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11 東京ミッドタウンの攻防 ①

 二日後の朝、高級マンションの脇に付けられたピンクの軽トールワゴンの運転席では、小堀が巨体を丸めながら富仲の指示を携帯電話で聞いていた。

『作業は五分以内です。当該の部屋にある水槽の中、敷いてある砂の下にあるモノを回収。八分でそこから撤収ですよ』

「今回モノは塊ですよね? アクセサリーみたいにじゃらじゃらあるんじゃなくて」

 助手席から間能が口を挟む。今回はある部屋に隠されている盗品を回収し、依頼主に届けるだけの簡単な仕事だった。

『純金製の位牌ですからね。四キロ前後の塊のはずです』

「人の趣味にとやかく言うのもあれですが、なんでも純金製にすればいいってもんですね」

『投資ですからモチーフなんてどうでもいいんですよ。まあ、水槽に入れるならナマズやクジラの形の方がしっくり来ますが』

 勘弁してください、と間能が笑って通信を切る。時間ですね、と先に車を降りた小堀がマンションのエントランスを通過し、タイミングをずらして間能も目的の部屋へ向かう。カードキーのコピーで部屋に入ると、二人はリビングにある六十センチ水槽を発見した。

 思ってたより面倒だな、と間能が銀縁眼鏡を指で押さえる。

 なだらかな傾斜のある砂地を這う、透明で小さな海老。複雑に組まれた流木とぎっしり植えられた水草。水の中に作られた、異世界の森を泳ぐ鮮やかな魚達。

 まいったな、と間能が腕を捲りながら考える。

「五分以内か、中の水抜いてもいいんだよな? ……って小堀」

 間能が思わず絶句する。小堀は速やかに水槽の周辺機材を外し、適当に蓋をしてラップフィルムでぐるぐると厳重に密閉すると、そのまま水槽を抱え上げた。

「間能さん、荷台全開で頼みます」

「……小堀?」

「五分以内。水抜くのも面倒だし、魚可哀想だし」

 了解した、と間能は寝室を物色してクリーム色のシーツを持ち出し、水槽を包むようにカムフラージュするとすぐに部屋を出て小堀を誘導する。

 間能が手を貸すまでもなく、小堀は人ひとり分ほどの重さのある水槽を涼しい顔で運び、ちょうど五分でマンションのエントランスをあとにした。車に戻った間能がリアシートを調整してスペースを作り、小堀がゆっくりと水槽を置く。終わりました、と間能は富仲に連絡を入れ、小堀のピンクの車で四谷の事務所へ向かった。


「今回、富仲さんもフツーに荷物の事情喋っちゃってますけど、いいんですか」

 間能が冷蔵庫からペットボトルを取り出し、事務所のソファに掛けてキャップを捻る。その向かいに座っている富仲は、小堀が水槽から取り出した純金の位牌を目の前に置き、げっそりした顔で言った。

「こんなの、どうやっても位牌は位牌じゃないですか。それに今回は、その筋の人達には知られている話です。素人が金に換えるツテもなしに出来心で盗んだ位牌ですよ。盗んだ奴は監視カメラでガッツリ特定されてますし、情報屋の話だと後ろ盾もない単独犯です。今頃はビビって青くなってるんじゃないですか」

 富仲が青い顔で息を吐く。今回の位牌はもともとプロがどこからか盗み出したもので、それを知らない素人が偶然盗んだものだった。

「警察が絡まないのが逆に恐いでしょうね」

「追っかけられないだけ幸せですよ。あと同じ情報屋から聞いた話ですが、ボランティアしてた槙野組の一部が今、子供を追っかけてるらしいです」

「あー、秋山達ですか。ヤク関連で動いてるって話ですよね」

 意外そうな顔で間能が炭酸水を飲む。奥で水槽の手入れをしていた小堀が顔を上げた。

「……秋山達が探してるのは、何系の薬なんですか」

「ちょ、小堀まで妙なことに興味を持たないで下さい。警察も最近、妙な薬の件で警戒を強めています。しばらくは慎重に仕事を選ばないとまずいんです」

 あとこれおみやげです、と思い出したように富仲が白い袋を二つテーブルに置いた。お、サンジェルマンのパンですね、と間能がクロワッサンやアップルシナモンロールを取り出してテーブルに並べる。どうする小堀、と間能が振り返ると、小堀は再び密閉した水槽を持ち上げて頭を下げた。

「ウチ帰ってから頂きます」

「……どうするんだ、それ」

「ちょっと、このあいだから金魚飼い始めたので」

 何かを言おうとする間能を制し、富仲が黙って首を振る。お先に失礼します、と小堀は水槽を持つ手にパンの袋を引っ掛け、富仲商会のドアからのっそりと退出していった。

「金魚の次は水槽ですか」

 富仲が具合の悪そうな顔で呟くと、普通は水槽が先だと思いますけどね、と間能が肩をすくめた。

「次は女つくるかもしれないですね」




 午後、六本木四丁目の外れにある、取り壊されたばかりの小さなコインパーキングでは、描きかけの絵があるブロック塀の前で、空良が絵の具を取り出そうとしていた。

 その瞬間、近くに停車していた黒のハリアーから金髪の男が現れ、よう、と周囲を見回しながら空良に近付いた。

「ツイてるみたいだな、お互い」

 銀縁の眼鏡に指を添えた男がにやりと口の端を上げる。かいかぶられの人か、と空良が思い出したように男を見た。

「なんでここにいるの」

「この絵が描きかけだからさ。そして、そう考えるのは俺みたいなファンだけじゃない。槙野組の若いのが来る、とりあえず乗らないか?」

 そう言って男は、エンジンが掛かった黒のハリアーを親指で示した。っていうか誰? とじっと見つめる空良に、今は間能って呼ばれてるな、と助手席に乗るよう勧める。空良が絵の具をリュックに戻し、考えるような顔をしていると、角から黒のミニバンが曲がってくるのが見えた。車を遠目に確認した間能が、助手席のドアを開けて空良を急かす。

「槙野組の車だ。少しは身に覚えがあるなら、乗った方がいい」

 躊躇していた空良がハリアーに乗り込む。頭を上げるな、とドアを閉め、運転席に乗り込んだ間能が車を発進させた。ミッドタウンの方向へ曲がる瞬間、空良が後ろを振り向く。

 先刻空良が立っていた場所には黒のミニバンが止まり、ブロック塀の描きかけの絵を、二人の男が睨むように眺めていた。

「……あれがマキノ組か」

「君の絵を消して回ってた奴らが、今は、絵を描いた人間を探してる。壁に絵を描くのは控えた方がいい」

 左折して大通りに出る。賑わう昼下がりの六本木、間能は巨大な商業施設を横目に冷房を強めた。

 予定は? と尋ねる間能に、三時に東京ミッドタウン、と空良が答える。それここだな、と間能が慌てて右ウインカーを出しながら提案した。

「三時までまだ時間がある。それまで冷たい物でもどうだ?」


 地下二階の駐車場からエスカレーターで地下一階へと上り、間能は老舗和菓子店による喫茶店や、著名なショコラティエの名前が入ったカフェなどを提案しながら歩く。空良は間能の話に構わず、フロアに入ったところでふと足を止めた。

 どうした、と間能が戻ってその視線をたどる。そこにあるのは牧場が直営する総菜店で、カラフルで牧歌的な店内にかわいらしいタッチで描かれたソフトクリームの看板があった。

「あれがいい」

 だめ? と間能の顔を見上げて尋ねる空良に、まあいいか、と間能が眼鏡を押さえた。財布を出そうとする空良に席の確保を頼み、間能は子供連れの家族客に混じってソフトクリームを二つ購入する。

 隅っこでいい? と角の席を確保した空良が手前に座り、隅の方がいい、と間能が奥の席に座った。空良にソフトクリームを手渡すと、行き交う客を眺めながら間能もソフトクリームを食べる。気に入ったらしく黙々とソフトクリームを味わっている空良に、間能はスマートフォンで撮った壁画の画像を見せた。

「この青がいいな。暗い屋内の絵なのに天井は強く晴れやかな青で、下にある光景なんて他人事みたいだ」

「……青は、天国のイメージだ」

 ちびちびとソフトクリームを味わっていた空良がぽつりと言う。ほう、と間能が興味深げに身を乗り出すと、空良は遠くを見るような目をして続けた。

「あと、届かない場所の色。空とか、深い海とか。空は、上に行けば行くほど青いって、ぼくのおじいさんが言ってた」

「そのイメージは正しいかもな。高くて手の届かない、いと高きところが神のいる場所で、そこが恐らく天国だ。ミケランジェロの最後の審判も青空の中で行われるし、中世ヨーロッパでも青は天国の色とされていた。そして絵画のキリストやマリアは、青い布をまとって描かれているものが多い」

「じゃあ、神様は」

「……半裸だったり、赤やピンクの服が多いかな。キリストは描かれても、神はあんまり出てこない。雲から手だけ出てたり、鳩だったり、高いところから差す光だったりする。神の本質は栄光であり、目には見えないものらしい。『いと高きところに神の栄光あれ』、って奴だ」

 間能がスマートフォンの画面を見ながら言った。それ少し知ってる、と思い出すような顔をする空良に、間能は壁画の画像を見せる。

「そしてこの絵は、どういう意味の絵なんだろう。俺の記憶が正しければ、この絵の中にいる聖女は、誰でも見れるようなものではなかったような気がするんだが」

 そうなのか、と空良が小さな画面を覗き込むと、間能は聖女の胸像を拡大して見せる。その胸元には白い小花と添えられた女性の手があり、さらに小さなネズミのような小動物が描きかけのまま残っていた。

「これがどこかの教会とか、礼拝堂だってところまではいいな? でもこれは聖母マリアじゃない。白いスミレの花とネズミが関係してる聖女は、『聖フィーナ』だ」

「……あれ『聖フィーナ』だったのか。聖母マリアだと思ってた」

 ソフトクリームを持ったまま、空良が一人で納得したように肯く。間能はコーンを囓りながら空良に尋ねた。

「つまり君は、『聖フィーナ』の絵を見てこの絵を描いたってことだな。そしたらここは、どこだろう?」

「……聖フィーナ伊原記念病院」

「だよな。あそこにはいくつも美術品があって、あの礼拝堂にも貴重な絵が残ってるって当時の院長から聞いたことがある。この左右にある大小の絵は同じ作者で、昔、礼拝堂を建てた際に寄付されたものらしい。正式なタイトルはわからないが、病院の名前になったくらいだ。この絵が『聖フィーナ』なのは確かだな」

「なんか意味があるの」

「……聖母マリアや使徒の名前が入った病院はありがちなんだが、たぶん、病める子供に温かなベッドを、みたいな意味でもあるんじゃないかな。信仰にとらわれて殉教したがる痛い少女をなんとかしてやろう、って狙いかもしれないが」

 そう言って間能が足を組むと、あっ、と幼い女の子が悲しげな声をあげ、空良の足下を見た。女の子の左手にあるソフトクリームは無事だったが、右手に持っていたウサギのマスコットを落としてしまったらしい。

 聖フィーナか、と空良が呟きながらテーブルの下に潜り、ウサギを拾って手渡す。その動きが楽しいのか、女の子は手渡されたウサギを再びテーブルの下に転がして空良を見た。

「聖フィナともあるな」

 スマートフォンで確認した間能が、テーブルの下の空良に言う。どっちでもいいけど、と空良はウサギを転がして女の子の相手をしながら間能に聞いた。

「その人はなんなの」

「イタリアの聖女だな。十歳で病気にかかり、十五歳で死んだ。病気が重くなってからは、イエスに近づくために、ベッドを拒否してネズミに耐えながら、冷たい板の上に寝ていたそうだ。その遺体の下に咲いたといわれる白いスミレの花と、ネズミがフィーナの印だ」

「イエスキリストに近づいたのか」

 テーブルの下で空良が呟く。踏むから動かないで、という要求に間能は組みかえた足を静止したまま続けた。

「たぶんな。信仰のために自分が生きている世界を捨てて、神に選ばれた者だけが行ける場所へ行こうとした。人間には救いようがないさ」

「右側の絵は、楽園でいいの?」

 テーブルの下に潜ったままの空良が、ごそごそとリュックを探りながら聞く。女の扱いうまいな、と感心しながら間能がスマートフォンの画像を眺める。草木や花があり、様々な動物の集う庭園のような絵に首をかしげて言った。

「楽園ならアダムとイブが描かれている場合が多いな。絵が小さくてなんとも言えないが、この人魚みたいな動物がセラフィムなら、楽園かもしれない。あとは、『閉ざされた庭』っぽくもあるな」

「ホルトスなんとかっていう?」

「よく知ってるな。『楽園』でも、バラやユリが咲いて塀に囲まれていれば、聖母マリアが憩う『閉ざされた庭』になる。それがホルトゥス・コンクルスス、だな」

 ソフトクリームのコーンを囓り、スマートフォンの画面を見ながら間能が続けた。 

「それで、君が描いたこの絵は何だろう? 足下に眠る四人のローマ兵と、棺に腰掛けるイエスという構図なら、『キリストの復活』風の何かかな?」

「よく知らないけど、そうかも」

「それなら、中央にいるイエスがまとう布は赤であるべきだ。白く描かれてるのは、弟子とタボル山に登った『キリストの変容』だな」

 間能がスマートフォンを操作しつつ足下に向かって話す。空良もコーンを咀嚼しながら、面倒臭そうにテーブルの下から言った。

「……そんな細かいことは知らない。それに、赤は苦手だ」

「なんだ、鳥居やポストも怖いのか?」

「怖いわけじゃない。ジングル」

 きりっとした声で言い切る空良に、間能が怪訝な顔をする。

「ジングル……ベル? 血まみれのサンタクロースにでも追いかけられたか」

「血は恐くない。ただ、ぼくが赤を使うと、よくないことが起きるから」

「…………ひょっとして、ジンクスのことか」

「それ」

 空良がテーブルの下から顔を出す。近くで電話をしていた母親が戻り、女の子を連れて店を出ていく。振り向いて手を振る女の子に、空良も小さく手を振った。

 気を取り直した間能が、通りかかる客と目が合いながらも話を続ける。

「まあ、つまり、君自身は赤を使わないんだな」

 まあね、と空良がやっと椅子に座った状態で肯く。壁画の天使の手には、空良ではない人物が描き足したという赤いリンゴがあった。

 ソフトクリームを食べ終わった二人も店を出る。間能は施設内の手近なベンチに腰掛け、組んだ足をゆらゆらと揺らしながら話を続けた。

「君はなぜあの絵を描いた? 槙野組を怒らせてる自覚があるなら、俺に隠す必要もない。二年前にあの場所で、男が四人死んでいた。君はそこにいたが、君が殺したわけではない。ならば、ほかにも誰かがいたはずだ」

「……知らない」

 この人は違うのか? と間能がスマートフォンの画面を見せ、壁画の中の白衣の人物を指した。空良が訝しげな顔をする。

「なんでそんなこと」

「俺はあの礼拝堂に興味があるんだ。あそこにはちょっとしたお宝があるかもしれない」

 お宝? と空良が間能をじっと見る。前方からやってくる女性達が自分を凝視していくような気がして、間能は身なりを確かめながら話を続けた。

「あの礼拝堂は大昔、寄付により建てられたもので、あの絵画や美術品も寄贈されたものなんだそうだ。それらに関わっているのが特殊な職人で、お宝を隠す名人だって噂がある。彫刻や人形なんかに細工した話が多いから、キリスト像あたりに何かあるんじゃないかと俺は思ってる」

「それ、聞いたことがある。一部でそういうのが有名で、ヘンタイのプロが狙って盗んでいくって」

 空良が少しだけ興奮したような声を出す。そうなのか? と間能は複雑な表情で肯き、声をひそめて続けた。

「……そんなわけで、少しあの礼拝堂は気になってた。そして妙な事件があったと聞いて、さらに興味がわいた。四人の男を殺し、金や薬を持って消えたのは何者なのか」

「ぼくじゃない」

「だよな。では別の誰かが男達を殺し、金と薬を奪ったということになる。金はともかく、薬は巷にバラ撒かれて、何をしたいのか解らない。俺は最初、犯人の本来の目的は、礼拝堂のお宝だと思った。でも違うな」

 間能が白衣の人物を拡大して見せる。

「これは、犯人はこの人だ。そう告発するために描いた絵じゃないのか?」

 空良は少し考えると、スマートフォンを見ながら小さく言った。

「そうだけど、殺すところは見てない」

「ならば君はなぜ、ここに伊原先生……伊原琴子を描いた?」

「……あの人は、死の使いだ」

「どういう意味だ?」

「人を隠して、消して、なかったことにできる。あの人が絶対行くなと言ってた場所に、あの四人がいた。あとで見に行ったら、すごい状態で死んでた。もう一度行ったときには全部なくなってた。ぼくの友達も」

「友達?」

「だから、あの人がやったって絵を描いた。そしたらマキノ組は絵を描いた人を探してる」

「なるほど、槙野組に狙われてる自覚はあるのか。君はそれを、事件を隠蔽しようとする伊原琴子のしわざと考えた。そういうことかな」

「…………たぶん」

「確かに、あの先生が何か隠しているのは俺にもわかる。だが君を狙ってはいない。君を狙っているとしたら、槙野組だ。だからもう外で絵はやるな。絵のある場所にも近づくな。何かわかったら教えるから、君も何か思い出したら教えてくれないか?」

 そう言って間能は空良の携帯電話の番号を聞き出し、自分のスマートフォンに登録した。空良の携帯電話にも自分の番号を登録し、ふと時間を確認する。

 三時になるぞ、と間能が携帯電話を返すと、もう行く、と空良が立ち上がった。またな、と間能が足を組んだまま手を振る。

「やだカワイイー」

 通り過ぎる女性が、明らかに空良ではなく間能を見て笑った。待った、と間能が空良を呼び止める。

「俺に……何した?」

「なんにも」

「だよな」

 どこか気恥ずかしさを覚えながら間能は空良と別れ、空良もリュックを背負い、愛想のない顔で間能に手を振った。

 遠ざかった空良が振り向くと、間能はベンチで足を組んで寛いでいた。その靴の裏には空良の描いたピンク色のウサギが笑い、組み替えた足にはココア色の熊が舌を出している。

 速乾ネイルってすごいな、とあいなとあいみにもらった小瓶をリュックに戻した空良は、待ち合わせの場所へ向かって走り出した。

 そんな二人を少し離れた場所から、のんびりと飛田が眺めていた。




 三時を過ぎた頃、ミッドタウンの南東にあたる六本木四丁目の外れ、先刻空良が立っていたコインパーキングの跡地に、秋山と譲原の乗った車が到着した。

 一見サラリーマン風の譲原がビジネスバッグを持って車を降り、周辺を窺う。壁に絵を描く子供も、右頬の赤い子供も見当たらない。

「それらしき子供はいないようだし、仲介の売人だけが来るんじゃないのか」

 譲原が車の熱気に耐えながら言う。見知らぬ子供をおびき出すよりは、バラ撒かれている薬を回収する作業の方が気が楽だった。

 車の窓から苛々したような秋山の声が返ってくる。

「だとしたら、話つける奴が下手打ったか、どっかでケチがついたってことだ。手順通り話を進めて逃げられたんなら、仲立ちのガキにすら信用されないバカ仕事のせいで、こっちのコトがバレたって話になるな?」

 すんません、と車から花井の神妙な声が続く。余計なことを言うまいと黙った譲原は、バッグから仲介人との目印である赤いギンガムチェックの手提げ袋を取り出した。

 薬をもらったという輩によると、少女らしき子供は金を要求することもなく、薬を欲しがる人間を見つけては分け与えているという話だった。その子供から薬を何度か入手したという若者に、人を介して接触した花井がようやく約束を取り付けた。子供をおびき出す客の役が、面の割れていない譲原だった。

「余計な心配はいらん。こっちの情報は漏れようがないんだ」

 少し離れた黒いセダンから秋山の声が響く。火の付いた煙草を持つ手だけを窓から出し、後部座席で宙を睨んでいる。情報漏れも密告もあり得ないが、それとは範疇外の部分から邪魔が入るような、調子の狂う状況に付きまとわれているような感覚が拭えない。それは昨日今日に始まったことではなく、秋山の苛立ちはつのる一方だった。

 秋山が時計を見る。まだ時間はあるが、わずかな違和感が厄介な兆しであることは多い。そんな張り詰めた秋山の視界に、シルバーのセダンが入ってきた。

 シルバーのセダンは譲原の前で減速し、その少し先で停まった。車の窓から角形眼鏡の男が顔を出し、譲原、と周囲を見回しながら不思議そうな表情で尋ねる。

「何をしているんだ? こんなところで」

「……北条か」

 譲原が力の抜けたような声を出すと、小さく舌打ちした秋山の額に一瞬青筋が立った。咥えていた煙草を外に吐き捨て、長めの髪をかき上げながら譲原と北条を睨みつける。

 どうします、と窺う花井に、やめだ、と秋山が顔を引きつらせて言った。

「今日はほかにも妙な気配を感じる。出直そう」

 何か言いたげな北条をひと睨みした秋山は、引き上げる旨を譲原に告げ、黒いセダンを降りることなくそのまま消えていった。置き去りにされた譲原は、取り繕うように秋山の捨てた煙草を革靴の底で踏み潰し、持っていた紙袋をビジネスバッグにしまうと、北条に向かって肩をすくめた。




「はあ……お流れ、ですか」

 譲原と北条も消えた頃、壁画のそばの自動販売機に寄りかかった若い男は、突如入ったキャンセルの連絡を電話で受けながら炭酸飲料を飲んでいた。

 なんでもいいですけど、と軽く相槌を打ちながら男はポケットから錠剤を一粒取り出し、炭酸飲料とともに口に含む。はーい、と通話を終わらせ、自動販売機に寄りかかった若者に、どこか奇妙な雰囲気の小男が近づいた。

「あのう、もしよろしければですけど……」


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