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11 東京ミッドタウンの攻防 ②

「聖飢魔Ⅱとか目指してるところすみません!」

 ミッドタウン施設内の、あるコスメカウンターでは、白さが眩しいファンデーションに濃いシェーディングやノーズシャドウで立体感を激しく際立たせた、接客中の美容部員に安藤が割り込んでいた。

「お客様それぞれのお顔に合わせたメイクを提案できていますか? 僕達のアドバイスも込みで商品ですよ?」

 細眉はもう流行りませんので、と女性客の整った眉のラインを無視してがっつりと太眉を描き、色の白いは七難隠しますから、と薄付きファンデを望む客にファンデーションをこってりと塗り込んでいた立体的迫力顔の美容部員が困惑する。安藤は涙目になっていた女性客を他の美容部員に引き渡し、リカバリのための指示を与えてから続けた。

「どんなに商品が素晴らしくとも、あなたが伝えることができなければ無駄になります。美しくなれるとわくわくしながら来てくださるお客様を、裏切る仕事をしてはいけない。それは、あなたの売り上げの損失にも直結する」

 そう言って安藤は、目の前にいる美容部員の力強い眉と、その死角で直されていく女性客のエレガントメイクを眺めながら語る。

「どこでもそれなりに同じ物が手に入る。大事なのは誰から買うかです。どこで買おうが誰から買おうがほとんど差はない。だがその行動の差は、いつか確実に変化を起こします。買い手にも、売り手にもです」

 安藤の声と存在感につられて、なんとなく女性客が集まってくる。安藤はカウンターに並べられた商品やメイク道具をさらりと眺めると、ぽかんとしている美容部員の目を覗き込んで言った。

「僕が何かを買う際、最終的に見るのはそれを売る人間だ。快ではなく不快を作り出して物を売る。それは売り手に確実に蓄積される。顔が変わる。美しき見本であるべきあなたがそれをやってはいけない。まずはあなたが美しくあるべきだ。違いますか?」

 目の前の相手にたたみかけながらも、目元は囲まないように、と女性客のアイメイクに安藤が指示をする。少し離れた吹き抜けのそばでなりゆきを眺めていたあいなとあいみが呆れたように言った。

「よくあれだけ適当な言葉がとっさに出るよね」

「でも結構アウトなこと言っちゃってるよね」

 でも大丈夫みたい、と観客が集まって呆然としている美容部員の表情にあいなが笑った。

「ところで気付いてる? 下」

「ちょっと気になるね。空良くん達との待ち合わせもそろそろだけど」

 あいみがスマートフォンをチェックする。二人は吹き抜けの手すりに手を添えながら、階下を見下ろして目を細める。

 二人が目で追っていたのは、申し訳なさそうに通行人を避けながら歩く髪の長い女性と、その女性から距離を取りつつも目を離さずまっすぐ歩いてくる、太めで目つきの良くない猫背の男だった。




 葬儀の打ち合わせを終え、生花と返礼品の手配を済ませた葉月は、東京ミッドタウンのベーカリーに立ち寄っていた。

ちゃんと食べないと、と自分に言い聞かせながら、葉月は焼き上がったパンを眺める。食べることと眠ることは、葉月にとって重要だった。元気でいないと務まらないし、頭が回らない。気遣うことができなくなるし、余計なことまで考えてしまう。

 どれにしようかな、とイチジクのパンやアップルパイに目移りする葉月の隣で、うーん、と明るく通る声で唸りながら、紺色のスーツを着た男が新作のパンを眺めていた。

 知っている顔に驚いた葉月が慌てて挨拶すると、どうもこんにちは! とトングを鳴らして安藤が笑った。

「安藤さんも、これから召し上がるんですか」

「いえ、お土産にするので迷っているんです。双子の姉妹なんですが、それぞれ何にしようかと思って」

「それでしたら、同じのを一つずつあげた方がいいかもしれませんよ。双子じゃなくても、きょうだいは上の子と同じものを欲しがったりしますから」

 無邪気でおしゃまな姉妹を想像しながら、葉月が遠慮がちに提案する。安藤は深く肯き、ココナッツパインパンとオレンジレモンパンを三つずつトレイに乗せて言った。

「そうですね、一人を特別扱いすることは避けています。常に」

「お優しいですね」

「ははは、初めて言われました!」

 愉快そうに安藤が笑うと、そうなんですか、と葉月は妙なことを言ってしまったように首をかしげて小さく笑った。

 ベーカリーでは次々とパンが焼き上がり、入口では店員が試食のパンを切り分け始め、通りすがりの客が集まってくる。客に紛れて太めで猫背の男が葉月の背後に接近した。

「あれ?」

 ふいに真横にいた美女に腕を引かれ、バランスを崩しかけた葉月を、もう一人の美女が支えた。美女は店内で葉月と立ち位置をするりと代わり、猫背の男の右腕を掴む。

「あっ、やだっ、ぶつかっちゃったー」

「あっごめーん私もー。ほんとごめんなさーい」

 男の左側からも同じ顔をした美女が現れ、その左腕を掴んだ。

「ごめんね許してー。肩とか怪我してない?」

「大丈夫かしらー。病院かどっかで応急処置した方がいいよね」

 あれっ、と首をかしげる男に、二人の美女はごめんねごめんねと何度も謝り、その腕に爪を食い込ませながらどこかへと消えていった。




 ミッドタウンの東側にある檜町公園では、木陰で応急手当のようなものを施しているあいなとあいみを、打ち合わせを終えて合流した管地と空良がベンチに座って眺めていた。

 あいなとあいみは今回、後始末が面倒なギプスではなく、粘着性の強い弾力包帯で男の手足を固定した。さらに塞いだ口にマスクを掛ける。

 どうするー? と木陰からあいなが手を振る。ココナッツパインパンを囓っていた管地が、アルコールティッシュで手を拭いている安藤に言った。

「おい安藤、それくらいで許しておやりなさい、ってご隠居が言うところだろ?」

「えー、別に? 何でもいいや、任せます」

 ひどいな、と空良がオレンジレモンパンを飲み込むと、まったくだ、と管地も肯く。

 任せられたあいなとあいみは、男の口に貼り付けた粘着包帯をいたずらに引っ張ったり、関節技を決めたりしながら男をねちねちと責めていた。

「パン屋さんに現れるロングのカワイイ女子狙いの痴漢なのー?」

「ショートのキレイなお姉さんにも痴漢しようとしてたのー?」

 しばらく楽しんでいたショートカットの二人が、空良くーん、と手を振って呼ぶ。夏の木陰でマスクを装着し、ぎっちりと粘着包帯を巻かれ、体育座りの姿勢に固定された男を空良がじっと見る。

「……あいなとあいみはすごいね」

 そんなことないよ、とあいなが手を振り、空良くんの方がすごいよ、とあいみが真剣に言う。そうかな、と首をかしげる空良に、二人は明るく肯いて男の腕を指差した。

「そんなわけで、空良くんの才能ここに開花させちゃっていいよー」

「そんなわけで、青春時代の特権でエロいの描いちゃっていいよー」

 わかった、と肯いた空良がペンを取り出す。ふごふごと呻く男の耳をあいなが引っ張り、マスクもいいよー、とあいみが男の肩を押さえつけた。

 空良くんすごーい、と美女達の笑い声がこだまする夏空の下、楽しげなピクニックにも見えなくはない光景に引き寄せられ、ふらりと初老の小男が現れた。なぜか赤いギンガムチェックの紙袋を手にしながら、とりあえず安藤と管地の前で頭を下げる。

「ご機嫌よう。都会のジャングルに踊る一輪の花、ダンシングドール飛田見参」

「……ロックンフラワーが何しに来た」

「ぬふふふ。またぞろ退屈の虫が疼きだしたようです」

 花を見つけた蜜蜂のように、飛田は美女達のいる木陰へ向かった。退屈なんですかねー、と安藤もパンを味見する。虫下しでも飲ませてやれ、と管地がパンの袋を丸めていると、飛田は木陰の光景にしばし見入ったのち、安藤と管地に向かって尋ねた。

「あのこちらは、どういったアートですかな」

 どうもこうも、と管地が立ち上がって木陰へ近付く。想像していた通り、空良によって手足におどろおどろしい模様を描き込まれた男が、身動きもできずに呻いていた。

「なあ空良、普通ギプスにゃ『元気になってねー』とか『早く治りますように』とか書くもんだ。次はもう少し御利益のありそうな絵にしとけ。病気が治って、宝クジも当たって、やたら女にモテたうえに、身長も五センチ伸びそうな気がしてくるヤツな」

「……今日のは包帯だよ」

「ギプスも包帯も呪いのグッズじゃない、ダメージ食らった奴が身につけるアイテムだ。富士山に弁天様、鯉の滝登りなんかの縁起物がウケるぜ? 特にこの手のお兄さん達は、ラッキーやハッピーを呼ぶために、わざわざ背中に彫り込んだりもするんだ。つまり人をビビらせるのが仕事の兄さん達もハッピーな絵を好み、家内安全、商売繁盛、デカイ一発大当たりを夢見てる。美しく言えば、誰であろうが人は希望や喜びを絵の中に求めている。わかるか?」

 背中に般若を彫ったり、ドクロファッションを好んだりする人間を無視して管地が語る。じゃあそろそろ交番行こっか、とあいなとあいみが男の縛めを解くと、パニックになった男は呪いの言葉を喚きながらダッシュで逃げて行った。

「今度はもっと強い救急グッズ持ってこよう」

「きっと捗るわ。槙野組の下っ端はカワイイ子に弱いってわかったんだもん」

 ねー、と男に装着していたマスクを指でくるくると回しながら二人が顔を見合わせる。お前ら普段からこんなことしてんの、と宇宙人を見るような顔をする管地に、わりと、と二人が肯く。その横で飛田はジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくった。

「私のオシャレ心に火が付いてしまったようです。私にも何かこう、アートなペイントをお願いしてもよろしいですか、空良くん」

 注射を待つように飛田が腕を差し出す。首をかしげる空良に、管地が小声で言った。

「加須で描いたアレでいい、やったれ」

 わかった、と空良は青や黒のペンを取り出し、飛田の腕に鯉のうろこ模様を描き上げる。これでいい? とペンのキャップを閉める空良に、飛田は自分の右頬を指差した。

「あとここに、アクセントで夏の花などもひとつ」

 夏の花、という飛田の追加注文に、空良は先日行ったハンバーガーの店に飾られていたピンク色のブーゲンビリアを思い出し、飛田の頬に描いた。

 カワイイー、とあいなとあいみが歓声ををあげると、飛田はどこからか手鏡を取り出し、自分の顔を見た。頬に片手を添えながら呟く。

「これが……私?」

 うん、と空良がピンク色のマジックをしまう。飛田も鏡をしまいながら満足げに肯いた。

「別人に変身しちゃったみたいです。なんだかちょっぴり大胆になれそう」

 メイクは心を強くしますからねー、と他人事のように安藤が言う。なるほど、と飛田はきりっと見得を切った。

「数ある花のその中で、大江戸港区にまぎれもない、ホッペに咲かせたブーゲンビリア、散らせるもんなら散らせてみやがれです」

 やだすごーい、とあいなとあいみが笑いながら拍手する。いえそれほどでも、と飛田が照れて見せると、その手にあるギンガムチェックの紙袋を見て空良が聞いた。

「トビタさん、これなに」

「あ、これはかわいくてつい……そうだ私、せっかく変身してるので、別人に生まれ変わったような気分でちょっとお散歩してきますね」

 ではこれにて、と微妙なペイントを身にまとい、飛田は人目の多いミッドタウン方向へ去っていく。言い知れない不安を覚えた空良は管地に許可を取り、ちょっと行ってくる、と都会の人波に紛れそうで紛れない飛田を追って走り出した。

 飛田は公園を抜けてジャケットを羽織り、ミッドタウン内にあるホテルの正面側に出た。なにげなく右頬に手を添えて花を隠し、ホテル前の通路をのんびりと歩いていく。

 どこ行くんだろう、と空良が距離を取りながら後ろを歩く。飛田は敷地の外に出ると、赤いギンガムチェックの紙袋をぶら下げ、先刻空良のいたコインパーキングに続く路地へ曲がっていった。

 トビタさん、と追いついた空良が声を掛ける。あららっ、と驚いて瞬きをする飛田に、空良はその先のブロック塀を見ながら言った。

「ここ、恐い人が来るから危ないよ」

「……そうなんですけど、実はここで、今話題の薬を配ってる人に会えると聞いたので、ちょっとお願いしてみたんです。顔を見るチャンスだと思って」

「……ぼくもいていい?」

「空良くんは危険ですよ。私みたいに変装してませんし、変なところで顔が売れてるかもしれないですし」

 そう言って飛田はジャケットを脱ぎ、手鏡で頬のブーゲンビリアを見る。それ変装なの、と首をかしげる空良に、飛田が赤いギンガムチェックの紙袋を見せた。

「あとこれは売人に会うための目印なんです。正しくは売人ではないんでしょうが、私の思うようなかわいげのある相手じゃなかったとき、ただのお洒落な紳士より、腕やホッペに特徴のある人物と認識された方が都合がいいと思いまして」

「それなら一人じゃない方がいいと思う。あいな達みたいのはできないけど」

 空良が自分の黒いリュックを探る。催涙スプレーでもあるんですか、と飛田がラッカースプレーやマスキングテープの入ったリュックを覗くと、ううん、と空良は缶詰サイズのペンキ缶を取り出して見せた。

「スプレーは風に左右されるから、液そのものをかけた方がいいと思う」

「……なんだか物騒な今日この頃ですが、危なそうな物事には不用意に近付かないよう、気をつけたいですね、お互いに」

 とりあえずそれはしまいましょうか、と飛田がやんわり空良の武器をリュックに入れ、コインパーキング跡地のブロック塀の前に立つ。

 描きかけの礼拝堂の青い天井には、まだ顔のない天使の姿があるだけだった。そこに顔を描き足すつもりだった空良が目を見張る。

 まだ顔のない天使の手には、赤い塗料で描き足されたリンゴがあった。

「あのー、さっきの人ですよね?」

 飛田に声を掛けてきた男の声に、びくりと空良が飛び上がる。先程はどうも、と飛田が現れた若い男にギンガムチェックの紙袋を見せると、申し訳なさそうに男が肩をすくめた。

察したように飛田が肯く。

「ということは、やっぱりダメ?」

「頼んでみたんですよ、悪い人じゃなさそうだよって。でもあの子が、『薬が欲しい人じゃないからあげない』って言って帰っちゃったんです」

「私、そんなにストイックに見えちゃうんでしょうか」

 どこから見てたんでしょう、としょんぼりしながら飛田が周囲を見回す。まあまあ、と若い男はポジティブでハイな笑顔を浮かべた。

「これ、『おすそ分け』って預かりましたから」

 はいどうぞ、と飛田に赤く丸い包みを二つ手渡すと、男は路地の隙間に消えていった。なにそれ、と空良が赤い包みを凝視する。

「それが薬?」

「うーん……この包み紙」

 心配する空良をよそに、飛田は赤い物体の匂いを嗅ぎ、その包みをゆっくりと開いた。現れた白く丸い物体をつまみ上げ、そっと口に含む。

「……ミルクキャンディですな」

「ほんとに大丈夫?」

「これ、四谷のアンブロワーズっていう洋菓子屋のキャンディボンボンですよ、確か」

 飛田は口をもごもごさせながらもう一つの包みを開き、異常がなさそうなのを確認して空良に勧める。空良はしばらく飛田と包みを交互に睨んだあと、意を決したようにそれを自分の口に入れた。

「……ほんとだ。じゃあ、ぼくの考えすぎかも」

 空良は天使の手にある赤いリンゴをぼんやりと見る。そうとも限りませんが、と飛田も壁のリンゴを眺めて言った。

「それより、この絵はなかなかいいですよ。スペインの宗教画ばっかり描いてた画家とか、シュルレアリズム画家とかそういうのまであと一歩みたいな可能性を感じます」

「……わからないけど、トビタさんも、絵とか詳しいんだ」

 感心したような顔をする空良に、飛田はどこか申し訳なさそうな顔をする。

「まあ……昔、仕事でそういうのを扱ったこともあったので」

「ふうん。そういう人多いね」

 間能を思い出しながら、空良がもごもごとキャンディを味わう。そうなんですか? と飛田は意外そうな顔で続けた。

「……ほかにどんな人がいるのか存じませんが、私は空良くんくらいの頃にしくじって、そっちからは足を洗ったというか、手を引いたというか……」

「しくじるって、失敗したってこと?」

「まあ、そんなところです。それこそ、この先生みたいなおっかない女の人に捕まって、漏らすかと思いました」

 そう言って壁画の中にいる白衣の女性を指差した飛田は、そのすぐ左にある聖女の絵を見つめながら尋ねた。

「ところで空良くん、この隣の、小さな額縁の行方を知りませんか」

「……知らない」

「ウソですよね」

 飛田はまつげの長い目をぱっちりと開いて即座に言った。動揺した空良が驚いたような声を出す。

「何でわかるの」

「まあ……折れたタバコの吸い殻で」

 飛田は落ちているタバコの吸い殻を拾い、もっともらしく遠くを見た。そうなのか、と空良が目を見開いて感心する。

「それはともかく空良くん、この壁画は空良くんが描いたもので、これは立ち入り禁止の礼拝堂ですよね。でもこの左にある聖女の絵は、本来の、私の知っているものとは違うというか、微妙にちょっと小坂さんに似てません?」

「……でもなんだか、葉月は描けないっていうか、葉月にならない。マキノ組がいるから似てなくてよかったけど」

 空良は壁の小さな聖女を見る。なぜか葉月を描くのは難しい。飛田は上にいる天使と、その手にある赤いリンゴを見ながら言った。

「槙野組が探してるのは、リンゴを描いた子なんでしょうね」

「葉月のあともつけてた。トビタさんは平気?」

「まあ……私のことは、ご心配いただかなくても大丈夫っぽいんですが」

 少し困ったように飛田が紙袋を畳み、ゆらゆらと顔を扇ぐ。空良は壁画の中心にいる、白衣の人物を見た。

「また全部、なかったことにするのかな。ぼくとか葉月や、たぶんサキのことも。四人の男とか、……シノのときみたいに」

「あらっ、……まさかそれ、伊原先生の話ですか?」

 うん、と当然のように肯いた空良は黒いペンを取り出し、白衣の女性の口元に、二つのほくろをくっきりと描き足した。

「ぼくは、四人の男を消した犯人が、あの人だって絵を描いた。そしたらマキノ組って奴らが出てきて、ぼくの絵を消したり、葉月をつけたりしてた。伊原なら、ぼくを知ってる。葉月やサキのことも」

「いや、それは誤解ですよ。小坂さんのことはともかく、空良くんは日頃の行いというか、こんな絵描いちゃったからついでに追っかけられてるようなものですよ。なんなら本人に聞いてみたらどうです」

「……あの人は『死の使い』だから気をつけろって、前にサキが言ってた。本当にシノは消されていなくなった。あの四人を消したついでに」

 白衣の人物を見つめながら、空良が微かに息を荒くする。飛田は少し考えるような顔をすると、心配そうな目をして言った。

「本当にそう思うのなら、伊原先生本人にはっきり文句を言ったらどうですか。それとも伊原先生が恐いですか? まあ恐いですな」

「そういうんじゃないと思うけど、嫌だ」

「空良くんは、悪いのが伊原先生じゃないと嫌なのではないですか?」

 顔を覗き込みながら聞く飛田に、わからない、と空良が首を振る。飛田はジャケットを羽織り、顔のない天使を眺めて思い出したように言った。

「……シノくんが天使、リンゴはサキちゃん、そんなゲームでしたよね?」

「一番青くて、高くて、素晴らしいところに行けたら勝ちなんだ。みんなの勝ちにしようと思ってあそこに行ったけど、そうならなかった」

 抑揚のない空良の声が微かに震えた。飛田が空良の肩にぽんと手を置く。俯いた空良は下を向いたまま言った。 

「一番外に行くってことは、一番高いところだってサキが言ってた」




 病室を抜け出した空良が、伊原病棟の外で花壇を眺めていたとき、サキが歩行訓練用の杖をつきながら近付いてきた。

「ソラくんってハムスターみたい」

 空良が黙って目の前の小花を眺める。周りにどう見えるかはともかく、自分より年下の女の子にわざわざ杖で歩いてこられると、立ち去ることもできない。

 なんでソラくんがハムスターなの、と後ろから追いついてきたシノが、息切れしながらサキに尋ねる。シノはサキと同い年の男子なのに、発育が悪いと言われているサキよりも体が小さい。三歳上のはずの空良も、小柄なせいでサキと同じくらいに見えていた。

 ほとんど喋らない空良と、弟のようなシノに、サキはいつも言いたいことだけを言う。

「あのね、ハムスターはエサをもらわないと死んじゃうのに、食べたくないのをもらうと平気な顔でそれを捨てるんだよ」

 それ普通じゃないの? と弱々しく言うシノに、サキは病衣の胸元を留めたクリップを直しながら得意気に言った。

「わたしは違うよ? 人から食べものをもらったら、嫌なものでもまずいものでも、にっこり笑顔で食べてみせるよ?」

「ヘンなのだったらどうするの?」

「口に入れて、飲み込んだふりして、どこかで吐けばいいの。すごく嫌なことでも、全然違うってわかってることでも、『そうですね』ってにっこりするの。吐き気がしてくるけど、吐いちゃえば平気」

「それ、平気じゃないよ」

 シノが心配そうな声を出す。その横で、食事を取りたがらず、話そうとしない空良に、サキはからかうように言った。

「かわいげがないって思われると、やさしくしてもらえなくなるよ?」


 三号室のサキは、夜になるといつも二号室に来て、シノや飛田と話していた。もらった聖書をいたずらに拾い読みしながら、疑問を口にする。

「アダムとイブは、食べたことのないものを、どうして口にできたんだろう。神様に駄目って言われてるのに」

 いい香りがしたんじゃない? とベッドの上でシノが言った。うーん、とシルクのパジャマにナイトガウンを着た飛田も、ベッドの上で正座して考える。

「食うなよ、絶対に食うなよ、と言われた時点で『食べなくては』と思ったのでなければ、食べるなという神様の言葉より、食べてみたらという蛇の言葉の方に魅力があったということですな。まあ昔から、見るな開けるなと言われれば、余計に見たくなったり開けたくなったりしてエライ目に遭うものです。食べるなと言われたら食べたくなるし、とにかくこれを食べなさいと言われたら、逆になんだか食べるのが嫌になりませんか?」

「わかる」

 思わず声に出して肯く空良に、サキとシノが驚いて顔を見合わせる。あら困ったわ、とドアのそばに立っていた伊原が白い袋を見せ、呆れたような顔をした。

「特別サービスであなた達に持ってきたけど、面倒な話してるみたいね」

 そう言って伊原は、袋からアイスクリームのカップを出して見せた。アイスだー! と喜ぶサキ達に、歯磨きは忘れずにね、と言い添えてカップを配る。表情を固くする空良の前に立った伊原は、アイスクリームの小さなカップとスプーンを見せた。

「食べる食べないは、自分で決めていい」

 緊張の解けない空良が無意識に息を詰める。だが、と伊原は強張ったように握りしめた空良の手を観察しながら言った。

「まずは手を開け。食い物を受け取れんぞ」

 空良が思い出したように自分の手を開く。冷えたカップをその手のひらに置いた伊原は、二つのほくろを引き上げてうっすらと笑った。




 夜になり、自分のアパートに戻った間能は、仕事で一時的に預かっている木箱を眺めてため息をついた。中には古そうな蒸留酒の大瓶が六本入っており、その中にはどうやって入れたのかをあまり考えたくない蛇やサソリ、スズメバチなどの得体の知れない具材と、そのダシが利いた黄色い液体で満たされている。

 どうしてこんなもんを飲もうと思うんだろうな、と液浸標本のような中身を思い出して木箱から顔を背ける。これだけでも十分ぞっとする商品なのに、富仲の話ではさらに危険なモノが仕込まれているらしい。そんな箱が二箱もある。

 普段なら、グロテスクな物にも耐性があり、死体の扱いも平気な小堀に任せる案件だが、今回は小堀が断ったおかげで、間能が商品と一夜をともにすることになった。

 かなわんな、と間能はスマートフォンを手に取り、気を紛らせるのと文句半分で小堀に電話する。そうでなくてもあの怪力の大男は、最近なんとなく落ち着かない感がある。

 お疲れ様です、とスマートフォンからのっそりとした男の声が響いた。よう、と間能は眼鏡に指を添えて探るように尋ねる。

「金魚は元気か」

「あ、金魚は……大丈夫です」

 一瞬動揺したように小堀の声が揺らぐ。間能は口の端を上げてからかうように言った。

「どうした、女ができたなら隠さなくていいぞ? グロい荷物はこっちに置いてるんだし、ついでにデートで着る服の相談くらい乗るぞ?」

「そういうのではないです。……今ちょっと小さい動物がいるんで、間違って商品ダメにしたらマズいと思って」

「そりゃ楽しいな。ウサギだかハムスターだかオカメインコだか知らないが、気をつけてやれよ。小さい生き物は自分の怪我や病気を隠そうとするからな」

 仕方ないな、と間能はうんざりしたように木箱を眺めながら電話を切った。


 はあ、と小堀も携帯電話を閉じると、冷蔵庫から牛乳を出してコップに注ぎ、パックに残った牛乳を直に飲み干してゴミ袋に捨てた。牛乳の入ったコップを持って、水槽のある部屋に戻る。

「サキは変わってる」

 水槽に額をつけて金魚を眺めているサキに、小堀は牛乳の入ったコップを渡して続けた。

「違う生き物みたいだ」

「みんなと同じにできないもん」

 ありがとう、とコップを受け取ったサキが小堀に笑いかける。槙野組が探し回っているこの少女が、ヤク中の人間を嗅ぎ分けては問題の薬を与えていたらしい。

「でも、知らない人が簡単にサキの薬を飲むの?」

「ヘビの言葉は魅力的なの」

 サキが受け取ったコップに口を付ける。ほおずき市で出会った少女は小堀の部屋に居付き、一度だけ頼まれて赤坂に車を出した。自宅らしきアパートから荷物を持ち出した後は、帰ろうとする素振りもない。

 まあいいか、と考えるのをやめた小堀は、水槽にへばり付くサキを横目に、テーブルの上のパンを囓った。転がり込んできたのが子供でなければ良くある話だ。サキが話したいことしか話さないので事情はわからないが、槙野組が探し回っているところにサキを放置すればどうなるかはわかる。それよりはサキの話に興味があった。

「じゃあ、あの絵は? 追っかけられてるのは、あの絵とも関係ある?」

「あれはね、人の子が入ってはいけない特別な場所なの」

 白地に赤い点のある金魚を見つめながら、サキは思い出すように言った。

「巣から落ちた鳥の子が、家族のところへ戻りたがるんだけど、巣はもう空っぽなのを、ネズミとヘビは知ってるの」

「ネズミとヘビもいたのか」

「うん。ネズミは鳥の子のために、偽物の鳥を与えようとしたんだけど、やってきた鷲がネズミを咥えてどこかへ行ってしまったの」

 寝言のような話をサキは真面目な口調で語る。つまりすべてを話す気はないのだ。そんなサキに慣れてきた小堀は黙って続きを聞く。

「そしてヘビは鳥の子のために、巣の中が空っぽなのを教えてあげようとしたんだけど、やってきた四匹のイタチに踏まれて、ヘビは動けなくなってしまいました」

「四匹の?」

 思わず小堀が聞き返す。サキは一瞬にっと笑って歌うように話を続けた。

「一匹は、持ってたリンゴを食べて寝てしまった。残りの三匹も結局は眠ってしまった。ヘビは目を閉じないから、その隙に逃げることができたの」

「それをサキは見てたの?」

「うん。人の子は入れないところだから」

「鳥の子は?」

 咀嚼していたパンを飲み込んで小堀が尋ねる。鳥の子は、とサキは少し考えると、思い出したように言った。

「どっちも、お墓の中じゃないかな?」 



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