第6話
「ただいま」
「お帰りなさい」
この二ヶ月ただの一度も返ったことのないその声にどこか不思議な感慨を覚えた。無性にエキセルが可愛く思えてくる。
同居を許したはいいが二日も経たずに秋桜やほとり様や勇太から心配され、会長には忠告される始末。前途多難とはこのことか。
「昼飯、ちゃんと食べたか?」
「うん」
朝、学校に行く前にエキセルの分も弁当を作って渡しておいたのだがきちんと食べたらしい。ならお菓子やトマトジュースも大丈夫だろう。
「俺はこれから夕食を作るから居間でテレビでも見ててくれ」
「判った」
てとてとと歩いていくエキセルに癒されながら台所に向かうと見知らぬ誰かが調理をしているという意味不明な事態に遭遇した。
「はい?」
「あ、お邪魔してます」
サイズの合わないシャツを着ているせいなのかそういう服なのか右肩のあたりから僅かにずり下がっており、肌が大きく露出していた。ところどころ擦り切れたジーパンといいラフな格好が妙な艶めかしさを生んでいる。
「自分、エキセルの知人でペンシルって言うんですけど、壁の修理は済ませておきましたから」
ペ、ペンシルだと……!? ぎ、偽名なのだろうか……いや最近は変わった名前が多いって聞くし、うん。そういう名前の人もいるよね。
「あ、それはどうも。俺は神野木明人って言います。それはそうと、夕食の準備までありがとうございます」
「ああ、それなんですけど、勝手に人様の冷蔵庫開けて作っちゃってもいいのか迷ったんですよ。でも、そう言ってもらえると懸念がなくなって気が軽いです」
「もうすぐできるんで、エキセルとくつろいでてほしいです」と言われたので手伝うとごねたのだが、頑なに手伝いを拒むペンシルさんに拒否するわけにもいかず、渋々ではあるが居間でごろごろしているエキセルの隣に座り込む。
「あの人、どういう知り合いなんだ?」
「昔、ちょっとだけ力になってあげたの。そのときの」
「へえ、お前が人助けね……ってか、もしかするとあの人も究血姫か?」
「違う。ただの妖怪」
うわあ……妖怪も普通に存在するのか。マジで世界広いわ。これまでの常識が全く通用しない世界だ。
親父生きてたら喜んだだろうな。オカルトマニアだったもんな、あの人。
「世の中割と不思議に満ちてるもんだな」
「……そう感じるのは、誰も見ようとしなくなったから。不思議じゃなかったことを忘れてしまって不思議だと思うようになったから」
……何か、エキセルが言うと重く響くな。
「エキセルはもしかして、大分長く生きてるのか?」
吸血鬼って確か不老じゃなかったっけ?
「千は……生きてると思う」
「ほ、本気と書いてマジですか?」
「マジ」
なんという事実。
それだけ生きてきたなら歴史のこととか色々知ってるんじゃないだろうか……織田信長の死に立ち合ったとか。もう何があっても不思議じゃない。
「そんだけ生きてるって、どんな感覚がするんだ?」
「別に何も。長く生きたって、何の自慢にもならない。どんな時も、過ぎ去れば一瞬でしかない」
「そっか」
テレビでは大根が不作だのなんだのと、当事者でない人間にとってはさして興味をひかれるようなものではないニュースが流れている。
しばらく会話が途切れていたのだが、エキセルがちらちらとうかがうように俺を見ていることに気付いて声をかける。
「どうした?」
「……その、明人は学校とか楽しい?」
「まあそれなりにな。中学校まではたぶん、あんまり楽しくなかったかもしれない。高校に入ってから、面白い奴らがいてさ、そこからだよ」
「そう……」
「なんだ、学校に行きたいのか?」
「……かもしれない。明人の学校、楽しそうだから」
そうやって、寂しそうに目を背けるエキセルのが姿がとても小さく見えた。究血姫として生きる人生はどんなものなのだろう。学校なんか通えなかったのかもしれない。そもそも吸血鬼の学校なんてないのだろう。考えてみればそりゃそうだ。堂々と学校なんか造れないだろう。
「エキセルが学校に来たら、もっと楽しくなりそうだな。俺は歓迎するぞ」
通えるかどうかは別として、そんな生活もありだと思った。
「……っ!」
俺の言葉を聞いたエキセルは驚いたように目を見開いて、視線を右往左往させながらそっぽを向いてしまった。
「どうしたんだ?」
「なんでもない!」
エキセルは聞いたことのないような大きな声で言った。
な、なんだというのだ……。
と。
ぼごんっ! この家に住んでから未だかつて聞いたことのないような爆音が嫌な予感と匂いを引き連れてきた。
慌てて台所をのぞくと電子レンジが内側から破裂したみたいにばらばらになっているんだが……。
「これはひどい……」
エキセルが声を震わせていた。
彼女がこんな風に反応するのだからよっぽどだ。
「あ、あの、申し訳ないです……」
「お怪我はありませんか!?」
「大丈夫です……」
「それはよかったです。しかし――」
呆然とした面持ちのペンシルさんはどうしていいか判らないのかその場を行ったり来たりしていた。
「一体何をされていたんですか?」
「ダチョウの卵を電子レンジで温めてたら……こうなりました」
なん……だと……?
かつて世間のお茶の間を騒がせた爆弾卵事件が今更になって我が家で起ころうとは……!
「な、なるほど。取り敢えず片付けますんで下がっていてください」
「そんなわけにはいきません!」
「いや! 大丈夫です! ペンシルさんはどちらかというとお客様ですから、遠慮せず居間へ!」
「判りました……」
しょぼーんと肩を落としたペンシルさんが居間へと消えていったのを確認した後、俺は小さくため息を吐いた。
しかしよりにもよってダチョウの卵とは。家にはなかったはずだからペンシルさんが持ってきたのだろうけど、これはひどい。手榴弾が爆発したのよりはマシかもしれないが、普通の卵ならここまで被害が拡大することもなかっただろう。
しばらく電子レンジ不在の日々が続くか。
まあ型も古くなってたし買い換え時かなと考えていたからちょうどよかったのかもしれない。
ポジティブに考えねばやってられん。
被害があまり他に伝播しなかったのは幸いだろう。食器類は全部無事だった。
飛び散った電子レンジの破片を集めていると作っていたであろう料理が目に入った。皿に盛られているオムライスはちょうど遮蔽物の向こう側にあったせいかなんとか無事のようだった。
形も綺麗に作られているし、きちんと卵でご飯が包まれている。料理に関してそこそこのスキルを持ち合わせてそうなのだが、実際のところはどうなのだろう。
「……片付ける前に食べるか」
冷めたらせっかく作っていただいた料理が台無しだ。
「うまーい!」
実家にいた頃俺の舌を散々うならせてくれた師匠と肩を並べるくらいだと思う。
「そうですか? それはよかったです……」
ふさぎ込んだ様子のペンシルさんは乾いた笑みを浮かべて言った。
エキセルはと言うと、黙々とオムライスを口に運んでいた。
「本当、何しに来たんですかね、自分は……。か、かくなる上は体で払わせていただきます!」
「ぶふっ!」
俺は盛大に口からオムライスを吹き出した。
「いやいやいやいや! 何を言ってるんですか!? 気にしないで下さい。どうせ新しいのを買おうと思ってたんですから、ちょうどいいですよ」
「………………………………脱ぎます!」
なんで!?
シャツを脱ごうとしているペンシルさんを慌てて押しとどめた俺は、ひとまず落ち着いて下さいと彼女をなだめた。
「うー……」
涙目になったペンシルさんはもそもそとオムライスを咀嚼しはじめた。
「本当は脱いでほしかったくせに」
ぼそっと呟きが聞こえたので横を見るとジト目でエキセルが俺を見ていた。
「ソンナコトアルワケナイヨ」
「何でカタコトなの?」
視線が冷たかった。
「そ、それにしても! 何かエキセルのオムライス異様に小さくないか?」
「あ、それは……エキセルは小食なんですよ。あんまり食べられないんです」
「そうなんですか。まあ小っちゃいですもんね」
むっとした顔で俺を睨むエキセルの視線をかわしながら、考える。
こうしていると、普通の女の子となんら変わりないように見える。とてもじゃないが、会長や秋桜の言う殺人鬼という言葉は似合わない。見た目だけならいくらでも誤魔化せるというのは知っている。それでも、彼女からは偽りを感じない。だから大丈夫だと思った。
出会ってまだそれほど経っていないのにそう断じてしまう自分は楽観的なんだろう。でも今はそれを悪いとは思わない。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「お粗末様です」
「皿はここに置いといてください。俺が片付けておきますんで」
「あ……わ、判りました」
一瞬逡巡しているようだったが、先程のことがよほど効いているのか大人しく従ってくれた。
立ち上がってふと気になったのはエキセルだ。食べるのが異様に遅い。個性と言ってしまえばそれだけかもしれないが、量は俺たちのものの半分以下だというのにまだ半分も残っている。じっと観察してみると、まるで食べるのが困難なようだ。とはいえ、嫌な顔一つない。杞憂だと思うが……。
後ろ髪を引かれつつ、台所に向かってちゃっちゃと片付けをはじめた。
「終わった……」
壁にめり込んだ電子レンジの一部も除去し、飛び散った卵も全て清掃した。皿洗いも終わった(まだ食べ終わっていないエキセルの分をのぞいて)し、一段落ついたところだ。
「本当に申し訳ないです……それで、こんなときに言い出すのはどうかと思うのですが……もしご迷惑でなければしばらく泊めてもらうことは可能でしょうか?」
「あー……そうですね、ペンシルさんは綺麗ですしお料理も上手ですから、俺としては歓迎です。ちなみにどれくらい?」
「その……一ヶ月くらいお願いしたいんです。もちろん、家事やら何やらは自分が全部引き受けます。ですから――」
意識してか、意識せずにか。
ペンシルさんの視線がちらちらとエキセルの方に向く。
心配しているのだろう。エキセルにとってもペンシルさんがいた方が何かと気が楽なんじゃないだろうか。俺としても家事を引き受けてくれるというし、綺麗だし礼儀正しいしで居てくれて困るということはドジをされる以外にない。
諸手を挙げて賛成したいところだ。
「判りました。よろしくお願いします」
「あ、ありがとうございます!」
乳が、乳が飛び込んで来おる!
そう錯覚してしまうほどにペンシルさんの胸部が俺の顔にダイレクトにぶつかった。
抱きつかれたまま胸部を押しつけられるというのは、大変素晴らしいものですね。俺はこの日のできごとを、永久に忘れることができないだろう。
まったく……おっぱいというう奴はふふっ、いや冷静になるんだ俺! まったく……けしかりませんな。い、いけない思考が暴走している……落ち着け俺っ!
よほど嬉しかったのかしばらくして俺を離してくれたペンシルさんは目尻に涙をためていた。
俺はあまりに幸せすぎる時間に我を忘れていたが、エキセルがいたのを失念していた。
慌ててエキセルの方を見やると、静かに立ち上がった彼女はふらふらと居間を出て行った。絶対に凄絶な目で責められると思っていたのだが、あてが外れた。トイレにでも行ったのかな?
そういえば。
「着替えとか、大丈夫ですか?」
「お恥ずかしいことですが、元よりそのつもりで赴いていましたので……」
「そうでしたか。じゃ、俺はエキセルの皿を洗ってきますんで」
「あ、待ってください。もう少しお話ししませんか? ほら、可愛くないですか猫ですよ」
引き留められた俺は再びペンシルさんの隣に座る。
テレビのボリュームを大きく上げたペンシルさんを見て、俺は首を傾げた。
「すみません、猫ちゃんの声を大音量で聞きたくてっ」
取り繕うような笑顔のペンシルさんを不審に思ったが、たぶん言葉の通りなんだろうと納得してしばらくテレビを見ていた。
すると、いつ戻ったのか、頬を微かにつり上げたエキセルがテレビに夢中になっていた。
ペンシルさんと二人して釘付けになっている。
それを微笑ましく思いながら、そっと立ち上がった俺はエキセルの皿を洗浄して片付けた。
こういうのもいいなと思う。久しく忘れていた団らんがここにはあった。彼女たちは家族では決してないけれど、赤の他人と呼ぶには相応しくない程度に親しくなったのではないかと思う。




