絶望
剣一が、自分の黒いローブで包んだアリスを大切に抱きかかえていると、土煙の向こうから二つの影が歩み寄ってきた。
一際眩い光を放つ真白と、闇に溶け込むような静寂を纏ったシロミ。二人は剣一の姿を認めるなり、弾かれたように駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん! アリスちゃんは無事なの!?」
真白が悲鳴に近い声を上げ、剣一の腕の中でぐったりとしているアリスの顔を覗き込む。
「……ああ。なんとか、な。……二人とも、そっちの偽物は?」
剣一の問いに、真白は力強く頷き、シロミはふっと視線を逸らして唇の端を上げた。
「……愚問ね。……妹を語る不届き者は、影の底へ沈めてきたわ」
シロミは冷淡に言い放つが、その肩も激しく上下しており、彼女自身も限界に近い死闘を繰り広げてきたことが見て取れる。シロミは、剣一のローブ越しに伝わるアリスの微かな魔力を感じ取り、少しだけ目を細めた。
「……あのアリスが、そこまでボロボロになるなんて。……随分と、ひどい真似をされたみたいね」
「……ああ。……だが、アリスは勝った。……あいつが、俺たちを繋いでくれたんだ」
剣一は、抱き抱えている腕を少しだけ強め、アリスを真白とシロミの間にそっと下ろした。
自分のローブに包まれたアリスは、まだ深い眠りの中にいる。けれど、彼女が命懸けで灯した「蒼炎」の火種は、まだ消えていない。
「真白ちゃん、魔力があまりないとは思うけれど、アリスのこと回復してあげてくれるかしら?」
シロミが静かに、けれど促すように言った。彼女自身の声も、激戦の名残で微かに掠れている。自分たちも限界に近い。それでも、まずは仲間を救うことを優先する。それがこの一ヶ月で築き上げた、言葉以上の信頼だった。
「わかった!回復!」
真白が両手をかざすと、清浄な光の粒子が粉雪のようにアリスを包み込んだ。
ローブの隙間から見えるアリスの酷い火傷や、漆黒の魔力に焼かれた傷跡。それらが光に洗われるようにして、じわりと、けれど着実に白く塞がっていく。
「……ふぅ。……これで、致命的な傷は塞がったはず」
真白は額の汗を拭い、少しだけ安心したように微笑んだ。
剣一は、光に包まれるアリスの寝顔をじっと見つめていた。黒のローブを羽織り、真白の光に守られる彼女は、先ほどまでの烈火の如き戦士とは思えないほど、幼く、そして穏やかに見えた。
「お兄ちゃん……。アリスちゃん、うなされながらも、ずっとお兄ちゃんの名前を呼んでたよ」
「……えっ?」
真白の不意の一言に、剣一の心臓がどきりと跳ねる。
シロミはそれを見て、口角をわずかに上げて、どこか楽しげに目を細めた。
「……あら。あんなに派手にアリスがーとかアリスならーとか言ってたんですもの、当然じゃないかしら?」
シロミは手負いの体でありながら、どこか揶揄うような視線を剣一に送る。
「し、シロミまで……。……あれは、偽物を倒すための……」
剣一が言い淀んだ、その時だった。
集束した黒い霧の中心から、重なり合う幾千もの声のような不気味な響きが響いた。
「……ほう、四体とも倒されたか。中々戦えはするようだな。だが、お前らが倒したのは私の魔力の四分割されたものだ。」
「……っ!? カオス、本体か!」
剣一はアリスを庇うように前に出る。黒い霧は徐々に人の輪郭を象り、黄金の装飾を纏った漆黒の巨影へと変貌していく。
「言ってなかったが、神たちは地上に分身で降りる時、魔力は10分の1になる。これはあくまで神がお前らを弄ぶのに作った神のルールだ。天空へ行けばそうはいかない。簡単に言えば、私の本当の魔力はお前らが倒したやつの40倍と言うことだ」
「……なっ!?40倍だと!?」
剣一の顔から血の気が引いた。一ヶ月の特訓を潜り抜け、限界突破まで使い、文字通り死線を越えてようやく倒した「偽物」。それが、この怪物のたった40分の1の欠片でしかなかったというのか。
「私たち魔族はあなたたちの遊び感覚で殺されたって言うの……っ!」
シロミが怒りに肩を震わせる。影の衣が、主の激昂に呼応してドロドロと波打った。
「……あんなに……必死で……倒したのに……っ!」
真白の声が震えていた。杖を握る白指に力が入り、爪が食い込む。どれほどの覚悟で、どれほどの魔力を込めて、偽物を討ったか。それを遊びの一言で切り捨てられた屈辱と絶望が、三人を襲う。
漆黒の巨影、カオスは嘲笑うように言葉を紡ぎ出した。
「……お前たちは、天空へ至るために天魔石が必要だと信じているようだが……。それが誰の手元へ届くか、単なる偶然だと思っているなら大きな間違いだ。すべては『God knows』神の知るところだ。選ばれるのは、圧倒的な強者か、あるいは神の気まぐれな思惑にかなった玩具のみ」
カオスの輪郭が揺らぎ、周囲の空間がその圧力だけでひび割れていく。
「そして、天空への門を叩く方法は、天魔石だけとは限らない。……この私が、いわばスカウト役となっているのだ。……そして、お前たちを招待してやることにした。だが、今のまま天空へ上がったところで、待っているのは瞬時の消滅。せいぜい数秒の命だろうな」
「一ヶ月だ。一ヶ月の猶予をやろう。それまでに、もっと死に物狂いで腕を磨け。そして、天空に座す神々を倒してみせろ。一ヶ月後、再びここへ来い。その時こそ、天へと導いてやろう」
「……一ヶ月だと……っ!?」
「……期待しているぞ。お前らが、どこまで高く飛べるようになるのかをな。……さらばだ」
漆黒の霧が爆ぜるように霧散し、カオスの気配が消えた。
残されたのは、ボロボロになった三人と、眠り続けるアリス。そして、あまりにも遠い40倍の差という残酷な現実だけだった。
「……くっ!これだけ特訓してもまだ届かないのか!」
剣一の絞り出すような声が、静まり返ったサンムーン大陸に虚しく響いた。
自分の限界を超え、偽物を討ち果たした確かな手応え。それがたった「40分の1」に過ぎなかったという事実は、剣士としてのプライドを粉々に打ち砕くには十分すぎる衝撃だった。
「神の力……まだまだ慢心している余裕はないわね……」
シロミは、震える手で自らの腕を抱きしめた。
魔族として、強さには自負があった。けれど、先ほどカオスが放った威圧感は、生物としての格そのものが違っていた。40倍。その数字の持つ絶望的な質量が、彼女の冷静さをじわじわと侵食していく。
「………花恋ちゃんたちのためにも迷っている暇なんて無いっ……っ!!」
真白は、杖を杖としてではなく、自分を支える柱のように強く握りしめた。
恐怖で膝が笑い、今すぐ逃げ出したくなる本能を、離れ離れになった仲間――花恋たちの笑顔を思い出すことで無理やり押さえつける。彼女の瞳には、涙を堪えながらも消えない意志の火が宿っていた。
三人がそれぞれの絶望と向き合い、立ち尽くしていた、その時。
「…………ん……っ」
剣一の黒のローブに包まれ、地面に横たわっていたアリスが、微かに身じろぎした。
「……アリス!」
剣一がハッとして駆け寄る。
ゆっくりと開かれた黄金の瞳。それはまだ混濁していたが、剣一の顔を捉えた瞬間、いつもの勝気な輝きを取り戻した。
「……何なの、みんなして……お通夜みたいな顔しちゃってさ……」
アリスは、重い身体を無理やり起こそうとして顔をしかめる。剣一が慌ててその肩を支えた。彼のローブが、彼女の肩から滑り落ちそうになるのを、アリスは無意識にギュッと掴んで引き寄せた。
「アリス、無茶するな! まだ身体が――」
「……聞こえてた、あのスカスカな声の主が言ってたこと……。40倍、でしょ?」
アリスは剣一の胸元に寄りかかるようにしながら、不敵に口角を上げた。
ボロボロの体。砕けた魔装。それでも、彼女の精神だけは一歩も退いていなかった。
「だったら、簡単じゃない。……あたしたちが、この一ヶ月でさらに40倍強くなればいい。……ただ、それだけでしょ?」
「アリスちゃん……正気なの? 40倍なんて、そんなの……」
真白が戸惑うように問いかけるが、アリスは剣一のローブに包まれたまま、力強く言い放った。
「正気じゃなきゃ、天空なんて目指さないじゃん……ねえ、剣一。あんた、あたしの大好きに、まだ返事してないわよね?」
「えっ……あ、いや、それは……」
不意に話を振られ、剣一の顔が真っ赤に染まる。アリスはそれを見て、悪戯っぽく、けれど最高に格好良く笑ってみせた。
「返事は、神様をぶっ飛ばした後に取っておいてあげる。……だから、あんな奴の数字にビビってる暇なんて無いから」
その言葉は、凍てついていた三人の心に、再び蒼い炎を灯し、その場を後にした。




