169 星を隠す(2)
以来、しばしの間、〈銀星の塔〉から振られる仕事を断ることが増えた。別に、好きで断っているわけではない。体が思うように動かないのだ。心が、世界におびえるのだ。
狂った自分を、同胞に見せるわけにはいかない。ひょっとしたら、何か悪影響を与えるかもしれない。そんなふうに考えて、人目を避けるようになった。
大樹の家にとどまっていれば、来客がある。なので、里の外周を人目を忍んでうろつくようになった。
そのさなか、里の外れの工房へ迷い込んでしまい、寡黙な職人の手を焼かせることとなる。その時間はエルメルアリアにとって、少なからず癒しとなったが、押し潰された心を立て直すほどではなかった。
ある日、エルメルアリアは、里の住宅群の間に身をひそめていた。つまるところ、奇妙にうねる木々の隙間だ。さまよって疲れたので、少し休むことにしたのである。
枝葉の陰から、ぼんやりと里の様子をながめていた。薬草の山を抱えた娘が医院の方へ走っていき、大柄な男たちが木々の上で、鋏片手にやかましく話し合う。エルメルアリアの姿が見えなくとも、皆、大して気にしていない。そのことに、ほっとした。
「おいっ! ましな奴を寄越せと言っとるだろうが!」
大音声が響いた。
木陰で膝を抱えるエルメルアリアの耳すら、痛くなるほどだ。エルメルアリアはうっそりと顔を上げ、声の方を見た。
里の中心付近。金髪の男が、顔を赤くして騒いでいた。矢筒を背負っているところを見るに、狩人だろう。
狩人は、食糧調達要員であると同時に、土地の調整役でもある。肉食獣や魔物が、ちょうどよい数を保てるようにする役目も負っているのだ。ゆえに、どこの里でもそれなりに尊敬される。
「最近、処理班の仕事が雑すぎるぞ! 〈枝垂れの森〉は繊細なんだよ! 泣き虫の役立たず共はいらん、ましなのを寄越せ!」
だが、がなり散らす狩人は、尊敬されているようには見えない。里の人々は距離を取り、おびえたように彼を見る。あるいは、眉をひそめて、頭を抱えている。かたわらの狩人たちは、彼の両腕にしがみつくようにしてなだめていたが、金髪の狩人の怒りは収まらない。
――彼は、〈翠緑の里〉の有名人だ。言ってしまえば『里一番の嫌われ者』である。仕事柄、エルメルアリアとの関わりはほぼないが、それでも顔と声を覚えるほどだ。
やがて、シェマデールが、しょうがないなあという風情でやってくる。
エルメルアリアはその様子を、まんじりとながめていた。最初はなんとも思っていなかった。だがそのうち、奇妙なひらめきがあった。
――彼のようになれば。皆が、距離を取ってくれるだろうか。
――皆の方から離れてくれれば、狂った自分を見せてしまう心配も、なくなるのではないか。
――そうなれば、皆も、自分も、傷つかない。
当時、この瞬間でさえ、常識はずれだと思った。後から思えば、なおのことだ。だが、すり減ったエルメルアリアには、とんでもない名案に見えていた。……見えて、しまったのである。
それ以降、エルメルアリアは件の狩人をつぶさに観察した。彼らだけではない。多くの者から疎まれている人々のことを調査した。その振る舞いを自分に取り込んでしまおうと考えたのである。
まずは模倣から。だがそこで、エルメルアリアは壁にぶつかった。単純に、彼らの言動の模倣が難しすぎたのである。
観察と分析を繰り返すうち、原因はすぐにわかった。
困った人々の困った言動の背景には、たいてい理由がある。
怒り、自分への苛立ち、寂しさ、恐怖――何であれ、悲しくて強烈なものが、彼らを駆り立てる。切実なまでの思いが、彼ら自身でも制御できないほどの言動へと繋がる。
エルメルアリアには、そういうものが、ない。
違和感こそあれど、天外界や精霊人たちへの怒りは抱いていない。わからないことだらけだが、それでいら立つという感覚もわからない。精霊や親友がいるので、寂しくもない。
狂った自分を見せたくない、というある種の恐怖は抱えているが――それはむしろ、彼から活力を奪っている。
そして何より、誰かをわざと傷つけてまで、自分の気持ちを満たす方へ行けない。困った人々の言動をなぞっても、どこかで制止がかかってしまう。
模倣も、感情も、何もかも中途半端で。それでも、この『狂い』を知られたくない一心で、あがいた。
そうしてできあがったのが、よく自分の能力を誇示するわんぱく小僧である。
エルメルアリアの急激な変化を怖がって、距離を取る者は確かに現れた。今まで不気味なほどにかしずいていた〈塔〉の高官たちは、『わんぱく小僧』の態度に眉をひそめるようになっていった。
だが、エルメルアリアの思ったほどには、人は変わらない。〈銀星の塔〉から来る仕事の量も、増えこそすれど、減りはしなかった。
一方で、思いがけない変化もあった。
外の仕事をする面々と〈銀星の塔〉を繋ぐ事務官が、交代したのだ。〈藤黄の里〉より抜擢された若い精霊人が、その職務を引き受けた。
エルメルアリアはあえて、態度を変えずに接した。その頃には今の振る舞いが逆に馴染んできていて、戻す方が難しかったというのもある。
彼は最初、驚きつつも丁寧に接してくれていた。誠実な善い人なのだろう。エルメルアリアは陰で顔をほころばせた。――だからこそ、近づきすぎてはいけない、とも思う。
仕事の内容を伝えてくれる事務官とは、そのたびにやり取りする。若い彼とも、自然と会話を重ねることとなった。そのうち彼は、エルメルアリアを見るたび、眉をひそめるようになった。
そして、あるとき――
「いい加減にしろ、貴様! 高官相手に敬語も使えんのか!!」
――すごい剣幕で、怒鳴られた。
このときばかりは、さすがのエルメルアリアも、一瞬昔に戻った。ぽかんとして、あれこれとまくし立てる事務官の青年を見た。
誠実な善い人だ。だからこそ、たまりにたまったものが爆発したのだろう。
さすがに申し訳なくなると同時、ささやかな達成感も抱いた。
彼が怒るということは、エルメルアリアはそれなりに、嫌な奴になれているということだ。
ひらめきは、形になった。
だが、同時に、間違えたのだ。
※
起きていたのか、眠っていたのか、よくわからない。
鈍い頭痛に引きずられ、エルメルアリアは目を開けた。
夢を見ていた気がする。あまりよくない夢だった。
「でも、ちょっとだけ、ステアが、いた」
この状況で思い出すのがステアルティードのことだというのが、なんだかおかしくて。エルメルアリアは、久しぶりに笑った。
「怪我、大丈夫かな」
最後に見た姿を思い出して、呟く。意味もなく、腕と手の鎖を鳴らした。
「……やっぱり、オレのせいだよ」
彼の振る舞いの変化が、クロードシャリスの心にひびを入れたのなら。自分が親友を堕としたも同然だ。
そう言ったら、またあの青年は説教してくるだろう。思いながらも、一度生まれた考えを手放すことができなかった。
これから、どうなるのだろう。
今の状況が行いの結果だとすれば、エルメルアリア自身はどうなっても仕方がない。だが、これは彼一人の問題ではないのだ。
このままいけば、エルメルアリアの力が、世界を壊すことになる。クロードシャリスが――地下魔界の精霊人たちが、彼をあの場で殺さなかったのは、そのためだ。
「いやだ、なあ」
思えども、一人でできることは少ない。敵を止める方法はあるが、それは本来方法とすら呼べぬ、最後の保険だ。
重い瞼をこじ開ける。闇をながめて、呟く。
「……ヒワ……ちゃんと、家に帰れたかな」
家族との約束は守れただろうか。
別れる前に口走ってしまった言葉は、届いたのだろうか。
エルメルアリアは、祈るように目を閉じる。暗闇の中、何度目かの『無言の対話』を開始した。




