171 ふたり分の、いってきます
静寂の中、目を覚ます。カーテンの向こうから差し込む光も、鐘の音も、まだない。
この時間の起床にも、すっかり慣れた。
空白を噛みしめ、それでも素早くベッドから出る。髪を梳き、着替えて、髪留めをいつもの位置へ。動きの妨げにならぬよう、今日の荷物は財布と杖だけだ。それを持って、部屋を出る。
少しひび割れた音で、何やら音楽が流れていた。聞き慣れた報道番組のひとつ前の音楽番組だ。ぼおお、と天火が働いていて、香ばしい空気が漂う。
「あ、ヒワ、起きた」
「おはよう」
「よーす」
台所の母と、食卓でなぜかりんごの皮を剝いている父、そしてあくびをしている姉が、当然のように挨拶した。ヒワは、目をしばたたいて「おはよ」と絞り出す。
「みんな、寝ててよかったのに」
「何言ってんの。朝ごはん食べないで行く気?」
母が食器を取り出しながら、当然のように返す。ヒワは、どこかで買っていくつもりだったという言葉をのみこんで、頬をかいた。
コノメが、頬杖をついて目をこする。
「いやあ。普段とはまた違う、この空気。いいですなあ」
「明日からコノメもこの時間に起きるか?――はい、これ並べて」
父が、手際よく切ったりんごを、まな板ごとコノメの方へ滑らせる。それを受け止めたコノメは、四つ重なった小皿に手を伸ばした。
「はいはい。――寝れる日はぎりぎりまで寝たいなあ」
「あんたね。自分で全部ご飯用意するようになったら、そんなこと言ってらんないよ?」
「知ってるよ。だから今、言ってんじゃん」
学校の用事で早起きすることのあるコノメは、そのときだけは自分で適当に朝食を用意する。それを知っているヒワと母は、顔を見合わせて苦笑した。
近頃はやりの一曲に耳を傾けながら、食卓を囲む。音と珈琲の香りが満ちる中、母がヒワを見た。
「で。今日はユースまで行くんだよね?」
すごく突っ込みたそうな顔をしているが、約束通り、それしか言わない。ヒワは「そう」と答えた。コノメがパンをかじりながら顔を上げる。
「いつまでー?」
「わかんない。今日、全部片付くかもしれないし、何日かかかるかも」
「わーお。大変だねえ」
軽い調子で言う姉に、ヒワは曖昧な笑いを返す。その軽さが、今は何よりありがたかった。
朝食と、片付けと、準備。すべてを終えたヒワは、玄関扉の前に立つ。珍しく、そこに家族全員が集合していた。ヒワは家族の顔を見渡して、にっと笑う。
「それじゃ――エラを迎えに、いってきます」
「いってらっしゃい」
家族の返事は、いつも通りだ。
うなずいて、ヒワは一歩を踏み出した。
※
扉が閉まる。忙しない足音が遠ざかっていく。
次女の名残が消えると、トウマが腕まくりをした。
「ようし。部屋ひとつ空けるか」
「清潔にしとかないとね」
妻のレナも、腰に手を当てて胸を張る。両親の張りきりぶりを見たコノメが、悪戯っぽく笑った。
「もういっそ、お父さんがふたりの怪我とか診てあげたら?」
「だめだめ。人間の免許は持ってない」
「でも、エラくんは人間ではないよ?」
コノメの言葉に、トウマとレナが顔を見合わせた。
「……そういえば、精霊人ってどこに入るんだろうな」
「さあ。……下手したら、法律で規定されてないんじゃ……?」
乾いた沈黙が下りる。
そののち、コノメが父を見上げた。
「法の穴だ……」
「目を輝かすな。やらないからな。違法じゃなくても、ばれたら各方面からものすごく怒られる」
トウマは、危険な考えを隠そうともしない長女を制する。そして「ささ、使わないタオルかき集めてきて」とうながした。コノメはわざとらしく唇を尖らせながら、収納の方へ向かう。トウマたちも苦笑しあってから、それぞれの『仕事』のために動き出した。
※
ユース共和国への緊急入国の許可が下りたのは、エルメルアリアの居場所を特定した三日後のことだった。国同士のやり取りであることを考えれば、異例の速さである。精霊指揮士協会の協力もあって、現場周辺の詳しい地形を知ることもできた。ヒワたちはそこから作戦を詰め、準備を整え、今日に至る。
ヒワは、ジラソーレの歩行者用門前で仲間たちと合流した。ルートヴィヒ、マーリナ・ルテリア、ノクスとゼンドラングの姿はない。作戦と移動の都合上、少し早く出発したのだ。
「みんな元気ね! それじゃ、行きましょうか!」
カトリーヌ・フィオローネが音頭を取る。ロレンスが、彼女を心配そうに見た。
「カティは飛ぶの初めてだよね。……大丈夫?」
「大丈夫じゃないかも!」
「えっ」
「でも、一回体験してみたかったし。楽しみだわ」
カトリーヌはうきうきと傘を畳んで仕舞う。あまりのたくましさに、精霊人の契約者たちはひととき絶句してしまった。傍で見ていたシルヴィーが、ヒワの方へ歩み寄ってきた。
「気をつけてね、二人とも。土産話、待ってるから」
片目をつぶった友人に、ヒワとロレンスはうなずく。それから、フラムリーヴェの手を取った。
「……では、行きましょう」
「はい、上昇ー」
フラムリーヴェとリリアレフィルネは、いつも通りに告げる。そして、ようやく光が差し込んだ空へと飛び立った。
風情の欠片もない空の旅は、一時間ほどでひとまず終わった。ユース共和国東部、検問所の近くに降り立つ。一度検問所へ顔を出し、今回限りの許可証を見せた。そこからさらに少し飛ぶと、鬱蒼とした森が見えてくる。
「今から……こんなに疲れてて……大丈夫だろうか……」
森のそばに降り立った。ロレンスが青い顔でフラムリーヴェに寄りかかる。ヒワはそのそばで、黙って呼吸を整えていた。少し離れたところでは、カトリーヌが傘を杖に変えている。
「すっごく速かったわね! びっくりしちゃった!」
「ものの数分で立ち直ってるカティがすごいよ」
ヘルミがそばで苦笑する。ふたりを運んだリリアレフィルネは、口笛を吹いていた。
「――おう! やはり、ここにおったか」
陽気な声がこだまする。ゼンドラングが木々の陰から顔を出した。すぐ隣に、ノクスもいる。
ヘルミが彼らに向かって手を振った。
「や、ふたりとも。首尾はどう?」
「上々だ! 周辺の地形や魔物の分布は大体把握したぞ!」
「さすが」
拳を握るゼンドラングに、ヘルミが歯を見せて笑う。ノクスは腕組みしてそっぽを向いたが、口もとが照れ臭そうにもぞもぞ動いていた。
そんな彼を引っ張る形で、ゼンドラングがのっしのっしと一行の方へやってくる。フラムリーヴェが、彼を見上げた。
「状況は?」
「おおかた予想通りだ。この先の森一帯に、結界のようなものが張られておる」
「……ようなもの?」
フラムリーヴェが眉を寄せて繰り返す。ゼンドラングは「うむ」と腕組みした。
「根っこのつくりは結界と同じだ。だが、目には見えんし、外からの侵入を拒むわけでもない」
「それって……何のための結界なんですか?」
「わからん!」
ロレンスの問いに、ゼンドラングが笑う。すぐ後、その笑みがやや霞んだ。
「ただ、中に入ったら力が抜けた。ノクスは何も感じておらんようだったが」
「おう。精霊に悪さをするモンだろうって話してた」
そう聞いても、ヒワにはいまいちぴんとこない。だが、まわりの人々があからさまに顔をしかめているのを見て、自然と体がこわばった。
ヘルミにじゃれついていたリリアレフィルネが、軽く宙を蹴って上昇する。
「これがあいつらの魔力感知対策かー」
「……とりあえず、近くまで行ってみましょうか」
カトリーヌが、含みのある笑みを精霊人に向ける。白いドレスをなびかせる彼女は「そうだねー」と言って飛び出した。ヒワたちは、小走りでそれを追いかけた。
木々が身を寄せ合い、薄暗い道を作り出している。その道の出発点に立ったとき、一陣の風が一行の背をなでた。
「カトリーヌ」
北風のような呼びかけ。カトリーヌが、顔を輝かせて振り返る。
ルートヴィヒが立っていた。彼は人数分の視線を受け止めても動じず、口を開く。
「すべて設置した。場所は合っているだろうか」
尋ねられると、カトリーヌはやにわに傘を立てる。その先端で、草地を数度つついた。しばらく繰り返してから、ルートヴィヒに笑いかける。
「完璧ですわ。ありがとうございます」
ルートヴィヒは、小さく顎を動かした。そして、背を向ける。
「俺はマールのところに戻る。構わないか」
「ちなみに、マールさんは今どこに?」
「西に。このあたりの水脈や水路を探っている。もうそろそろ終わると言っていた」
「でしたら、ぜひ行かれてください。……頼りにしています」
優雅に一礼したカトリーヌに、ルートヴィヒは目礼する。そして、疾風のごとく去っていった。
ヒワは、楽しそうなカトリーヌの様子をうかがう。
「ねえ、カティ。ルートヴィヒさんに何をお願いしてたの?」
『突入のために必要な準備をルートヴィヒにお願いする』ということは、ヒワたちも知っていた。だが、その具体的な内容までは聞かされていなかったのだ。
「この森のまわりにね、五本ほど設置してもらったの」
「設置? 何を?」
「水晶の柱」
カトリーヌが唇に指を添える。精霊人たちとヘルミが、したり顔でうなずいた。ヒワはその意味がわからず、思わずロレンスの方を見る。彼もまた、首をかしげていた。
「『フィオローネ・レーナンダ』」
ささやくように、カトリーヌが詠唱する。桜色の傘が光に包まれ、花型の貴石をあしらった杖に変わった。それをくるりと回した彼女は、足もとを探るように踏み出した。
「ヒワ、ロレンス。魔力感知対策の本質って、なんだと思う?」
「え?」
素っ頓狂な声が、揃った。
ヒワはなけなしの知識をひっくり返す。しかし、これだと思える答えが出ない。うなる彼女の隣で、ロレンスが口もとに指をかけた。
「魔力をいかに隠すか、じゃないの?」
「うん。基本はそうね。でも、今の現役精霊指揮士や研究者の考え方は、少し違う」
カトリーヌが立ち止まる。軽やかに後輩たちを振り返って、杖を振った。
「魔力感知対策の本質は、だますこと。人も、魔物も、精霊も――ね」
花型の貴石が森を示す。
「この地の精霊は、今、だまされているの。この森に精霊人はいない、と思い込まされている」
「それどころか、森すら存在しないと認識してるかもね」
リリアレフィルネが、その場で宙返りする。飛んできた枯れ葉をつまんで、ぱっと指を離した。
「どうにか森に気づいて中へ入っても、変わった結界に力を削がれてしまって、今度は外の精霊に呼びかけられなくなっちゃう。上手いこと考えたもんだよ」
枯れ葉はひらひらと落ちていく。
それを見たフラムリーヴェが、眉をひそめた。
「そのような状況では、戦いどころではありませんね」
「どうすれば……」
「簡単なことよ」
考え込んだロレンスに、カトリーヌが笑いかける。
「だまされているなら、正しいことを教えてあげればいいの。――リリさん、お願いできる?」
「なあるほど。精霊を呼べばいいの?」
「ええ!」
「承ったー」
のんびりと答えて、リリアレフィルネが高度を上げる。ふたりのやり取りから何を察したのか、ヘルミも杖を構えた。
白い精霊人の姿は、あっという間に見えなくなる。五本すべての水晶が見渡せる位置まで飛んだのだろう。ヒワたちが口を半開きにして空を見上げていると、やがて、青のまんなかに白が灯った。さながら一番星だ。
「そーれ」
遥か上空にいるはずのリリアレフィルネの声が、反響して落ちてくる。
次の瞬間、天地の魔力が森の方へ流れてきた。いくつもの川が一本に合流するかのように。
肌を刺す不可視の力を感じながら、ヒワはいつかの話を思い出していた。
精霊人は、水晶や骨をそれだけで、精霊を呼び集める道具として使える。ほかならぬ、リリアレフィルネ自身が語ったことだ。
魔力が高まる。大気が、草木の一本一本が、淡い七色をまとう。
カトリーヌとヘルミが、ほぼ同時に杖を掲げた。
「せーのっ――」
「『ヤーナ・ヤーナ・スピルード』『アールム・ファーゼム・アールム・ファーゼム』!」
ふたりの詠唱が揃う。
白くまばゆい五条の光が、青空を貫いた。大気が震え、硝子片を踏むような音が響く。その瞬間、森に閉じ込められていた魔力があふれ出した。精霊たちが吐き出す純然たる息吹から、地下の闇に染まった力まで、区別なく。
「結界が――」
ロレンスが、呆然と呟く。そのとき、森の方から獣の咆哮が響いた。金属音に似た、独特の音が混ざっている。それを聞いたゼンドラングが、両方の拳を打ち合わせた。
「やはりいたな。番犬だ。――ノクス!」
「ヘルミ!」
ゼンドラングとリリアレフィルネが、それぞれの契約者に呼びかける。彼らはうなずいて、杖を契約相手に向けた。
「『イリュ・ドゥーテ・クランダル・ウカータ』」
「『クランダーテ・イリューオ・デア・ノクス
アリイネラ・イリューオ・デア・ゼンドラング』」
「『クランダーテ・イリューア・デア・ヘルミ・ライネ
アリイネラ・イリュール・デア・リリアレフィルネ』」
制限解除の詠唱が、重なる。ほどなくして、ふたりの精霊人の内側から魔力があふれ出した。それは、森の魔力を圧するように広がる。
カトリーヌが不敵に笑った。
「さあて、作戦開始よ。頑張りましょ!」
弾む言葉に、ヒワは力強くうなずいた。




