充電
ボロボロになった身体を引きずるようにして、四人はようやく見慣れた我が家へと辿り着いた。
サンムーン大陸の荒野とは違い、木の温もりが残る静かなリビング。剣一が淹れた温かい飲み物を手に、四人は自然と円卓を囲んでいた。
「とりあえずサクッと夕食作っちゃうね!」
「私も手伝うわ。早く済ませるわよ」
そして颯爽と迅速に料理を作り、食事を済ませ、これからのことを話し合う。
「……これから一ヶ月、どうするのがベストだろうか」
剣一が重い沈黙を破る。40倍という数字の重みが、今も胸の奥に鉛のように居座っている。
「絶対に40倍にならなきゃいけないわけじゃないし。一ヶ月しか無い今、少しでもその力に近づくのが一番ベストじゃない?」
アリスが、剣一のローブを肩に羽織ったまま、カップを両手で包み込んで言った。その瞳には、絶望を跳ね除けるような強気な色が戻っている。
「そうねぇ。期限がある以上、出来ることは限られてくるわ。……落ち込んでいる暇があるなら、今やれることをやるしかないわね」
シロミが静かに同意する。彼女はすでに、自分の魔力をさらに高めるための理論を脳内で組み立てているようだった。
「そうだねっ! とりあえず今日はゆっくり休もう! お兄ちゃんも、アリスちゃんも、もう限界だよ」
真白が努めて明るく振る舞い、場を和ませるように微笑んだ。
確かに、今は一刻も早い休息が必要だ。身体を癒さなければ、明日の修行さえままならない。
「……そうだな。明日から、また地獄の特訓だ。今日は解散にしよう」
剣一が立ち上がり、それぞれが自分の部屋へ戻ろうとした、その時だった。
「……ね、ねえ、剣一」
アリスが、消え入りそうな声で剣一の服の裾を掴んだ。
「ん? どうした、アリス」
「……あたしも、今やれることはやっておきたいからさっ。その……っ」
アリスは耳まで真っ赤に染め、俯いたまま絞り出すように続けた。
「……その、怪我で腕が上手く動かないから……背中、流してくれない?」
「えっ……!? せ、背中って、お風呂のことか!?」
剣一の叫び声が夜の静寂を切り裂く。
真白は「ええええ!?」と驚きで杖を落とし、シロミは「あら……。今やれることって、そういう意味だったの?」と、面白そうに目を細めて二人を見つめている。
アリスは真っ赤な顔のまま、震える手でさらに強く剣一の裾を握りしめた。
「変な意味じゃないからっ! 40倍強くなるための、ただの……効率的なリカバリーだからっ!!」
「あらあら、それなら仕方ないわよねぇ。剣一が背中流してくれたら元気100倍になるっていうんだもの」
シロミの意地悪な追い打ちに、リビングの空気は一気に沸騰した。
「ちょ、ちょっとシロミ! 余計なこと言わないでっ!」
アリスは顔から火が出そうなほど真っ赤になり、剣一のローブをぎゅっと自らに引き寄せた。その一方で、裾を掴む指先だけは決して離そうとしない。
「……元気100倍って、アリス、お前……」
剣一は固まったまま、壊れた蛇口のように冷や汗を流している。40倍の魔力差に絶望していたはずが、今は目の前の少女の突拍子もない提案に、別の意味で命の危険を感じていた。
「……わ、わかったよ。怪我で腕が動かないんじゃ、放っておくわけにもいかないしな。……変な気は起こさないから、安心しろ」
「べ、別に安心なんてしないから! ……っていうか、あんたが変な気起こしたら、その瞬間に蒼炎で消し炭にしてやるからっ!」
強気な言葉とは裏腹に、アリスの声は微かに震えていた。
「じゃあ、お兄ちゃん。私はお風呂の準備してくるね! ……アリスちゃん、あんまりお兄ちゃんを困らせちゃダメだよ?」
真白がクスクスと笑いながら脱衣所へ向かう。
「ふふ。何が起こるか楽しみねぇ」
シロミは優雅に椅子に座り直して、楽しげに二人を見送った。
湯気に満ちた浴室には、カランから落ちる水滴の音だけが静かに響いていた。
剣一は、視線をどこに置いていいか分からず、ただ目の前にあるアリスの背中へと意識を集中させる。真白の治癒魔法を受けたとはいえ、その白い肌には激戦の名残である赤みが滲んでいた。
「……痛くないか?」
剣一が、お湯を含ませたタオルをそっと当てると、アリスの小さな肩がびくりと跳ねた。
「……っ、全然。……これくらい、平気よ」
「嘘つけ。……肩、震えてるぞ」
剣一は努めて冷静に、けれど指先に込める力は羽毛に触れるほど優しく、彼女の背中をなぞっていく。
「……うるさい。……これは、その、お湯が熱いだけだから。それに……」
アリスは膝を抱えて顔を埋めたまま、籠もった声で続けた。
「……あんたに、こんなことされるの、初めてだし……」
剣一は手を止め、言葉を失った。
いつもなら自信満々で、戦場では誰よりも勇猛な彼女。その少女の背中が、今は驚くほど小さく、守るべき存在としてそこにある。
「……ねえ、剣一」
「ん?」
「……カオスの言ってたこと……。本当に、40倍も差があると思う?」
アリスの声は、先ほどリビングで見せた強気なものとは違い、震えていた。
指先から伝わってくる彼女の鼓動が、不安を物語っている。
「……正直、アイツの威圧感は本物だった。偽物を倒して、やっと届くと思った瞬間に、あの絶望だ。……40倍。数字にされると、確かに気が遠くなるな」
「…………」
「でも、アリス。お前が言っただろ? だったら40倍強くなればいいって。……俺、あの言葉で目が覚めたんだ。お前が笑ってそう言うなら、できる気がした」
剣一はタオルの動きを止め、彼女の背中に静かに語りかける。
「俺一人じゃ、一生かかっても無理かもしれない。でも、四人なら……お前となら、届く気がするんだよ。根拠なんてないけどな」
アリスはゆっくりと、、濡れた髪の間から黄金の瞳を覗かせた。
振り向いた彼女の頬は、湯気のせいだけではなく、林檎のように赤く染まっている。
「……あったり前じゃん。あたしが大好きって言った男なんだから。……あんたがそんなに弱気でどうすんの」
アリスは少しだけ切なげに、けれど挑戦的に口角を上げた。
「……天空まで連れていって、そこで最高の返事、聞かせてよね。……それまで、あたしの背中、ちゃんと見ててよ?」
「……ああ。約束する」
二人の間に流れる時間は、一ヶ月後の死闘を忘れさせるほど、穏やかで熱いものだった。
湯上がりの熱気を纏ったまま、剣一とアリスがリビングに戻ると、そこにはすでに着替えを終えてくつろいでいるシロミと真白の姿があった。
「あ、お兄ちゃん、アリスちゃん。おかえりなさい!」
真白がパッと顔を輝かせ、温かなお茶の入った湯呑みをテーブルに並べる。対照的に、ソファで優雅に足を組んだシロミは、手にした書物から視線すら上げずに口角を吊り上げた。
「……あら。思っていたより早かったわね。もっと時間がかかるかと思っていたのだけれど」
「し、シロミ……! だから変な意味じゃないって言ったでしょ!」
アリスは濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら叫んだ。その耳たぶは、まだお湯の熱さだけではない赤みが引いていない。
「あら、じゃああれは空耳だったのね」
「あ、あんたには何が聞こえてたっていうの?」
「言っていいのかしら。あぁー、そこそこ、剣一ぃ〜って言ってなかったかしら」
シロミのあまりにも直球すぎる揶揄いに、リビングの温度が一気に数度上がったような錯覚に陥った。
「なっ……! な、ななな、何をデタラメ言ってんの、この下品女っ!!」
アリスは椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がり、顔を真っ赤にして叫び、シロミを指差して震えている。
「そんな破廉恥なこと、口が裂けても言うわけないでしょ! 背中! あたしは背中を流してって頼んだだけっ!!」
「あら、そう。……でも、剣一の方はどうかしら? 鼻の下が伸びていたように見えたけれど」
シロミは冷めた紅茶を一口啜り、視線を剣一へと向けた。
「ぶっ……! げほっ、ごほっ!!」
お茶を飲んでいた剣一は、盛大にむせてテーブルに突っ伏した。
「……し、シロミ、頼むからやめてくれ。……俺はただ、怪我をしてるっていうから、その……」
「お兄ちゃん、顔が真っ赤だよ? ……アリスちゃんの背中、そんなに綺麗だったの?」
真白までが、小首を傾げて純粋すぎる追い打ちをかけてくる。
「真白まで……っ! ……あー、もう! 訓練の話だ! これからの訓練の話をしよう!」
剣一は強引に話題を切り替えようとしたが、その手は目に見えて震えていた。アリスも真っ赤な顔のまま、フンッと鼻を鳴らして座り直す。
「……そう! 40倍強くなるための大事な作戦会議なんだから! ……変な邪念は捨てなさいよね、剣一!」
「邪念を持ってたのはどっちかしらね……」
シロミの小さな呟きを無視するように、剣一は喋り出した。
「目標は40倍だが、今俺たちは四人いる。最低でも一人あたり10倍は絶対に外せない条件だ。これからは常時、限界突破は出来るようにしよう」
「なるほど、日常生活も訓練に含めるのね。魔力を常に臨界点に置くことで、肉体と精神の強度を引き上げる……いいんじゃないかしら」
シロミが面白そうに頷き、指先で自身の魔力を弄ぶ。
「うん、わかったっ! じゃあ今日はそろそろ寝ようっ! 明日から本番だもんね!」
真白が気合を入れるように拳を握り、お茶の片付けを終えて寝室へ向かおうとした。
だが、その背中を呼び止めるよりも先に、アリスが消え入るような声を発した。
「……け、剣一。ちょっと、その……一緒に寝たい……」
リビングの空気が、一瞬で凍りついた。いや、熱を帯びて沸騰したと言ったほうが正しいかもしれない。
真白は扉に手をかけたまま石のように固まり、シロミは手に持っていた書物をパタンと閉じて、この世の終わりか、あるいは始まりを目撃したような顔で二人を凝視した。
「……アリス、今……なんて言った?」
剣一の声は上ずり、心臓の鼓動はすでに限界突破の限界値を超えようとしていた。
「……何度も言わせないで。……一人だと、あの闇に飲み込まれそうで……怖いんだから……っ」
アリスは服を首元まで引き込み、顔を半分ほど埋めたまま、上目遣いで彼を見つめている。掴んだ剣一の裾を今度は離そうとせず、その指先は小刻みに震えていた。
「なっ……! いっ、一緒にって、シロミ、お前何で黙って……っ!!」
剣一が助けを求めるように視線を送るが、シロミは口角を極限まで吊り上げ、愉悦に満ちた表情で頷いた。
「あら。背中を流すだけじゃ、リカバリーが足りなかったみたいねぇ。……いいじゃない、剣一。これも立派な任務よ。アリスの精神的な不安を払拭し、明日の修行に備えさせる。……完遂しなさい?」
「シロミ……お前、本当に面白がってるだろ……っ」
「否定はしないわぁ。……じゃあ、お熱い夜を」
シロミは優雅に翻り、自室へと消えていった。真白も顔を林檎のように真っ赤にしながら、
「……お兄ちゃん、アリスちゃんのこと、ちゃんと守ってあげてね」
と、消え入りそうな声で言い残して後に続く。
静まり返ったリビングに残されたのは、呆然と立ち尽くす剣一と、彼の裾を握りしめたまま動かないアリスの二人だけだった。
「……行くよ、剣一」
アリスが蚊の鳴くような声で促し、一歩一歩、まるで処刑台へ向かうような足取りで寝室へと向かった。
寝室の扉が閉まると、外の空気とは遮断された、さらに密度の高い沈黙が二人を包み込んだ。
月明かりだけが差し込む部屋で、剣一はベッドの端に腰を下ろし、どうにか呼吸を整えようとする。
「……あたし、横になるね」
アリスはもぞもぞとベッドに潜り込んだ。
「……アリス、俺はやっぱり椅子か床で」
「……ダメ。……隣にいて。……体温が、してないと……落ち着かないの……っ」
アリスが布団の中から細い手を伸ばし、剣一のシャツをぎゅっと掴んだ。
抗う術を失った剣一は、観念してアリスの隣、少しだけ距離を空けた場所に横たわった。
限界突破を常時維持する訓練。
今、剣一の全身を巡る魔力は、アリスのすぐ傍にいるという緊張感と合わさって、制御不能なほどの熱を帯び始めている。
「……ねえ、剣一」
暗闇の中で、アリスの声がすぐ耳元で響いた。
「……あの偽物と戦ってる時、あたし……あんたのことばっかり考えてた」
「……俺のこと?」
「……そう。……あんたなら、きっとあたしを助けに来る。……それまで、絶対に負けられないって……。でも、カオスが出てきた時……。本当は、足が震えて止まらなかったの」
アリスが布団の中で、剣一の手をそっと探り当て、指を絡めてきた。
「……一ヶ月後、あたしたち、本当に勝てるのかな……」
不安を吐露する彼女の手は、驚くほど冷えていた。剣一はその手を力強く握り返し、静かに、けれど揺るぎない声で答えた。
「……勝つさ。……俺が、お前を一人にはさせない。……40倍の壁なんて、お前と一緒にぶっ壊す」
「…………。……ふん、相変わらず……口だけは達者なんだから……」
アリスは少しだけ安心したように鼻を鳴らし、握った手に力を込め、剣一に後ろから抱きついた。
背後から伝わる、アリスの柔らかな体温と微かな震え。
剣一の背中に押し当てられた彼女の鼓動が、驚くほど速く打ち鳴らされているのが分かった。
「……ちょ、アリス!? 」
「うるさい。……前向いてて。……あんたの顔、見てたら……余計に心臓がうるさくて……眠れないんだから」
アリスの声は、剣一の背中に遮られて籠もっていた。
自分のローブ越しに伝わってくる、彼女の指先の強さ。それは「離さないで」という無言の訴えのようでもあった。
「……分かった。……このまま、夜が明けるまでここにいる」
「……当たり前でしょ。逃げたら……その瞬間に爆破するから」
強気な言葉を吐きながらも、アリスは剣一の背に額を預け、深く息を吐き出した。
カオスとの絶望的な差、自分と同じ顔をした「偽物」との死闘。それらがもたらした冷たい不安が、剣一の背中の温もりによって、じわりと溶かされていく。
剣一もまた、背中に預けられた彼女の重みを感じながら、闇の中で目を閉じた。
その刹那、剣一の耳元でアリスが囁く。
「……おやすみ、剣一。だーいすき」
アリスの吐息が耳元を掠め、心臓が跳ね上がるような衝撃が剣一を襲った。
限界突破を維持するための魔力が、その一言で一瞬激しく乱れ、火花を散らす。
「……っ!お、おやすみアリス」
どうにか絞り出した返事は、自分でも情けないほど裏返っていた。
背中に押し当てられたアリスの体温が、まるで熱源そのものであるかのように熱い。彼女は「だーいすき」と言い残した後、満足したのか、あるいは恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、それ以上は何も言わず、剣一の背中にぎゅっと顔を埋めた。
やがて、規則正しいアリスの寝息が聞こえ始める。
限界突破の奔流が、まるで彼女を包み込むような静かな光となって部屋を満たしたのだった。




