174 水の乱舞
クロードシャリスの呼吸が鋭くなる。それが、合図だった。
ヒワとルートヴィヒは、分かれて跳ぶ。
すぐそばで、水の刃が地面を穿った音を聞き、少女の喉がひゅっと鳴った。とはいえ、ひるんでばかりもいられない。ルートヴィヒが駆け出した。ヒワもすぐさま杖を構え直す。
「『ネスフィ』!」
若草色の貴石がきらめく。あたりに霧が立ち込める。その向こうで、クロードシャリスが嘲った。
「学ばない人たちだなあ」
しかし、ルートヴィヒが「いや」と呟く。刹那、彼の姿が霧中に消えた。
「いい手だ。『フリヤール』――」
霧が晴れる。ルートヴィヒが、氷刃をまとった剣を、クロードシャリスめがけて振りかざした。
「――『ザクル・ザクル』!」
精霊人の鼻先を剣身がかすめた瞬間、まとわりついていた氷が弾ける。それは、後退していたクロードシャリスの身に降りかかった。彼は、眉をひそめて手を振る。ただそれだけで、氷の欠片が一斉に吹き飛んだ。
しかしルートヴィヒもひるまない。そのまま踏み込んで、精霊人に食らいついた。
短い攻防の間に、ヒワは思考を走らせる。
相手は空を飛んでいる。ノクスと戦ったときのように、足もとを悪くする作戦は使えない。ならば、どうするか。
ヒワは、杖を高く掲げた。
「『ドード・ルフ』!」
――地面ではなく、空を乱す。
低い音が駆け抜ける。風が来ると同時、ヒワは素早く身を伏せた。
「『精霊の息吹よ、爆ぜろ』!」
鋭く、か細く、詠唱する。強風が吹き荒れる中、クロードシャリスのまわりで数度、小規模の爆発が起きた。顔を腕でかばってやり過ごしたクロードシャリスが、手を振る。
「『フィエルタ・アーハ』!」
ヒワとルートヴィヒの声が、重なった。
二重の結界が二人を覆う。そこに、霧雨が降り注いだ。天外界でクロードシャリスが降らせた雨と同じ、結界を、魔力を、少しずつ溶かすもの。
「ヒワ、止まるな」
敵の動きをうかがいながら、ルートヴィヒが叫ぶ。ヒワは返事をする代わりに杖を構えた。
「『石の剣よ、貫け』!」
尖った石が、風雨さながらにクロードシャリスのもとへ飛ぶ。だが彼は、わずかな手ぶりだけでそれをすべて砕いた。ヒワは一部始終を見届ける前に、息を吸う。
「『稲妻よ、駆けろ』!」
ヒワの前にいたルートヴィヒが、横に跳ぶ。チリ、と、空中から地面へ電流が走る。そして生まれた青い雷撃が、精霊人のもとへ飛び出した。クロードシャリスは舌打ちして、右手を前へ突き出す。前触れもなく顕現した氷の盾が、雷撃を受け止めた。
ほぼ同時、剣がうなった。
「初めて受け止めたな」
クロードシャリスの斜め後ろに回り込んでいたルートヴィヒが、ささやく。目をみはった精霊人は、とっさに身をひねった。斬撃が頬を裂く。銀と青の髪が数本、薄闇に舞った。
むろん、それでひるむクロードシャリスではない。指の動きひとつで、水の武器を生み出した。
ルートヴィヒの方へ水が動く。
ヒワがそちらへ杖を向けたとき、彼女の視界を、白い紗幕が横切った。
空中に、光の華が咲く。花のような、雪の結晶のような盾。それは、水の攻撃をすべて弾く。
「ルートヴィヒ、大丈夫!?」
切羽詰まった声がこだまする。飛びのいたルートヴィヒが、そちらに顔を向けた。
「問題ない。戻ったか」
「ええ! リリアレフィルネも一緒よ」
消えゆく盾の向こうで、小さな人魚が胸を張る。一方で、ひらりと飛んだ新たな精霊人は、剣呑に目を細めた。
「やあやあ、若き巡視官くん。ずいぶん好き勝手やってくれたねー」
「……間に合わなかったか」
クロードシャリスが肩をすくめる。リリアレフィルネは「人の子が、よくやってくれたよ」と胸を張った。
何気ない会話の上で、新たな水が刃と化す。白い光の球が生まれる。精霊人たちが動かずとも、術はぶつかりあって、爆発した。
「残念。ボクを消そうだなんて、七百年早いね。――出直せ」
吐き捨てたリリアレフィルネが、人差し指を相手に突き付ける。爪の先から光線が放たれた。相手に防がれても、お構いなし。第二撃が放たれる。さしものクロードシャリスも顔をしかめ、身をひねった。その瞬間、リリアレフィルネが彼の脇をすり抜ける。
「ほー。これが例の壁かー。ふむふむ、なるほど」
洞窟の部屋をふさぐ紫の壁をながめたリリアレフィルネは、一切の抵抗なくそちらに飛んだ。相方のもとへ戻ったマーリナ・ルテリアが、彼女の方を見る。
「なんとかできそうかしら」
「多分ね。ちょっとやってみるから……時間稼ぎはそっちでおねがーい」
リリアレフィルネは、壁に目を向けたまま、ひらりと手を振る。それをそのまま壁に泳ぐ文字に向け、黙り込んだ。
クロードシャリスが動く。ルートヴィヒも口を開いた。
「『フィエルタ・アーハ』」
リリアレフィルネの後ろに、輝きの砦がそそり立つ。降り注いだ水がすべて弾かれ、魔力に還った。
クロードシャリスは悔しがるでもなく、怒るでもなく、小首をかしげる。
「この程度の結界、破ろうと思えばすぐ破れるよ?」
「そうしたら、今度は『彼女』の相手をすることになるぞ」
「ふふっ。確かにねえ。障壁の分析しながらでも攻撃してきそうだよ、リリは」
戦場にそぐわぬ、さわやかな笑声が響く。そのさなか、彼の指がつっと空中をなぞったのを、ヒワは確かに見た。ルートヴィヒも、すぐ反応する。
「『ルイーク・アーハ』」
「『聖なる雨よ、降り注げ』!」
紫がかった黒色の半球が、クロードシャリスをゆっくりと覆った。そこに光が降り注ぐと、半球が崩れて爆発する。
ヒワは、しまったとばかりに頬を引きつらせた。
「お、お邪魔じゃないでしょうか……!」
「構うな。とにかく撃て」
「は、はい!――『フラーネ・ファラック』!」
慌てて詠唱を繋ぐ。ぼろきれのような黒い半球に向かって、炎が駆けた。すぐさま、水による反撃がある。
「『風の針よ、貫け』!」
立ち込める湯気の中から、術を撃つ。特訓のときと同じやり口だが、クロードシャリスにとっては初めてのはずだ。
湯気の向こうで何が起きたのか、ヒワには見えていなかった。数秒の間の後、水音が響く。身構えたときには、水で形作られた龍が襲いかかってきた。
詠唱が間に合わない。ヒワがとっさに伏せると同時、水の龍の動きがぴたりと止まった。眼前に、きらきら輝く青い鱗が見える。
「マールさん!」
マーリナ・ルテリアが、水の龍の方へ手をかざしていた。それだけで、龍の体はぐにゃぐにゃと揺らいでいる。彼女は、クロードシャリスをにらみつけた。
「天地内界で、あたくしとあなた、どちらが上手に水を操れるか……勝負なさいます?」
クロードシャリスは目を丸くしていた。しかし、すぐに苦笑する。
「〈泡の氏族〉が内界で円滑に水を操るには、歌の力が欠かせないだろう? まさか、この場で歌うおつもりで?」
「確かに、歌はあたくしたちに力を与えてくれるけれど……それがすべてではないわ。水妖族の本質は、水。当然、ご存知でしょう?」
誇らしげに笑うマーリナ・ルテリアの前で、水の龍が小刻みに震える。彼女の瞳が、ヒワを見た。
「ヒワさん、水をくださる?」
「へっ!? み、水――『ウィスカラ・フラーヴ』!」
ヒワは慌てて記憶の引き出しをひっくり返す。詠唱はやや雑だったが、幸い精霊は応えた。宙で水が球状にまとまり、ふよふよと浮く。マーリナ・ルテリアが空いている手を引くと、その球が彼女の方へ引き寄せられた。
そして――同化する。
人魚の姿が消えて、水だけが残った。ヒワは目をしばたたく。クロードシャリスは顔を歪める。すぐに水の球が龍の方へ飛んで、その体を破裂させた。
盛大な音を立てて、水しぶきが散る。少しして球の方も弾け飛び、あたりは水煙に包まれた。唖然としているヒワのもとへ、マーリナ・ルテリアが再び姿を現わす。
同時、ルートヴィヒがクロードシャリスに斬りかかった。静かな一撃が、白皙の頬をかすめる。しかし、彼もすぐに反撃した。水の弾丸がルートヴィヒを襲う。
それを指先ひとつで食い止めながら、マーリナ・ルテリアが叫んだ。
「リリアレフィルネ、壁はどう?」
「構造は大体わかった。消すのには、もう少し時間がかかるね」
すぐに答えが返る。声は平坦だが、いつもより早口だ。
ヒワは杖を握り直して、息を吸う。詠唱言語も内容もまぜこぜにして、とにかく術を撃った。もちろん、狙いは敵に定めて、だ。それでもルートヴィヒの方へしばしば『流れ弾』が飛んだが、彼は時に避け、時にそれを有効活用する。ヒワは小さくなりつつも、その立ち居振る舞いに舌を巻いた。
術が飛び交い、剣がうなる。終わりの見えない戦いに、やがて少しばかりの変化が訪れる。空間に満ちた魔力が、妙なうねり方をした。どこかへ吸い込まれるような、意志を持って動いているような。
そのすぐ後、ヒワは肩が軽くなったように感じた。はじめは、意味がわからなかったが、やがて、はっとする。奥から、風が流れてきた。
「ヒワさん! 壁、消した!」
透き通った声が、彼女の感覚の正しさを証明した。ヒワはその瞬間、何も考えずに駆け出す。しかし、背中に冷たい魔力を感じて急停止した。
凶悪な水鉄砲が足もとをえぐる。さらに魔力がふくれあがる。
ヒワは、息を殺して振り返った。クロードシャリスと目が合った。
奥へ行くには、彼から逃げきらなければならない。ヒワは、静かに杖を持ち上げた。
少女と精霊人の衝突は――起きなかった。
大きな影が飛んでくる。ヒワの顔面すれすれを飛んで、壁に激突した。轟音に思わず耳をふさいだヒワは、恐る恐るそれを見る。
「……魔物?」
ぐったりと倒れているのは、イタチのような生き物だ。芸術的な形の耳と魔力のおかげで、辛うじて魔物と判別できる。
どうして魔物がここにいるのか。ヒワが疑問を抱いたとき、背後から騒がしい足音が迫ってきた。
「うわあ、とんでもないところに出た……」
「何びびってんだよ」
足音が、また響く。荒々しく踏み出した人物が、木製の杖を構えた。黄色い貴石の輝きと、暗がりの中に浮かび上がった顔を見て、ヒワは「あっ」と声を漏らす。
「ルートヴィヒ。俺にもそいつ、殴らせろ」
彼――ノクスが言うと同時、杖の先で火花が散った。




