169 星を隠す(1)
〈幽闇隧道〉での事故の後。エルメルアリアが外の仕事に復帰したのは、数か月後のことだった。
精霊や指揮術の助けを借りられたので、怪我の治療だけならそこまで長くはかからない。
時間を食ったのは、治療ではなかった。
帰還以降、エルメルアリアの世界の感じ方ががらりと変わったので、それに慣れる必要があったのだ。
あれだけまわりに満ちていた精霊の声が少し遠くなり、自身のこころが近くなる。そして、それは『記憶』として残るようになった。
ものに触れても、以前はそこに流れる命の力や精霊の反応がまっさきに届いていたのが、ざらざら、ぼこぼこなどが先に伝わってくるようになった。その代わり、食べ物の味などは濃くなり、細かな違いもわかるようになった。
他人の見え方に関しても、薄い壁が一枚挟まったような、それでいてはっきりと見えるようになったような、不思議な変化が起きていた。
今思えば、『自分』という概念をはっきり認識できるようになった、ということなのだろう。精霊から人へと、少し近づいた。なぜ急にそのようなことになったのかは、エルメルアリア自身はよくわかっていない。それで指揮術の威力が落ちたわけでもなかったし、精霊の声がまったく聞こえないわけでもないので、別段困らなかった。
久しぶりに〈銀星の塔〉を訪れるとき、エルメルアリアは人生初といってよい緊張を味わっていた。休養のためとはいえ、これほど長く休んだのは初めてだ。加えて、『あの件』の後である。皆が悲しい顔をしないかと、憂えていた。
結果として、それは杞憂だった。〈塔〉の人々は今までと変わらず迎えてくれた。――いや、中には今まで以上に熱っぽく応対する人もいた。何にせよ、彼から見れば『嬉しい顔』だ。それが見られたことに、エルメルアリアは安堵した。
今までと同じ日々が戻ってきたように思われた。与えられた仕事をこなし、時に憑依精霊の困りごとに寄り添い、彼らの嬉しい顔を見る。今まで通り、それで満たされていた。
だが、いつの頃からか、違和感を覚えるようになった。
いつも自分に仕事を振る事務官や、〈塔〉の人々の笑顔を見るたび、自分の芯のような部分がつきっと痛む。
負傷を確認して医院に行った際、話だけされて帰されたとき、なぜか少し涙が出た。
仕事の後、妙に体が重たくなる。
表面上は、事故以前と何も変わらないはずだ。それなのに、彼の中にはもやもやが積み重なっていた。
気になることは、訊くか、検証すればよい。エルメルアリアはいつもそうしてきた。だが今回は、何が気になるのかがわからない。悩んだ末、親友のもとを訪ねた。
親友は、エルメルアリアのつたない説明にもじっと耳を傾けた。その後、うーん、と考え込む。今日のおやつ、季節の果物と氷菓子の盛り合わせに匙を刺して、口を開いた。
「そうだねえ。……エラ、だいぶ疲れてない?」
「疲れ、ですか?」
ピュロロの実を頬張りながら、エルメルアリアは首をかしげる。
「まだ復帰して間もないのに、たくさん仕事をしてるじゃないか。疲れて当然だよ」
「ですが、仕事は減らしてもらってますよ。以前は倍量でした」
「それねえ……精霊が寄ってたかって支援するから、辛うじて回ってただけだよ……」
クロードシャリスが頭を抱える。エルメルアリアはこてんと頭を傾けた。まわりにいる精霊たちに、意識を集中させてみる。
われわれは、たのしいよ。
たのしい、たのしい。
もりのあのこが、がんばっているので、われわれはおうえんする。
――特に、負担を感じているふうではない。
それでも、あまり精霊に頑張ってもらうのも申し訳ない気がした。エルメルアリアは、素直にうなずく。
「わかりました。仕事量については、調整してみます」
「……まあ、エラの仕事を減らしてもらうのは、難しい気がするけどね」
クロードシャリスは気だるそうに頬杖をつく。氷菓子をつつきながら、目を細めた。
「あと、僕的に気になるのは、同行者」
「同行者、ですか?」
エルメルアリアが尋ねると、クロードシャリスはきりりとしてうなずいた。
「復帰してから、同行者がついたことがあった?」
エルメルアリアは、氷菓子を口の中で溶かしながら記憶を辿る。果たして、かぶりを振った。
「ないです。百十件ほどの案件を終えていますが、すべて一人で行きました」
「それも疲れの原因じゃないかな。人手が減ってるし、急な変化でもある。同行者つけないよ、っていう事前通告もなかったんでしょ?」
「なるほど……」
変化に順応できていないのは、確かにあるかもしれない。考え込んだエルメルアリアの前で、親友はほほ笑んだ。
「事務官さんに理由を訊いた方がいいかもしれないね」
「わかりました。お尋ねしてみます」
妙に力強くうなずいて、エルメルアリアは氷菓子をすくった。クロードシャリスも同じようにする。互いの視線が互いから逸れたその一瞬、低い音がみずみずしい空気に溶けた。
「医院には苦情を出しておくか。……何百回目だろうね、まったく」
「……クロ? 何か言ったでしょうか? 上手く聞こえませんでした」
「ああ、ごめん。独り言だよ」
ひらひらと手を振る親友に、エルメルアリアは首をかしげる。ただ、こういうときは問いを重ねても意味がない。気持ちを切り替えて、目の前の氷菓子に向き合った。
うきうきと氷の山を崩す彼を見て、親友は「最近、食べ物への反応大きくなったよねえ」と笑った。
後日、エルメルアリアは仕事終わりに事務官を呼び止めた。自分に同行者がつかなくなったのはなぜか、と尋ねた。事務官は小首をかしげ、それから人当たりのよさそうな笑みを浮かべる。
「ああ。あなたには必要ない、と判断が下ったからですよ」
「必要ない、ですか」
「そうです。何しろ、〈幽闇隧道〉を守り切るほどの精霊人ですからねえ。大抵の仕事は、お一人でこなせるでしょう。あなたに余計な人員をつけるより、他の仕事に回した方が、全体の安全性が上がるということです」
エルメルアリアはまた、違和感を覚えた。
あれは守り切ったとは言わない。ただの暴発だ。それで、たまたま敵が退いてくれただけである。
だが、後半の言葉には一理あると考えた。よほどの仕事でなければ、一人でどうにかできるのは事実だ。自分よりも苦労している人のところに同行者がついた方が、よいだろう。
「そういうものですか」
「ええ」
「わかりました。お時間を取ってもうしわけありません」
「構いませんよ。これからも、期待しております」
「はい」
このとき、エルメルアリアはあっさり引き下がった。事務官の話にも、一定の理解は示した。だが、もやもやは消えなかった。
同行者をつけないことがそもそも規定違反であり、彼がそれを何百年と説明されずにいた――ということを知るのは、これより四十年ほど先のことである。
ともかく、うっすらとした靄を抱えながら、エルメルアリアは日々を過ごした。靄は日ごとに濃くなっていった。人と会って話すたびに、心がざわざわしたり、寒気を覚えたりするのだ。〈塔〉の職員や官職の者と話しているときに、それは顕著だった。
自分ではわけがわからず、かといって里長や親友に話しても、明確な答えは得られない。多忙の中で不毛な会話に付き合わせるのも申し訳なくなり、彼らに相談することもなくなっていった。
そんなある日、エルメルアリアに大きな仕事が舞い込んだ。南方、〈鉄黒の里〉近辺の魔物討伐である。話を聞いてすぐ、これは少々危険かもしれない、と思った。自分一人で退けられないこともないが、危険はつきものであるし、疲労も溜まるだろう。
彼は事務官に、そのことを伝えた。
「この規模の魔物の群れを、私一人で追い払うのは、少々危険かと存じます。一人でよいので、戦士の方をつけていただけませんか」
事務官は、一度目を丸くした。が、すぐにその目を細めた。
「それは難しいですねえ」
「え――」
エルメルアリアは、虚を突かれる。その間に、ひらべったい声が透明な言葉を奏でた。
「お一人で討伐できるでしょう? あなたは天才であらせられるのですから」
意味がわからない、と思った。ひとの言葉に対して、心からそう思ったのは、生まれて初めてだ。
違和感は、その一瞬でしこりとなった。
一人でいいからつけてくれと、食い下がる。事務官は笑顔で要請を退けた。
エルメルアリアは何度目かであきらめて、現場へと向かう。体が、いつになく重かった。
結果として、仕事はやり遂げた。だが、その日はとても疲れてしまい、報告を終えて家に戻ると、水浴びもせずに寝てしまった。精霊の怪訝そうなささやきも、すべて無視した。
異変が起きたのは、数日後である。
いつもの刻に目覚めた。しかし体は重く、お茶を飲む気にすらなれなかった。それでも仕事はあるらしい。先ほど使い鳥が来て、帰っていったところだ。
エルメルアリアは体を引きずるようにして、家の出入り口に向かった。しかし、そこで動きが止まった。
行かなければ、と思っている。
同時に、行きたくない、とも思っている。
体は後者に従った。洞のむこうへ出ようとしない。手足を出しても、すぐに引っ込める。無理に踏み出そうとすれば、体のまんなかで、どくどくと何かが騒いだ。
うつむく。浮いていた体が落ちて、床に座り込む。
「……なぜ?」
エルメルアリアは自問する。しかし、答えは出なかった。
外の仕事に従事してから今まで、このようなことは一度もなかった。善き精霊人の務めを果たすことを拒むなど、考えられぬことである。
不可視のしこりがふくれあがって、胸を、喉を、こころを圧迫した。
世界は何も変わっていない。
ただ、彼だけが変わってしまった。
「どう、しよう……どうしよう……」
エルメルアリアは、その場に突っ伏した。わけもわからずこぼれた雫が、床を濡らす。ひどく、息苦しかった。
「どうしよう、みんな……私は、狂ってしまったんでしょうか……あの隧道から帰って以来……なにかが、なにかがおかしいのです……」
その叫びに惹かれてか、精霊たちがわらわらと集まってくる。彼らはやかましく心配してくれるが、エルメルアリアの欲する答えを教えてはくれない。
「シェム爺は、健全な成長だと、言ってくれたけど……私はそうは思えない」
そもそも、そう思うようになったのも、あの日以降だ。
おまえは〈幽闇隧道〉の瘴気によって歪められたのだ、と言われても驚かない。むしろ、そう言われた方が幸せだったかもしれない。
「どう、したら……」
切実な問いかけは、洞の中に吸い込まれていく。
結局、その日一日動けなかった。
(注・解説)
ピュロロの実:巨峰に似た果物。甘みが強く、独特の風味がある。種まで食べられるが、好き嫌いは分かれるらしい。




