膝をついて崩れ落ちた。昨夜、脱衣所で理性を失いかけた彼女の深層心理が、最悪の形で具現化してしまったのだ。
「えへへ、みんなの影、なんだか個性的で変わってるねっ! 私のは普通なのに」
唯一、一点の曇りもない真白の影だけが、純粋無垢な姿でちょこんと座り、他の三人の「欲望の権化」たちを不思議そうに眺めていた。
一刻も早く倒さなきゃいけない三人は、悩む暇もなく先手を仕掛け圧倒的にボッコボコにし、勝利を得た。一方で真白は苦戦を強いられたが無事倒していた。
影たちが消滅した後、訓練場には荒い息遣いと、なんとも言えない気まずい沈黙だけが残った。
三人は、自身の「内なる闇」があまりにもダイレクトかつ下品に具現化されたことで、精神的にボロボロだった。だが、同時に「この恥ずかしい姿をこれ以上晒してたまるか」という、ある種の殺意に近い羞恥心が、影たちを圧倒的な速度で殲滅させたのである。
「はぁ、はぁ……っ! 終わった……。もう、二度とあんなもの見ない……っ!」
アリスは地面にへたり込んだ。剣一もまた、腫れ上がった影の記憶を無理やり脳の深淵へと封印するように、天を仰いで深呼吸を繰り返している。
「……姉としての尊厳が。……あの子、あんなに神聖なアイテムを、あんなに執拗に、堂々と
……っ!ちょっと羨ましいっ!!」
シロミは、自分の影が最後に見せた陶酔しきった表情を思い出し、嫉妬と羨望そして惨めで蹲って動けなくなっていた。彼女にとって、それは戦いというよりも、自分自身の変態性を鏡で叩きつけられるという感覚だった。
一方で、戦場の中央。
「はぁ、はぁ……! 影さん、意外と強かったね……っ!」
真白だけは、額に汗を浮かべながらも、どこか誇らしげに息を整えていた。彼女の影は、純粋さゆえの強固な意志を持っており、真白自身もそれと真っ向から向き合って戦い抜いたのだ。
「えへへ、見て見て! お姉ちゃん、倒したよ!」
「……え、ええ。よくやったわ、真白ちゃん。……あなたの影だけは、今日という日の唯一の救いよ……」
シロミは涙目で真白を抱きしめ、その清潔感にすがろうとする。
「ねえ、お兄ちゃんたち! 影さんがいなくなったから、次は午後のタッグ訓練だよね? 頑張ろう!」
真白のあまりに無邪気な一言が、精神的に重傷を負った三人に突き刺さる。
「……真白、少しだけ。……少しだけ休憩させてくれ……」
剣一は力なく地面に膝をつき、アリスは地面で膝を抱え、シロミは真白に抱きつき匂いを吸い込んだまま、白目を剥いていた。
影による精神攻撃は、四人の絆を深める……というよりは、互いの恥部を共有させる結果となり、実質的には彼らの勝利を収めたのだった。




