176 雪辱戦の始まり
膨大な魔力が弾けた。日常生活ではまず感じることのない、全身を熱し、冷やし、あらゆる生き物を圧倒する力だ。
天が歌う。精霊たちが喝采する。人間たるロレンスはそれを、耳目ではなく、皮膚と奥深くの感覚で感じ取った。
身震いしつつも安堵する。現実感をなくしていた彼を引き戻したのは、硬質な何かが砕ける音だった。そちらを見てみれば、フラムリーヴェの大剣が、クロードシャリスの白銀の剣を破壊したところであった。
クロードシャリスは露ほども動じず、彼女から距離を取る。方々から襲い来る攻撃を、淡々と捌いた。その上、普段通り軽やかに笑う。
「まさか、年下の女の子に一本取られるとは思わなかったな」
「年下どころではないでしょう。人間感覚でいえば、先祖と末裔ほどの開きがありますよ」
「確かに。でもそれは、あなたやエラにも言えることでしょう?」
「……否定はしません」
クロードシャリスとフラムリーヴェのやり取りは、一見すると和やかだ。しかし、二人の間には、互いを切り刻まんばかりに鋭い空気が漂っている。
そんな中、クロードシャリスは背後で投げ飛ばされた魔物を軽々とかわし、静かに続けた。
「まあ、本当にすごいのは、エラですよね。あんな詠唱を素人に仕込むなんて、そうそうできることじゃありませんよ」
声色は、やわらかい。ほほ笑む両目は穏やかだ。
フラムリーヴェが、わかりやすく眉を寄せる。
「……クロードシャリス。なぜ、このような真似をしたのですか。エルメルアリアとは、親友だったのでしょう」
尋ねつつ、彼女は背後を一瞥した。風で編まれた防壁の向こうに、ヒワとエルメルアリアがいる。話をしているが、その声は彼らのもとには届かない。
クロードシャリスは、ひょいと肩をすくめた。
「ヒワさんにも、似たようなことを言われました」
フラムリーヴェが顔を歪める。
「はぐらかさないでください。あれが――あれが、親友のやることですか」
声が高まった。ロレンスの耳にも、はっきり届くほどに。
石造りの壇と、それを囲う半球。その中の様子は、ロレンスたちの目にも入っていた。先に突入していたカトリーヌやノクスも、もちろん見ているだろう。
何をどうしたらあのような有様になるのか、あと少し制限解除が遅れていたらどうなっていたのか。ロレンスですら、嫌な想像に震えそうになるのだ。もとよりエルメルアリアと親交があった戦乙女の胸中は、察するに余りある。
静かな問いににじんだ怒りを、精霊人の青年は冷然として受け止める。相貌から、表情が剥がれ落ちた。
「いずれ、わかるさ。あなたにも」
言葉の殻も、破れる。
戦乙女のまわりの炎が、赤い舌をさらに伸ばした。
「どうでしょう。あなたと同じ境地に辿り着ける自信はありません」
「心配いらない。精霊人なら、嫌でも実感する時が来るものさ。僕のように」
飄々と言って、クロードシャリスは指を鳴らす。光り輝く泡が、外野から放たれた指揮術をのみこんだ。
「お二人は、この任務で幾分か距離を縮めたようだけど。友達予備軍のままの方が、幸せかもしれないよ」
語りの陰で、人差し指が宙をなぞる。
フラムリーヴェが踏み込む。紅い刃が、クロードシャリスの衣の端をかすめた。クロードシャリスは、氷の盾を生み出す。すかさず、フラムリーヴェの炎がそれを溶かした。大剣が青年の鼻先を捉える。
「それを決めるのは、私と彼です。あなたに云々される筋合いはない」
ぞっとするほど低い声でささやいた彼女は――剣を引いた。
「指図であれば受け入れませんが、助言であれば……言葉だけはありがたく頂戴します」
「そう? それはよかった」
刺々しい言葉にも、クロードシャリスは目を細める。じりじりと戦乙女から距離を取り、壇の方に視線を滑らせた。
※
少しの間、ヒワはエルメルアリアを抱きしめていた。周囲に吹き荒れる魔力が冷たくなったことに気づき、ふと顔を上げる。
「さてと。そろそろ、こんな暗い場所からはおさらばしたいね」
ヒワがあえて軽く言うと、エルメルアリアが体を起こした。
「同感だ。……けど、簡単には帰らせてくれないだろうな」
彼のささやきにかぶさるようにして、盛大な水音が響く。足首にほんのわずか、冷たいものが触れた。それに誘われるように、ヒワはつい振り返る。
洞窟の大部屋が、水浸しになっていた。無事なのは、風が渦巻いている壇周辺だけだ。空中から水を見下ろしていたクロードシャリスが、顔をしかめて振り返る。
「ここまでやったのに、なんであなたは平然としてるかなあ」
「足もとが少し濡れたくらい、どうということはない。体が大きいと、こういうときに便利だな。自分で言うのもなんだが!」
仁王立ちしているゼンドラングが、高らかに笑う。ノクスとカトリーヌが彼に担がれていた。
ヒワはつかの間胸をなでおろしたが、すぐに重大なことを思い出して青ざめた。
「ロレンスとフラムリーヴェさんは!?」
慌てて視線を巡らせると、浅い水面にきらきら光る立方体が浮いているのを見つける。結界だ。その中から、探し人たちが手を振っていた。
「ご心配をおかけしました。無傷です」
「ぎ、ぎりぎり間に合った……危なかった……」
ロレンスが、胸に手を当ててうつむいている。ヒワは苦笑しつつ、今度こそ全身から力を抜いた。
それを見ていたクロードシャリスが、大仰にため息をつく。
「エラが完全復活する前に、仕留めてしまおうと思ったんだけどな。最低、フラムリーヴェだけでも」
「――そいつは残念だったな」
透き通った声が響く。ヒワの頭上あたりまで浮き上がったエルメルアリアが、楽団の指揮者さながらに腕を振った。すると、水がシャボン玉のように上へ昇って消えてゆく。だんだんと水位が下がってきた。
元の術者であるクロードシャリスは、しかし眉ひとつ動かさない。水が完全に引いた瞬間に、身をひねった。男性の拳ほどもある石が、彼めがけて飛ぶ。回避と同時、ゼンドラングが踏み込んだ。
低い音を立てて、空気がうなる。褐色の拳が、青年の頬をかすめた。遠慮なく力を込めたはずの一撃を外した精霊人は、その拳で楽しげに地面を殴る。クロードシャリスの足もとから、木の幹のように岩が伸びて、彼の右足に絡みついた。
クロードシャリスは舌打ちして、水の刃を作り出す。一方のゼンドラングは、いたずら小僧のように笑った。
「これでわしのぶん、ということにしてやろう! ステアの仇は、ノクスが取ってくれたからな!」
「勝手に殺すなよ。弟分が泣くぞ」
ノクスが、彼のすぐ隣で呆れたように呟く。褐色の頬をぺちぺちと叩いた。
「つーか、あんだけ怒ってたわりに、ぬるくねえか?」
「手を緩めたわけではないぞ。あやつを真正面から殴ってよいのは、やはりふたりだけだろう」
クロードシャリスをひとにらみしたゼンドラングは、視線をそのままヒワたちの方に流す。肩をこわばらせたヒワをよそに、お使いでも頼むかのような調子で手を振った。
「というわけで、後は任せたぞ、エルメルアリア!」
「雑だな! ま、いいけど」
名を呼ばれた精霊人が腕を組む。お使いでも頼むかのような調子で、言葉を投げかけた。
「じゃあ、ゼンたちは、まわりでうろちょろしてる魔物どもを抑えといてくれよ。あと――そのへんで覗き見してる奴も」
赤紫色の瞳が、闇凝る通路をにらむ。視線の意味を察したのか、ゼンドラングの笑みも、いささか猛々しくなった。
「任された!」
「結局、また魔物相手か」
「そう言わずに。一緒にやりましょ!」
〈巨巌の闘士〉の肩から下りた二人が、騒ぎながら通路の方へ駆けてゆく。結界を消したロレンスとフラムリーヴェも、敵を牽制しながらそれに続いた。去り際、フラムリーヴェが振り返る。
「エルメルアリア!――ヒワ様も」
呼びかけてから、少しためらいを見せた。けれども、剣を敵に向けたまま、視線をエルメルアリアの方へやる。
「ご武運を」
ふたりは揃って目をみはった。驚きが過ぎ去ると、ヒワは力強くうなずく。エルメルアリアは、おう、と軽く返してから、目を細めた。
「ありがとな。来てくれて」
短い言葉は、そよ風のように流れる。
フラムリーヴェはほんのわずか、ほほ笑んだ。
「当然です」
彼女とロレンスもまた、通路の方へ駆けてゆく。
そうして、この場に残ったのは、三人だけ。
「最後の挨拶は、済んだ?」
クロードシャリスが、何事もなかったかのようにほほ笑む。問いを向けられたエルメルアリアは、大げさに胸を張った。
「まあな。――あんまり侮らない方がいいぜ」
返ったのは、ほんのかすかな笑い声。
部屋の壁に、蒼い光が灯る。白い手が静かに挙がった。
瞬間、ヒワたちのまわりに水が集まる。
「『昇れ』!」
エルメルアリアが叫ぶと、水は音もたてずに弾けて、空気に溶けた。ヒワも、口を開く。
「『閃光、弾けろ』!」
まばゆい光が、クロードシャリスを囲んだ。しかし、それが消えても本人は平然としている。お返しとばかりに光弾を放った。
ヒワはとっさに身をかがめる。
「『フラーネ・ポド』!」
詠唱してから、炎はまずかったか、という焦りがこみ上げる。しかしそこで、エルメルアリアがにやりと笑った。
「精霊共、お楽しみの時間だ!」
彼が叫ぶと、小ぶりだった炎の弾丸が急速に膨らんだ。光と炎が空中でぶつかって、凄まじい爆発を起こす。エルメルアリアが当たり前のように呼んだ風のおかげで、ふたりの周囲だけがその影響を免れた。
「ちょ、これ、洞窟崩れない!?」
「大丈夫だろ。制限解除済みのゼンもいるし」
「そうだけど、そういう問題じゃないと思う!」
叫びながら、ヒワはじりじりと移動する。ふと、こんなふうにエルメルアリアと言い合いをするのはいつぶりだろうと考えて、頬が緩んだ。
煙の向こうで、青い光が瞬いた。それを見て、ヒワは気を引き締める。やわらかな火を胸の奥深くにしまい込み、杖を構えた。
「『フィエルタ・アーハ』!」
結界を張る。刹那、水がぶつかった。結界にひびが入るなり、ヒワは背を向けて駆け出した。壇の陰に滑り込んだとき、エルメルアリアが風を起こして水を払う。
ありがたい、と胸中で呟いて、ヒワは杖を構えた。
「『天を地を、汝がまにまに揺らしたまえ』」
口早に唱えると、大部屋の空気がぐうっとうねった。先ほどの風のおかげで、ヒワの想定よりもうねりが大きい。それに翻弄されたクロードシャリスの体が、大きく傾いた。
エルメルアリアが指を鳴らす。浮き上がった石の欠片がクロードシャリスに殺到した。すぐ指揮術によって砕かれたが、エルメルアリアは悔しがるどころか、満足げだ。芝居がかった仕草でヒワを見下ろす。
「ちょっと見ない間に、ずいぶん動きがよくなったな」
ヒワは首をかしげたが、自分のことを言われているのだと気づくと、髪をいじくった。
「そ、そうかな? ノクスさんに鍛えてもらったおかげかも」
エルメルアリアが、目をみはる。
「ノクスぅ? 何がどうして、そんな展開になったんだよ」
「話せば長いことながら……」
気の抜けたやり取りをしている間にも、ふたりの頭上には氷の矢が出現していた。
「なら、全部終わってから聴かせてくれ」
言うなり、エルメルアリアは手を叩く。矢の半数が砕け散ったが、残りの半数はそのまま降ってきた。
エルメルアリアが空中に手をかざす。光で編まれた花形の結界が、氷の矢を受け止めた。その下で、ヒワも詠唱する。
「『光華の砦、ここに建て』!」
それを聞いて、エルメルアリアが手首を返した。
「よっしゃ、派手に行くぞ」
花形の結界がほどけて、虹色の光線と化す。それはまっすぐ、クロードシャリスの方へ向かった。当のクロードシャリスも、冷静に手を挙げる。
指揮術がぶつかり合う。弾けた魔力が、洞窟を揺るがした。




