第5話:蹂躙
広間の外、建物の出口近くの路地で、リアは空を見上げていた。
月が出ていた。
三日ぶりに見る夜空だった。石造りの建物の間から覗く月は、思ったより明るかった。地下にいる間、こんなに月が綺麗だったとは知らなかった。
感慨に浸っていたいところだったが、建物の中からときどき、何かが壁に激突する音や、誰かが情けない声を上げる音が聞こえてきた。
リアは月を見るのを諦めた。
建物の壁に背をつけ、腕を組んだ。
「……終わるんですかね、あれ」
訊いてみたところで、誰もいなかった。
ネレアは建物の壁面を機械腕で登り、屋根の上に戻って狙撃体勢を取っていた。リアの護衛より、アルヴァンへの支援を優先した結果だった。
正直なところ、待っていなくてもよかった。建物の裏手に回れば非常口らしき扉があったし、鍵の構造も見た瞬間に開けられると判断していた。
だが。
お嬢様は、助けが来るまで待つものだ。そうだよね!
リアは自分にそう言い聞かせた。
建物の中から、また何かが吹っ飛ぶ音がした。
続いて、誰かが叫んだ。「ヴォルクさん! 隠し扉が——」
また何かが激突した。
リアは壁に背をつけたまま、夜空を見上げた。
「……私は終わるまで待ちますわ。オホホホホ」
やはり誰もいなかった。
リアはため息をついた。お嬢様の仮面というのは、一人でいるときが一番疲れる。
広間の中は、だいぶ静かになっていた。
煙はすでに晴れていた。柱が二本、根元から折れていた。長テーブルは原形をとどめていなかった。壁の一部に、人型のくぼみができていた。
床に転がっている人間が、十四人。広間の隅で膝を抱えた二人——最初から逃げようとしていた四人のうちの生き残り——は、アルヴァンの視線が向いた瞬間に同時に気を失っていた。
残るはヴォルクだった。
壊れた隠し扉の前に立ち、振り返るしかなかった。
アルヴァンがゆっくりと近づいてきた。
「……一つ、聞いていいか」
アルヴァンは足を止めた。
「なんだ」
「お、お前、本当に金のために動いているのか!?」
「そうだ」
「なるほど。カルヴェンの依頼料など、たかが知れているだろう」ヴォルクは言った。「お前ほどの使い手なら、もっと実入りのいい仕事が——いや、そういう話じゃない」
ヴォルクは息を整えた。
「今の三倍出す。娘を返して、手を引け」
アルヴァンは、止まった。
動かなかった。
五秒間、動かなかった。
耳元の通信魔道具から、ネレアの声が届いた。
「ご主人様」
「……少し待て」
「少し、というのはどのくらいですか」
「計算している」
「何をですか?」
「カルヴェンの残り報酬と、三倍の差額を」
少し間があった。
「……ご主人様」
「差額がかなりあるぞ」
「ご主人様!」
「前払いはもらってるが、残りの回収はまだで——」
「ご主人様!!」
ネレアの声のトーンが、一段下がった。
アルヴァンは七秒間、沈黙した。
ヴォルクは、この会話を聞いていた。
「……交渉、できそうか?」
「黙れ」アルヴァンは言った。
「おう」
また三秒間、沈黙があった。
アルヴァンはヴォルクを見た。
「答えろ。払えるか、今すぐ」
「今すぐ?」
「その場で確認できる方法で」
ヴォルクは少し考えた。懐から、小型の魔術式決済板を取り出した。この街では一般的な電子決済の端末だった。
「……そんなことたやすいぞ。できる」
「わかった。払え」
「手を引く約束は」
「しない」
ヴォルクは眉をひそめた。「おい、今、何と言った!?」
「金を払えと言った。手を引くとは言っていない」
「それは——」
「払うか、払わないか。俺はそこにしか興味がない」
ヴォルクは三秒間、アルヴァンを見た。
アルヴァンは表情を変えなかった。
ヴォルクは、決済板を操作した。金額を入力した。転送した。
アルヴァンの懐の受信端末が、小さく鳴った。
アルヴァンは端末を確認した。
「受け取った」
「で、約束は」
「そんなものしらん」
ヴォルクは额に手を当てた。「……お前、本当に金のためだけに動いているんだな」
「そうだ」
「筋金入りだ」
アルヴァンは剣を抜いた。
耳元でネレアの声がした。
「ご主人様、先ほどの金額ですが」
「ああ」
「修理代に充てさせていただきます」
「……好きにしろ」
「ありがとうございます!」
ヴォルクは決済板を懐に戻しながら言った。「メイドにも金を取られているのか」
「修理代だ」
「大変だな」
「うるさい」
ヴォルクは決済板を懐に戻した。
アルヴァンは剣を抜いた。
ヴォルクは、深く息を吸った。
ヴォルクは、強かった。
二十年君臨しただけのことはあった。魔術の練度が高く、広間の空間を巧みに使い、アルヴァンの踏み込みを三度弾き返した。
三度、だった。
だが、四度目は、弾き返せなかった。
アルヴァンの剣がヴォルクの杖を弾いた。杖が床を滑った。
ヴォルクは素手で構えた。
アルヴァンは剣を鞘に収めた。
「……何のつもりだ!?」ヴォルクは言った。
「素手の相手に剣は使わない」
「今更、情けをかけるのか」
「美学だ」
「金のためだけに動く男が今さら美学を語るのか?」
「金と美学は別だ」
ヴォルクは何か言おうとして、やめた。
踏み込んだ。
重い拳だった。二十年の経験が込められた一点の迷いもない踏み込みだった。
アルヴァンの体が、わずかに傾いた。拳が空を切った。
返す動作で、アルヴァンの掌底がヴォルクの顎を打った。
ヴォルクは、きれいに、後ろへ倒れた。
広間が静かになった。
アルヴァンはヴォルクを見下ろした。
気を失っていた。
耳元でネレアの声がした。
「終わりましたか?」
「ああ」
「本日もお疲れ様でした」




