第3話:救出
リア・カルヴェンは、地下の一室で、鉄格子と格闘していた。
三日目にしてようやく気づいたのだが、この格子、思ったより頑丈ではなかった。蝶番の部分が経年劣化で緩んでおり、力をかければ——
ぎ、と音がした。
格子が、外れた。
リアは格子を持ったまま、固まった。
数秒後、我に返った。
「あら。……なんて安物の格子ですの」
誰もいなかった。
「ま、まったく、こんなものがすぐ外れてしまうなんて。嘆かわしいですわ、オホホホホ、ホホホ、ホホ……」
やはり誰もいなかった。
リアは慌てて格子を元の位置に戻した。蝶番がうまく嵌まらなかった。傾いていた。かなり傾いていた。押した。引いた。直らなかった。
諦めて寝台に座った。
問題は、これが今日で三回目だということだった。
一日目は扉の蝶番を外してしまい、二日目は見張りの持っていた鍵を曲げてしまい、今日は格子ごと外れた。そのたびに誤魔化して元に戻していたが、そろそろ限界だった。というか見張りたちが最近こちらを見る目がおかしい。
落ち着いて考えると、脱走しない理由はいくらでもあるのだわ。父が依頼した人間がもう向かっているかもしれない。その人の出番を奪っちゃ悪いじゃない。あと、外の構造がわからない。地下からの経路も不明だし、ね。
そう、だから外さなかったのだ。最初からそのつもりだったのだ。そうだ、そうなのだ!
リアは自分にそう言い聞かせた。三回目にして、ようやく少し信じられてきた気がした。
聞き耳を立てると、遠くで何かが盛大に吹っ飛ぶ音がした。続いて、別の何かが壁に激突する音。それからしばらくして、廊下の奥で誰かが情けない声を上げた。
随分と派手な来方をするわね。父はいったいどんな人を雇ったのかしら。
足音が近づいてきた。
リアは寝台の上で姿勢を正した。囚われの娘らしく、毅然と、しかし儚げに——
扉の向こうに、人が現れた。
リアは、その人物を見た瞬間、儚げな表情を維持することを諦めた。
男だった。年齢は二十代前半ほど。整った顔立ちで、黒い外套を着ていた。見た目は普通だった。普通だったのだが——
空気が、重かった。
呼吸が、うまくできなかった。心臓が、本能的に警告を発していた。この存在に近づいてはいけない、という、理屈より先に来る感覚だった。
男はリアを見た。次に、格子を見た。
蝶番が外れかけていた。格子全体が盛大に傾いており、鍵はかかっているが扉としての体裁をかろうじて保っている、という状態だった。周囲の壁をよく見ると、蝶番の跡が三箇所ほど、微妙にずれていた。
リアは、さっと視線を天井に向けた。
男は格子を見た。壁を見た。リアを見た。
リアは口笛を吹こうとして、吹けなかった。かわりに小さく咳払いをした。
「……古い建物ですね」
「そうだな」
「湿気で傷むんでしょうか。嘆かわしいことです、オホホホホ」
「なぜ三回外したのか」
リアの「オホホホホ」が途中で止まった。
「……一回です」
「壁の跡が三箇所ある」
「……」
「まあいい」
男はそれ以上追及しなかった。鍵を何かで壊し、扉を開けた。開ける際に、格子が傾いたままぐらりと動いた。
「カルヴェンの娘か」
「リアです」リアは言った。「助けに来てくれたんですか」
「依頼だ」
「……依頼」
「金をもらって動いている」
リアは少し間を置いて手をポンと打った。
「そういう方なんですね!」
「そういう男だ」
アルヴァンは踵を返した。リアは立ち上がり、後ろについた。三歩進んで、振り返り、傾いた格子扉をもう一度見た。
少し、気になった。
でも今は関係ない。
前を向いた。
廊下を進んでいると、奥から足音が来た。
一人だった。
現れたのは、若い男だった。年齢はリアとそう変わらない。上等な服を着ており、髪を整え、顔立ちは悪くなかったが、今は顔が真っ赤だった。息が上がっていた。走ってきたらしかった。
男はリアを見た。
「リア!よかった、無事だったんだね!」
リアの眉が、ぴくりと動いた。
「……ヴォルクさんの息子さん、ですよね」
「そう!父上に頼んで、君をここへ——だって君に会いたくて——あの夜、一目見た瞬間に——」
「攫わせたんですよね?」
「そ、それは言い方が——!」男はアルヴァンに気づいた。「誰だ、お前は! 俺のリアに何をするつもりだ!彼女は俺の——」
アルヴァンの視線が、男に移った。
男の言葉が、途切れた。
それまで感じたことのない重さが、廊下に満ちた。呼吸が、できなかった。視界が、歪んだ。足が、動かなかった。
「あ……」
男はその場にゆっくりと崩れ落ちた。気を失っていた。
アルヴァンは視線を前に戻した。
リアは倒れた男を見下ろした。
「……一目惚れしたなら、もう少しまともな手段を選べばよかったのに」
アルヴァンは特に何も言わなかった。
「ご愁傷さまです」リアは言った。「自業自得ですが」
廊下の奥から、足音が増えた。
「若様に何をした! 全員来い!」
どたどたと複数の足音が近づいてくる。
アルヴァンはリアを壁際に寄せた。
「目を閉じていろ」
「……えー、見ててもいいですか?」
「駄目だ」
「ね、少しだけ」
「駄目だ」
リアは少し不満そうだったが、壁に背をつけて目を閉じた。
アルヴァンは廊下の中央に立ち、左手首の腕輪を右手でつかんだ。
指が、金属の縁にかかった。
外した。
音はなかった。ただ、廊下の空気が変わった。温度が下がったような感覚があった。実際には逆で、アルヴァンを中心として神気の密度が急激に高まっていた。
廊下の奥から現れた男たちが、曲がり角で止まった。
先頭の男が、絞り出すような声で言った。
「……さっきと、全然違う」
二番目の男が言った。「アニキ、逃げていいですか?」
「……何を言ってるんだ、俺が先に逃げるぞ」先頭の男が言った。「給料なんて関係ない、命あってこそだ」
足音が、遠ざかった。
リアは目を閉じたまま言った。
「……逃げましたね」
「ああ」
「賢い判断だと思います」
「そうだな」
アルヴァンは腕輪を左手首に戻した。リアが目を開けた。
「行くぞ」
「あの」
「なんだ?」
「これだけ強いなら、もう少し早く来てくれてよかったんですけど」
アルヴァンは少し間を置いた。
「そもそも格子は自分で外せただろう」
リアは黙った。
「それなのに外から来る人間を待っていた理由は」
「……お嬢様というのは、助けを待つものですので!!!」
アルヴァンは少し間を置いた。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
リアは内心で盛大に安堵した。
アルヴァンは歩き始めた。
地上への階段を上がると、廊下にまだ人の気配があった。
曲がり角の先から五人が飛び出してきた。全員が武器を構えていた。
「ヴォルク組を舐めるな! ここは通さん!」
そのとき、廊下の窓から、何かが降ってきた。
ネレアだった。
外壁を四本の機械腕で降り、窓枠を蹴って廊下に着地した。メイド服のまま、埃一つつけていなかった。
五人がネレアを見た。
四本の機械腕が、完全展開した。
「……なんだあれ」
「知らん」
「メイドじゃないのか」
「メイドだろ見た目は」
「だけど腕が四本ある」
「見たらわかる」
ネレアは五人に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「お騒がせしております。通していただけますか」
五人は顔を見合わせた。
次の瞬間……逃げた。
リアはその様子を見ていた。
「……あの方、味方ですよね」
「そうだ」アルヴァンは言った。
「よかった」
ネレアはリアに向き直った。「リア・カルヴェン様ですね。ご無事で何よりです。エドワード様がご心配されておりました」
「あ、はい……ありがとうございます。えっと」
「ネレアと申します。ご主人様のメイドです」
「メイドさん……その腕は」
「業務上の必要から装備しております」
「業務って何の業務ですか」
「メイドの業務です」
リアはアルヴァンを見た。アルヴァンは特に何も言わなかった。
「……色々と、普通じゃないんですね」リアは言った。
「ご主人様は普通ではございません」ネレアは即座に言った。「私も普通ではございません。ただ、依頼は果たします」
「それで十分です」リアは言った。「たぶん」




