第6話:ティータイム
建物の外、路地でリアは待っていた。
扉が開いた。
アルヴァンが出てきた。外套の端が少し焦げていた。それ以外は、特に変わったところがなかった。
「終わりましたか!?」
「ああ」
「お怪我は?」
「しない」
「……そうですか」リアは少し間を置いた。「ご無事で何よりです」
外壁から、ネレアが降りてきた。音もなく着地した。左上の腕の付け根に、布を巻いた応急処置の跡があった。
「お待たせしました」
「腕、大丈夫ですか」リアは言った。
「おかげさまで修理代の目処が立ちました」
「……よかったです」
アルヴァンは無言で歩き始めた。三人は旧倉庫街を出た。
霧の中を歩きながら、リアはふと思い出した。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「建物の中で、壁に人型のくぼみができていたんですが……」
「当たった跡だ」
「な、何が当たったんですか?」
「人間だな」
リアは少し間を置いた。
「……聞かなければよかったです」
「そうしてくれ」
ネレアが口を挟んだ。「詳細はお父様にもご報告しない方がよろしいかと」
「そうします」
「賢明です」
カルヴェン邸の門が見えてきたとき、中から人が飛び出してきた。
エドワードだった。隈の深い目を更に充血させ、上着も着ずに走ってきた。
「リア!」
「お父様」
エドワードはリアを抱きしめた。三日分の何かが、その背中に出ていた。
エドワードはリアを離し、目を拭った。娘の顔をしばらく見た。それから、声を潜めた。
「……相手方に、何か、していないか」
リアは一拍置いた。
「お父様、失礼ですわ。オホホホホ」
エドワードは深く息を吐いた。
心労の種類の正体がわかった。「娘が心配」から「娘のせいで賠償が発生しないか心配」へ、すっと移行したの誰にもわかった瞬間だった。
アルヴァンは無言でその様子を見ていた。
「……ネレア」
「はい」
「父親とはそういうものだと言っていたな」
「はい、申し上げました」
「そういうものか」
「……まあ、色々と、そういうものでございます」
エドワードはアルヴァンへ向き直った。
「グレイ殿、本当に——ありがとうございました」
「依頼をこなしただけだ」アルヴァンは言った。「残りの報酬を——」
「ご主人様」
「今だ」
エドワードは苦笑いしながら決済板を取り出した。端末が鳴った。
「受け取った。依頼完了だ」
「……また何かあれば」エドワードは言った。
「いつでも」アルヴァンは言った。「前払いで」
「……はい」
踵を返し、二人は歩き始めた。
リアはその背中を見ていた。二人の間に言葉はなかった。ただ並んで、霧の中へ溶けていくように歩いていた。
この二人の間にあるものを、言葉にするのは野暮な気がした。
エドワードが隣で小さく言った。
「腕は確かだが……次に頼むかどうかは、少し迷うな」
「ですよね、迷いますよね」リアは言った。
霧の中で、ガス灯の光が揺れていた。
二人は霧の中を歩いていた。
アルヴァンは歩きながら、腕輪を左手首に戻した。
かちり、と音がした。
神気が、静かに抑制された。
ネレアは隣を歩いていた。左上の機械腕の付け根に巻いた布が、ガス灯の光を反射していた。
「明細を」アルヴァンは言った。
「今ですか」
「気になる」
ネレアは歩きながら、内部のデータを参照した。
「カルヴェン依頼の後払い分、ヴォルクからの回収分、危険手当相当額を合算した結果です」
金額を告げた。
アルヴァンは少し間を置いた。
「悪くない夜だった」
「私の外装が破損しましたが」
「修理代込みで言えば悪くない」
「そうですね」ネレアは言った。「まあ」
二人はそのまま、しばらく無言で歩いた。
霧の中で、ガス灯が一つ消えていた。古い街だった。あちこちがくたびれていた。それでも、石畳の上に月明かりが落ちていた。
人気のない広場に差し掛かったところで、ネレアが足を止めた。
アルヴァンも止まった。
ネレアは四本の機械腕のうち、右下の腕を展開した。腕の先端が変形し、小型の加熱機構が現れた。懐から取り出した水筒の水を注ぎ、温度を正確に管理しながら湯を沸かし始めた。
アルヴァンはそれを見ていた。
「ここでか」
「よい月ですので」
反論する理由がなかった。
アルヴァンは広場の縁の石段に腰を下ろした。
ネレアは残りの三本の機械腕を使いながら、手際よく準備を進めた。左上の腕が破損しているため、いつもより動作に少し無駄があったが、結果は変わらなかった。二分後、白いカップに琥珀色の液体が注がれた。
アルヴァンへ差し出した。
「どうぞ」
受け取った。
一口飲んだ。
何も言わなかった。
それで十分だった。
月が、広場の中央に落ちていた。
霧越しの月だったが、それでも明るかった。石畳を銀色に染め、二人の輪郭を縁取っていた。
アルヴァンはカップを持ったまま、月を見ていた。
ネレアは隣に立ち、広場を見ていた。
しばらく、何もなかった。
風もなく、声もなく、足音もなかった。街の底で、二人だけの時間があった。
「ネレア」
「はい」
「腕は大丈夫か?」
「支障ございません」ネレアは言った。「明日、ぶん取った慰謝料で部品を調達すれば二日で修復できます」
「そうか」
また沈黙があった。
「ご主人様」
「なんだ」
「今夜、少し無茶をされました」
「どこがだ」
「腕輪を外してからの、制御の放棄です」
アルヴァンは少し間を置いた。
「あれは必要だった」
「存じております。十六人とヴォルクの相手には必要でした」ネレアは言った。「ただ、あの状態のご主人様の隣に立てるのは私だけです。私が機能していなければ、誰も止められません」
「止めなくていい」
「止めるかどうかは私が判断します」
アルヴァンはカップを見た。
「……そうだな」
ネレアは何も言わなかった。
否定しなかった。それで十分だった。
紅茶が半分になった頃、アルヴァンが言った。
「次の依頼だが」
「はい」
「カルヴェンから追加依頼が来る可能性がある」
「どうでしょうか」ネレアは言った。「エドワード様は依頼完了後、少し遠い目をされていました」
「遠い目?」
「腕は立つが、また頼むかどうかは迷う、という種類の表情でした」
アルヴァンは少し考えた。
「心当たりがない」
「報酬回収の件や、娘様への発言や、壁の人型くぼみの件や——」
「仕事はきっちりしたぞ! なぜ迷う必要がある?」
「たしかに依頼は完璧にこなしていただきました」ネレアは言った。「ただ依頼人というのは、仕事の質以外の部分も評価するものでございます」
「非効率なことだ」
「人間とはそういうものです」
アルヴァンはカップの残りを飲んだ。
「まあ、前払いさえもらえれば」
「そうですね」ネレアは言った。「前払いさえいただければ」
二人は同時に同じ結論に至った。
それ以上の話はなかった。
カップが空になった。
ネレアはカップを受け取り、乾いた布で丁寧に拭いた。収納した。
「帰りましょう」
「ああ」
「帰ったら、銃身の整備をします」
「いやお前の左腕の修理が先だろう」
「整備しながらできます」
「くれぐれも無理をするな」
「無理ではございません」ネレアは言った。「ただ、ご主人様に手伝っていただければ早く終わります」
アルヴァンは立ち上がった。
「整備の手伝いくらいはできる」
「ありがとうございます」
二人は歩き始めた。
霧の中で、月明かりが石畳を照らしていた。ガス灯の光と混ざり、街の輪郭が滲んでいた。
アルヴァンは歩きながら、今夜のことを特に振り返らなかった。仕事をした。報酬を得た。ネレアが傷ついた。それだけだった。
それだけで、十分だった。
ネレアは隣を歩きながら、左上の腕の付け根の違和感を処理し続けていた。軽微な機能低下、修復までの推定時間、必要部品のリスト。それらを並行して管理しながら、同時に、隣を歩く人間の歩幅に合わせて歩いていた。
長年、そうしてきた。
これからも、そうするだけだった。
霧の向こうに、二人の背中が消えていった。
月だけが、広場に残っていた。
石畳の上に、白いカップの跡が一つ。
それだけが、今夜ここに二人がいた証だった。
了
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