170 星に溺れる(2)
それからしばらくは、平穏な時が流れた。とはいえ、すべてが元通りになったわけではなかった。
エルメルアリアの精神に変化が起きたらしい。クロードシャリスも何度か相談は受けたが、深刻になりすぎたわけでもなかった。本人にとっては一大事だが、起きる精霊人には起きることだ。辛抱強く寄り添っていけばお互い慣れるだろう。そう思っていた。
その見込みが甘かったと突きつけられたのは、目に見える変化があったときだ。
エルメルアリアの振る舞いが、がらりと変わった。
それまでの静かなたたずまいが嘘のように、活発に動き回るようになった。言葉遣いも荒っぽい。クロードシャリスに対しては生来の素直さも見せてくれるが、〈塔〉の高官たちには喧嘩腰である。
クロードシャリスは最初、唖然とした。だが、しばらく見ていて、気づいた。
これは、何かを演じている。
そこで、久しぶりにエルメルアリアが〈群青の里〉へ遊びにきたときに、尋ねてみた。
「エラ、なんか色々変えたよね? 当世の人間風に言うと……いめちぇんかな?」
「んー……? ちょっと違う気もするけど。まあ、そうだな」
「どうしたの、急に」
「こうすれば、みんなに迷惑かけなくて済むかなって」
クロードシャリスは、固まった。その間にエルメルアリアは、目を泳がせながらも続ける。
「オレ、最近なんか変だからさ。みんなに距離を取ってもらおうと思ったんだ。エルメルアリアがおかしくなったって知ったら、嘆く人もいるだろうから」
クロードシャリスの中で、熱が動いた。表の彼はそれを無視して、親友に顔を近づける。
「……ふうん? その『みんな』って、僕も含まれてる?」
あえて口を尖らせてみせると、エルメルアリアは凍りついた。
「あ、えと、クロは……その……」
頬を、手を、わかりやすく震わせて。あちらへこちらへ、目を泳がせる。
「確かに、クロがだいじなら、クロにこそ近づかない方がいいですね……? でも、クロに離れられるのはいやで……でも……」
「素が出てるよ、エラ」
笑いながらつついてやると、エルメルアリアは文字通り飛び上がった。頭を抱えてうずくまる。その間にも、赤くなったり青くなったり忙しい。
クロードシャリスはつい、吹き出した。
「ごめん。意地悪だったね。そう思ってくれて、嬉しい」
「うう……クロ……」
「でもって、僕は嘆いたりしないし、そう簡単に離れるつもりもないよ。エラがどんなエラになろうとも、ね」
誰かに言い聞かせるように、ささやく。すると、エルメルアリアは顔を上げた。目を見開いて、それからふわりと笑った。
クロードシャリスは、一件落着した気でいた。少しずつ慣れていかないと、などとのん気に考えていた。
だが、いつからだろう。エルメルアリアに会うと、胸が不穏にざわつくようになった。会っていないときも、妙な引っかかりを感じていた。
一体これはなんなのか。巡視の旅の合間に、何度も考えを巡らせたが、自分自身を納得させることはできなかった。
あるとき、〈銀星の主〉に面会する機会があった。巡視の報告のためだ。極点の間でかの精霊人とまみえたとき、クロードシャリスの裡を狂おしいほどの熱が満たした。久しく感じていなかったそれは、心地よかった。
しかし、面会を終え、〈都〉で冷静になったとき、はっとした。
あの『熱』は、エルメルアリアの前で時折感じていたものだ。いや――〈主〉に対して抱いていたものを、エルメルアリアにも抱いていた。
それに気づいた瞬間、すべてがつながった。
クロードシャリスは、エルメルアリアの変化が怖かったのだ。親友が自分の意志で、あのような仮面をかぶるなど、あり得ない。そのような意志があるなどと、思いもしなかった。
〈幽闇隧道〉で逃げ出した二人を許せないのも、その事件の筋書きを変えればいいなどと〈塔〉の高官に提案したのも、一人の精霊人を思いやったからではない。『信仰』を揺るがされることを厭ったからだ。
何が親友だ。何が対等だ。何が、特別だ。
ほかの精霊人と、あの裏切り者たちと、何も変わらないではないか。
衝撃がひとたび過ぎ去ると、それは自分自身への失望と怒りに変わった。
それすら冷めると、冷ましきれなかった熱は、外へと向かう。
そもそも、エルメルアリアが変容せざるを得なかったのは、誰のせいか。〈銀星の塔〉、ひいてはこの世界に生きる精霊人たちのせいではないか。彼らが――自分が――もっときちんとエルメルアリアに向き合っていれば、あの事件も、今の変化もなかった。
彼は幸せなままで、自分も苦しまなかった。
そんなふうに思ってしまう自分こそが、何より許せなかった。
どこまで行っても、終わりはない。どれだけ考えても、答えは出ない。
クロードシャリスがひとり苦悩している間にも、世界は前へ進んでいった。親友は、いつの間にか〈真朱の里〉の戦士と交流を持つようになる。紫水晶の瞳は、時折、何かを憂うようにクロードシャリスを見ていた。
そのうち、ひとつの〈穴〉が世界の境目に開く。一月後、大小の〈穴〉が無数に開いた。
世界は大混乱に陥る。最初、クロードシャリスは、ただ巡視官として〈穴〉の対処に奔走した。
小さな雌獅子がやってきたのは、最初の〈穴〉が観測されてからしばらく経った頃だ。指揮術で遠方の何者かと繋がっているらしいそれは、躑躅色の瞳で、クロードシャリスを見つめた。
※
四方を岩に囲まれた通路に、蒼白い光が点々と灯る。自然のものでも、人の遺産でもなく、精霊人の指揮術によるものだ。明かりの揺らぎを感じながら歩いていたクロードシャリスは、向かいから暗い気配が近づいてくることに気づいて、足を止めた。案の定、通路の反対側から黒い女性がやってくる。
「やあ、ミレイ」
「やあ」
クロードシャリスが声をかけると、ミレティアレーデも同じように返した。愛想はないが、落ち着いた対応である。ツェレグヴルムとは大違いだ。彼の心も、少し落ち着く。
ミレティアレーデの方は、感情の読めない瞳をクロードシャリスに向けた。
「準備は、おおよそ完了した。明日にでも術を発動できるよ」
「……そう」
クロードシャリスは、平静を装った。だが、ミレティアレーデは探るように顔を突き出す。
「なんだ、不満か?」
「不満なら、そもそも賛成してないさ」
クロードシャリスはひらりと手を振る。それを下ろして――反対の袖を握った。
「不満はないけど、あんな仰々しくやる必要があるかな、とは思うね。あの部屋で済ませた方が、エラを移動させる必要もないし、楽じゃない?」
今しがた出てきた部屋の方を指さす。すると、ミレティアレーデはため息をついた。
「万が一精霊共が反発したら、全員揃って生き埋めになるだろ。わざわざ儀式の形をとるのだって、その反発を少しでも抑えるためだよ」
「そういうこと。僕はてっきり、趣味の悪い見世物にするのかと」
「ツェグと一緒にすんな」
ミレティアレーデが吐き捨てる。クロードシャリスは、笑った。
黒い衣が、蒼い光の下で翻る。ミレティアレーデは、肩越しに青年をにらんだ。
「……余計なことはするなよ」
「しないよ」
クロードシャリスはあっさり答える。ミレティアレーデが鼻を鳴らして歩き出した。その後に、ついてゆく。
「僕はしないけど……エラは、わからないね」
クロードシャリスがほほ笑むと、ミレティアレーデの足音が、一瞬乱れた。
「あの有様で、今さら何ができるというんだ」
「最後の最後まで、油断しない方がいい。精霊たちは彼の味方だ。そして彼は――多重世界の敵を、決して許さない」
クロードシャリスは、己の胸に手を当てて告げた。
ミレティアレーデは答えない。儀式を行う部屋に辿り着くまで、規則的な足音が響きつづけた。




