173 奪還と決別の大作戦(2)
少女の体は凄まじい勢いで飛ぶ。あらゆる魔力に覆われていなければ、肉体が引きちぎられていたであろう速度だ。本人は、悲鳴をのみこむどころか、息が止まりかけていた。
森を突っ切り、細い洞穴へと飛び込む。暗闇の中を、ひたすら何かに引っ張られて飛んだ。そして、突如目の前に現れた壁に頭をぶつける。情けない声と、悲しいほどに大きな衝突音が重なり、彼女の体は後ろへ跳ね飛んだ。
「いっ…………たああぁぁ……!」
地面に転がったヒワは、頭を押さえて悶絶する。目の前でちかちかと光が瞬き、涙までにじんできて、周囲の様子をうかがうどころではない。
それらが落ち着いてきた頃に、ヒワはようやく顔を上げた。未だ鈍く痛む額を押さえ、指揮術を阻んだ壁を見る。
「なにこれ……結界、じゃないよね?」
岩の通路を、半透明の紫色が塞いでいた。表面に文字のようなものが泳いでおり、禍々しさを醸し出している。
「破れるかな、これ。やってみようか」
小刻みに震えている手で杖を握る。だが、彼女が詠唱する前に、暗闇の中から奇妙な音が響いた。
ずる、ずるずる。べちゃり。何かが這いずりまわるような。
寒気を覚えて、ヒワは足もとを見る。黒く、小さな手が伸びていた。
「――っ、『閃光、弾けろ』!」
悲鳴の代わりに詠唱する。魔物を焼く光が、地を這う泥人形の姿を浮かび上がらせた。
仕留めたのは、一体。だが、周囲にはまだたくさんいる。泥人形だけではない魔物が、そこかしこでうごめいていた。
「……まあ、いるよね……」
頬が引きつり、全身が嫌な汗に濡れる。まさに四面楚歌。できる限りあがくしかない、とヒワは杖を持ち直す。
そのとき、冷たい風が洞窟内を吹き抜けた。宙を走った白光が、魔物たちを次々と切り裂く。特有の悲鳴が、生ぬるい闇を震わせた。
呆然としてしまったヒワの前に、人が立つ。分厚い外套が一瞬ひるがえり、持ち主の体へ吸い付いた。
ヒワは、その音と匂いで、人影の正体を見抜く。
「ルートヴィヒさん! た、助かりました……!」
「すまない。少し遅れた」
青年はちらと振り返ると、眉を下げる。ヒワは慌てて首を振った。
「いえ、こちらこそ、すみません。変な場所で止まっちゃいましたもんね」
「不可抗力だろう」
ルートヴィヒが、紫色の壁を一瞥する。
――『契約相手のもとに強制的に飛ばされる術』を使って、エルメルアリアを見つけ出す。ヒワの思いつきに大きな危険が伴うことは、自明だった。飛ばされた先に敵がいるかもしれない――フラムリーヴェが指摘した通りである。
そこで、少しでも安全性を高めるため、ルートヴィヒが洞窟内に先行することにした。気取られぬよう侵入し、敵の精霊人や魔物の気配の有無を確かめ、外の人々に知らせる。その上で、ヒワが飛ばされてきたときに敵と出くわした場合は、速やかに加勢する。
作戦は、ひとまず上手くいった。予想外だったのは、謎の壁の存在である。
ヒトの不快感を掻き立てる音が響く。ヒワとルートヴィヒの意識は、壁から敵へと移った。
氷のごとき視線が、魔物たちを射抜く。
「こうもうるさくては、おちおち相談もできない。蹴散らすぞ」
「は、はい!」
慌てて立ち上がったヒワは、魔物たちの魔力をざっと探る。それが二人を囲んでいるとわかると、慎重に口を開いた。
「『光華の霧よ、魔を包め』」
淡い虹色を帯びた霧が、ヒワたちと魔物たちを隔てる。敵影が一切見えなくなると同時、ルートヴィヒが踏み込んだ。
まずは剣を一閃、泥人形の首を飛ばす。崩れ落ちたそれを躊躇なく踏みつけ、鮮やかに剣を薙いだ。霧中に光の筋が見える。そのたびに、魔物たちの絶叫がこだまする。
ヒワが息をのんだとき、妙に静かな詠唱が響いた。
「『フラーネ・ピシュテ』」
赤い光が、ちらりと走る。薬品を思わせる異様な臭いが漂った。その後すぐに、水たまりを踏むような音がする。
ほどなくして、霧が晴れた。その先に立っているのは、ルートヴィヒ一人。彼の足もとでは数多の泥人形がもがき、骨や異形の獣が沈黙している。凄絶な光景に、ヒワは頬を引きつらせた。
「……わたし、いらなかったですかね……?」
「そうでもない」
ルートヴィヒが、剣を収めて振り返る。
「霧がなければ、もう少し手間取っていた」
「は、はは……そうでしょうか……」
「……それに、ヒワは体力を温存しておくべきだ」
彼は、踵を返す。立ち尽くしているヒワを尻目に、道をふさいでいる壁を見上げた。
「問題は、これだな。指揮術の産物だろうが……」
「普通の結界とは、全然違いますよね。文字みたいなのも見えますし」
ヒワも、ルートヴィヒの隣に歩み寄る。彼は小さくうなずいて、文字を目で追っていた。
背後で、泡が立つ。
「ルートヴィヒ。ヒワさん」
マーリナ・ルテリアが青年の肩に手を置いた。小さく体を震わせたヒワとは対照的に、ルートヴィヒは当然のように人魚を見やる。
「マール。外の方は……」
「大丈夫よ。第一陣の方々も案内したわ」
「そうか」
マーリナ・ルテリアが宙を泳ぐ。紫色の壁に触れた。
「これは……」
「何かわかるか?」
相方の問いかけに、彼女は小さく首を振る。
「あたくしの知る結界ではないわ。ただ……」
小さな指が、壁の表面に泳ぐ文字をなぞった。
「この文字は確か、天外界でたまに使われていたものよ。リリアレフィルネなら、読み解けるかもしれないわ」
「リリさんを待たなきゃいけない、ってことですか?」
ヒワはすがるように小さな人魚を見上げる。
ほんのかすかだが、先ほどから風を感じるのだ。落ち着いてなどいられない。
マーリナ・ルテリアは、ヒワを見たのち、口もとに指を添えた。
「あたくしが呼んできましょうか。契約者のヘルミさんは、不思議と辿りやすいし」
「頼めるか」
勢い込んだヒワよりも早く、ルートヴィヒが言う。マーリナ・ルテリアは鈴を転がすような笑声を立て、軽やかに宙返りした。
泡が立つ。それが彼女を覆う前に――
「――マール!」
ルートヴィヒが、抜剣した。
マーリナ・ルテリアの右側の空間を、突く。すると、ぱしゃん、と音がして水しぶきが立った。
「きゃっ――!」
「え、水? なんで……」
マーリナ・ルテリアの悲鳴とヒワの疑問が、重なった。水妖族の泡とは別に現れた水は、こねた粘土のように形を変え、ヒワが来た道へと吸い寄せられていく。
ルートヴィヒが、そちらに剣を向けた。
「惜しい。もう少しで攫えたのにな」
涼やかな声が物騒な言葉を奏でる。ルートヴィヒの瞳に、剣呑な光が走った。ヒワも、杖を構える。
銀と青の髪の、青年が立っていた。その周囲で踊っていた水は、彼が手を振ると大気へ還る。それを見届けた彼は、にっこりとほほ笑んだ。まるで、なんのわだかまりもないかのように。
「久しぶり――で、いいのかな?」
ルートヴィヒが眉を寄せる。マーリナ・ルテリアが身を硬くする。ヒワは、手の骨が浮き出るほど強く、杖を握った。
「クロさん」
名を呼ぶ声が敵意をはらんでいても、クロードシャリスは微笑を崩さない。
ヒワは、細く息を吐いてから、言葉を繋いだ。
「ひとつ、訊いていいですか」
「ん? 何かな」
「……エラは、どこ?」
声が震える。ヒワは、冷静になれ、と何度も自分に言い聞かせた。
「さあ、どこだろうね?」
クロードシャリスは軽薄な態度を装って、両手を挙げる。ヒワは思わず半歩踏み出した。
「言っとくけど、エラの身に何かあったら許さない」
「困ったなあ。許されないこと確定じゃないか」
遠回しな肯定に、ヒワは眉を上げる。全身がかっと熱くなったとき――冷たい手が、頬に触れた。マーリナ・ルテリアが寄り添っている。その隣で、ルートヴィヒが口を開いた。
「エルメルアリアに何をした?」
「僕は何もしてないよ。したのはミレイと――エラ自身だ」
青年の相貌に、暗い色が差す。「それはどういう――」とルートヴィヒが言いかけたところで、クロードシャリスがわざとらしく口角を上げた。
「そんなに気になるなら、会わせてあげようか」
水が現れる。弾丸のごとく、ヒワの方へ飛ぶ。
マーリナ・ルテリアが飛びあがって、空中に手をかざした。水の弾丸の動きが止まる。ルートヴィヒが躍り出て、それを一気に叩き落した。
クロードシャリスは欠片も動じず、指を鳴らす。飛び散った水が凍りつき、ルートヴィヒめがけて飛び出した。
「『フラーネ・ファラック』」
ルートヴィヒは、詠唱と同時に剣を振るう。刃の軌道に沿うように火の手が上がり、氷刃をのみこむ。
「『あからしま風、吹き散らせ』!」
ヒワの放った暴風が、水を一気に吹き飛ばした。立ち上がろうともがいていた泥人形が巻き添えを食う。
クロードシャリスは、冷ややかに人間たちを見つめた。
「ためらわないんだね、ルートヴィヒさん。少し意外だ」
「……確かに、クロードシャリスには恩がある」
ルートヴィヒは、相方を一瞥した。
「だが、それはヒワやエルメルアリアも同じだ」
「そうだね」
「それに――今のおまえは、精霊たちを苦しめている。看過できない」
ルートヴィヒの声が、一段低くなる。対してクロードシャリスは、やわらかく笑った。
「君のそういうところ、好きだよ」
指を鳴らす。氷が降る。
ルートヴィヒは、それを最小限の動きで避けた。ヒワやマーリナ・ルテリアを狙うものはすべて砕く。剣を引いたところで、細く息を吸った。
「『グラッカ・コード』」
めきめきと音を立て、地面の一部が盛り上がる。それは、クロードシャリスを拘束しようとしていた。しかし標的は、軽やかに地を蹴って飛び上がる。彼が手を振ると、山のようになった岩は崩れ、地面へと戻った。
「『ルーラル・ウィスカラ・ゼスタ』」
その間にも、ルートヴィヒが詠唱を繋ぐ。渦巻く水が、精霊人めがけて飛ぶ。しかし彼は、心底不思議そうにそれを見た。
「水で僕に勝てるとでも?」
術が、止まる。今度は手振りすらなかった。
しかし、ルートヴィヒは焦りもしない。
「マール」
呼ばれたマーリナ・ルテリアが飛び跳ねる。彼女の体は、あっという間に泡に包まれた。クロードシャリスがすぐさまそちらに手をかざしたが、一歩遅い。人魚の姿はかき消えた。
「逃げられたか」
クロードシャリスが短く息を吐く。いらだちは、すぐ微笑の下に隠れた。
「まあいいや。面倒な年長者を呼ばれる前に、二人を負かせばいいだけだ」
青い瞳が不気味にきらめく。彼が手首を返すと、掌握された水の刃が、ヒワたちの方を向く。二人は、真っ向からそれを見すえて、構えた。




