168 不可逆の二人
暗闇に、じわじわと貪られていた。
くぐもって響くうなり声が、あるかどうかもわからない心臓を、執拗に突き刺してくる。
今の時は、知らない。どこにいるのかも。エルメルアリアは、かたく冷たい地面に、うずくまっていた。
あたりを観察することも試みたが、何度目かであきらめた。両腕は後ろ手に縛られている。身じろぎするたびに、細かな金属のこすれる音がする。指一本も動かせないよう工夫されているようで、不気味な執念を感じた。足は縛られてこそいないが、まともに動かせない。闇の矢を受けた方の痛みは引かず、もう一方は、後から『彼』に合流してきたミレティアレーデに折られた。
ご丁寧に応急処置をされたのが、腹立たしい。
だが、些末な心の火は、あっという間に吹き消された。
暗闇と、閉塞感。何年経っても色あせない恐怖は、ここでもエルメルアリアの理性をかき乱した。いっそ気絶するか、感情が麻痺すればまだ楽なのだが、体がそれを許さない。ふいに打ち寄せる痛みによって意識は保たれ続け、生ぬるい虚無と恐怖の狭間を漂っていた。
どこかで、獣がひときわ大きく吠える。エルメルアリアは激しくえずいた。すでに何度も嘔吐していて、出せるものなど残っていない。それでも体が反応する。皮肉にも、これのおかげで、一応まだ『人』なのだと実感できていた。
獣たちが静まる。靴音が、近づく。白い手が、プラチナブロンドを撫でた。
「ああ、またやっちゃったね、エラ。ちょっと待って」
エルメルアリアにとって、何よりもなじみ深い声がささやく。まるでお茶の準備でもするかのように呟いた『彼』は、慣れた手つきで水を呼び出した。汚れを洗い流す。それからしゃがんで、懐から取り出した手巾で、エルメルアリアの口もとをぬぐった。
仕上げとばかりに、また頭をなでる。
「ごめんよ。魔物までは置かなくていいって、何度も釘を刺したんだけど……ツェレグヴルムが面白がって、呼び寄せたらしいんだ。機を見て、どかすよう言ってみる。まあでも、あいつのことだし、聞いてくれないかも」
エルメルアリアは、その清流のごとき語りに、ただ耳を傾けていた。穏やかな日々が戻ってきたように錯覚しかけて……しかしすぐに「そうではない」と本能が騒ぎ立てる。
契約者を攻撃された時点で、エルメルアリアにとって『彼』は、友であっても味方ではない。
「ミレイはミレイで、エラの喉まで潰そうとか言うし……彼らの感性は、なかなか理解が難しいよ」
だが、『彼』は嘘をついていない。ミレティアレーデと『彼』の口論は、エルメルアリアもぼんやりと聞いていたのだ。喉に手を伸ばした彼女を、『彼』は「そこまでやったらいざという時に使えなくなる」などと言って止めていた。
本音なのか、建前なのか。どこから、どこまでが。
エルメルアリアは、もう何も、わからなくなっていた。
「……ク、ロ」
結果として、唯一自由が守られた口を動かす。久方ぶりに、親友の愛称を呼んだ。『彼』――クロードシャリスは、エルメルアリアを見やる。ほんの少し目を丸くしている気がするが、暗闇の中に見出した錯覚かもしれない。
「なんで、あいつらに、ついたんだ……? 里も、せかいも、大好き、なのに」
問いを絞り出す。それだけで鼻がつんと痛んだが、泣くほどの元気はない。
クロードシャリスは、目を伏せた。
「……『一緒に来てくれたら教える』って言ったもんね。言ったことは守らないとだ」
そう言って、座る。エルメルアリアに背を向けて、膝を立てた。
彼は再び、小さな精霊人の頭をなでる。ほとんど明かりのない部屋で、子守歌のように、語りだした。
「そう。確かに、天外界が大好きだった。〈群青の里〉のみんなも、大切だった。……ある時まではね」
エルメルアリアは目をみはる。意志に反して、体が震えた。
「やっぱり……オレのせい……?」
クロードシャリスはほほ笑んで、指で白金の髪をすくった。
「エラが責任を感じることはない。これは僕の問題だ」
くるりと巻いて、戻す。戯れのようにそれを繰り返した。
「ミレイたちに力を貸すことにしたのは、単なる利害の一致だよ。僕には僕の目的がある」
「目的……」
冷たさをはらんだ言葉を、エルメルアリアは繰り返す。その裏に隠れた問いを見透かしたのかどうか、クロードシャリスは戯れの手を止めて、親友を見た。
「……ただ、君と友達でいたいだけだったんだ。本当の意味での、友達になりたかった」
エルメルアリアは、ゆっくりと目をしばたたいた。頭の中に薄い仕切りができたかのようだ。言葉がうまく入ってこない。
クロードシャリスは、泣きそうに揺らぐ両目を閉じた。
「そのためには、今の世界では、だめなんだ。だから、世界を変えるために、ミレイたちと手を組むことにした。……もう言っちゃってもいいよね。隠す意味もないだろうし」
最後、おどけたように呟いた彼は、瞼を持ち上げて続ける。
「ミレイたちの目的は『世界をひとつにすること』。世界の境目の仕組みを解き明かし、事故なく他世界へ渡れるようにする。人間も、精霊人も、魔物も、水妖族も、雲上にて眠る古き竜すらも、自由自在に行き来できる世界。それが理想らしい。〈穴〉は理想への第一歩、というわけさ」
「そんなこと、したら――」
「うん。強力な天外界の魔物が無力な人間を食らい尽くすとか、逆に人間が他種族を狩るとか、そういうことも起きるだろうね。けど、ミレイたちは、大して気にしていない」
さらりと語られた内容に、エルメルアリアは愕然とした。彼が何も言えないでいるうちに、クロードシャリスは熱っぽく続ける。
「もしそんな世界が現実になったら。〈銀星の主〉の権威も役割も、がらりと変わると思わない?」
エルメルアリアはぶるりと震えた。体の中心を太い氷柱で貫かれたかのようだった。動いた拍子に走った痛みが、辛うじて彼を現実につなぎとめる。その上に、声が生ぬるい雨のように降り注いだ。
「精霊人たちに刻まれた信仰は、ほとんど無意味になる。そうなれば……エラは、〈主〉の投影から逃れられる。もう、頑張って演じなくてもよくなるんだよ」
ひゅっと、息をのんだ。それが自分の立てた音だと、エルメルアリアは数秒遅れて気が付いた。頭を無理やり動かして、あどけなく笑う親友を見上げる。弱みを見せてはいけない、という理性の声に反して、顔がくしゃりと歪んだ。
「ごめん、なさ――」
「さっきも言ったけど、エラの責任じゃない」
クロードシャリスは、謝罪をやんわりとさえぎった。振り返って、小さな親友に顔を近づける。
「僕の方こそごめんね、エラ。君のつらい決断を、心から応援できなくて」
泣きそうなささやきを残して、彼は去っていった。
エルメルアリアは、その姿を見ていることしかできない。銀と青が暗闇に溶けて、魔力の名残すら消え去ると、彼はかたい地面に突っ伏した。両腕が自由なら、頭を抱えていたところだ。
歯を食いしばる。目を閉じる。やはり、涙は出なかった。




