182 相棒(1)
ヒワは、襖の前に立っている。スノハラ家で唯一の、ヒダカ様式の部屋の前。
普段は特に決まった用途のない部屋だが、今は療養のための部屋として使われている。自分が不在の間に家族総出で整えたのだと知ったとき、ヒワは乾いた笑いを漏らした。暗い状況を悟られないよう頑張ったつもりだったが、多少なりとも見透かされていたらしい。
「エラ、入っていい?」
部屋の住人に向かって、声をかける。返事は期待していなかったのだが、今日はすぐ「おう」とくぐもった声が返ってきた。意外に思いながら、ヒワは襖を開ける。そして、さらに目を見開いた。
エルメルアリアが、布団の上に座って、若葉色の衣を羽織っていたのだ。ここ数日、寝ている姿か、だるそうに上半身を起こしている姿しか見ていなかったので、ひどく新鮮に映る。
「……体調、どう?」
「だいぶ体が軽くなった」
慎重に尋ねたヒワに、エルメルアリアはあっさり返す。釦を留める姿を見て、ヒワはようやっと顔をほころばせた。
「よかった。……でも、精霊人のみんなのお許しが出るまで、激しい運動は禁止だからね」
「わかってるよ」
エルメルアリアは唇を尖らせる。契約者から少し目を逸らして、流れ落ちる髪を持ち上げた。
「む……さすがに邪魔だな、これ。ヒワ、なんか適当な紐ないか?」
彼の方から尋ねられて、ヒワはどきりとした。一瞬固まってしまったが、なんとか話を切り出す。
「えっとー……そのこと、なんだけど……」
さりげなく隠していた左手を前に出し、広げる。怪訝そうに眉を寄せたエルメルアリアが、「なんだよ、もったいぶって」と手のひらをのぞきこむ。そこにあるものを、まじまじと見つめた。
「適当な紐、ではないな」
「うん。使ってくれると嬉しい、です」
ヒワがここまで握りしめてきたのは、緑色の太い紐である。髪紐として不足のないよう、十分な長さを取り、両端も仕上げたつもりだ。――が、どうしても不安はぬぐえない。
「これ、ヒワが作ったのか?」
「作ったっていうか……紐は買ったやつ。切って端を処理しただけ……」
縮こまっているヒワをよそに、エルメルアリアは、ふうん、と言いながら髪紐を手に取った。矯めつ眇めつながめた後に、眉を上げる。
「模様入ってる?……精霊指揮士の杖とかに刻むやつじゃねえか?」
再び、ヒワの心臓が嫌な音を立てた。
「カティに教えてもらって、縫いました」
「ヒワが?」
「わたしが……」
エルメルアリアの救出に向かう前、髪紐を探すために足を運んだ店で、カトリーヌからその『模様』を刺繍することを提案された。ヒワは半泣きで「無理です!」と言ったのだが、女子二人に押し切られて模様入りの髪紐を作ることになってしまった。基本の刺繍すらまともにできないのに、などと泣き言を言いながら、二人に励まされながら、なんとか作戦決行までに完成させたのである。
「あ、あんまりじっくり見ないでやってください。ガルネンコルドさんの仕事みたいにきれいじゃないから。ほんとに」
ヒワは、片手で額を押さえながら訴える。しかしエルメルアリアは、大して気にしていないようだった。
「ヒワが作ったのか。そっか」
歌うように呟いてから、契約者の名を呼ぶ。恐る恐る顔を上げた彼女に向かって、髪紐を差し出した。
「――結んで」
「へ?」
ヒワが面食らっている間に、髪紐が押し付けられる。後ろを向いて、急かすように振り返るエルメルアリアを見て、さらにうろたえた。
「わ、わたしがやるの? いいの? こういうの、下手なんだけど」
「いい。オレだって、いっつも適当にしてる」
「でも――」
「今日は、ヒワがいい」
エルメルアリアは、つんと顎を反らして、繰り返す。
まるで子供だ。ヒワは困り果ててしまったが、その時間は案外短かった。盛大にため息をつきつつ、彼のすぐ後ろに座る。
「しょうがないなあ」
わざとらしく呟いて、やわらかな髪に触れた。
「改めて見ると、長いねえ」
「精霊共が泣くから、あんまり短くできないんだよ」
「そんな逸話が。……ってか、髪さらさら。どんな手入れしてるの?」
「手入れ? 気が向いたら〈枝垂れの森〉の泉で洗ってるけど」
「……シルヴィーやカティが聞いたら卒倒しそう」
「なんでだよ」
軽やかなやり取りに懐かしさを覚えながらも、髪に指を通す。慎重にまとめていく。
しばしの静寂の後、エルメルアリアが口を開いた。
「なあ」
「ん? 何?」
「オレが、ずっと演技してた、って言ったら、どう思う?」
ヒワは思わず、手を止めた。相棒の頭を見つめる。表情はうかがえない。それでも、何の話をしているのかは、見当がついた。クロードシャリスと別れる前の彼を、その言葉を、思い出す。
髪を梳きながら、息を吸った。
「……びっくりする」
「……だよなあ」
正直に答えると、エルメルアリアは苦笑する。それから、またしばらく、無言の時が流れた。ヒワは、彼の髪を梳きながら、考える。努めて穏やかに、切り出した。
「例えばの話だけどさ」
「うん」
「その『演技』って、今も続けてるのかな。今も、必死で自分に嘘ついて、無理して、振る舞ってるのかな」
尋ねると、胸がつきりと痛む。髪に触れる指が、急に重く、鈍くなった。
エルメルアリアの呼吸も、少し速くなる。彼もまた、『いつも通り』を保とうとしているように、ヒワには見えた。
「わからない。少なくとも今は、今の振る舞いが、一番楽だと思うんだけど」
声音から、感情は読み取れない。だが、きっと困った顔をしているのだろうと、ヒワは思った。口をつぐんで考えていると、ふいに心がはじまりの時に飛ぶ。
あの日の夕焼けは、どんな色だっただろうか。そんなことを考えながら、ヒワは尋ねた。
「じゃあさ。あの日――商店街で、わたしを助けてくれたのは、無理してやったことだった?」
「んなわけねえだろ」
エルメルアリアが即答する。ヒワは、安堵している自分を一旦横に置いて、問いを重ねた。
「おにぎりやラジオに目をきらきらさせてたのは、演技だった?」
「きらきら……? 何も考えてなかった」
「ひとのこと、貧乏くじだの素人だの、失礼な呼び方したのは?」
「あれは割と本気で思ってた――いででで」
ヒワが軽く髪の一部を引っ張ってやると、エルメルアリアは悲鳴を上げる。「根に持ってたのかよ」とふてくされたように言われたが、黙殺した。長い髪を束ねながら、思わず笑う。
腹が立ったのは一瞬で、今はただただおかしかった。
「なあんだ。全然『演技』じゃないじゃん」
「例えばの話」などという前提は、とっくにどこかへ行っていた。
「きっと、どっちのエラも本物なんだよ。自分でも言ったじゃん、『根っこは変わらなかった』って」
ヒワがそう言うと、エルメルアリアはほんの少し、頭を揺らした。しばらく黙った後、震える声で「そっか」とこぼす。
ヒワが髪紐を手に取ると同時、彼は笑い出した。
「びっくりだよ。何十年も考え続けてたことが、急に、全部吹っ飛んだ」
「そうなの? よくわかんないけど、納得していただけた?」
「おう。――ありがとう」
感謝の言葉は、澄んでいた。ヒワは「いいえー」などと言いながら、どぎまぎと紐を巻く。
「ついでに訊くけど、その演技って、いつ頃始めたものなの?」
「多分、五十年以上前……六十年いかないくらいだな。〈幽闇隧道〉の一件があってから、そんなに経ってなかったから」
「うわ、時代によったら人間の一生分じゃん。そんだけ貫けば、嘘も本当になるよ」
ヒワが本音をこぼすと、エルメルアリアは声を立てて笑った。
「なるほど、人間らしい考え方だ。……いや、ヒワらしいのかな?」
「それ、褒められてるのかなあ」
ヒワは唇を尖らせつつも、紐を結ぶ。かわいい結び方を目指したのだが、かなり歪んでしまった。やたらに他人の髪をいじくるのも心苦しい。悔しさをのみこんで、「できたよ」と告げた。
エルメルアリアが舞い上がる。うわっ、と声を上げたヒワの前で、踊るように飛んでみせた。ひとまとめになったプラチナブロンドの長髪が、滑らかに弧を描く。
「うん。この感覚、久しぶりだな」
「ごめん、やっぱりきれいにできなかった」
「そんなことないだろ。鏡見にいこう、鏡」
「ええ? ちょっと待ってよ」
宙を舞う精霊人は、いつになくご機嫌である。ヒワは相棒を窘めつつも、頬が緩むのを抑えられなかった。
そのとき、襖の向こうから声がする。
『エラくん、ヒワち、いるー?』
「いるよ。どうしたの、コノメ」
『ロレンスくんとシルヴィーさんが来たよ。あとあの……きれいな髪のお姉さんも一緒』
姉の言葉を聞いて、ヒワは目を丸くする。エルメルアリアと顔を見合わせ、小さく笑った。
「ちょうどいいや。挨拶ついでに自慢しにいくか」
「自慢になるかどうかはともかく……シルヴィーには髪紐選び、手伝ってもらったからね」
「なら、礼を言わなきゃな」
エルメルアリアが宙返りする。その後、ふとヒワを見つめて、やわらかく目を細めた。
「――ヒワにも。髪紐、ありがとな」
ヒワはしばし固まったが、なんとか「どういたしまして……?」と絞り出す。
身心の疼きに気づかなかったふりをして、いそいそと襖を開けた。




