8話
【第8話:至高の茶器、光を招く】
「レン。覚えていますか。あの方が魂を込めて直した、あの急須を」
天使が放つ圧倒的な光の中で、ミズキが静かに問いかけた。
レンは懐から、あの布に包まれた『急須』を取り出す。魔王を討つ武器でも、世界を滅ぼす禁具でもない。ただ、職人ゲルマンがその矜持を賭けて磨き上げた、至高の茶器。
「ん。覚えてるよ。ミズキ。まさかこの急須ってそのための?」
「ええ。この子は、行き場を失って迷子になっているだけですから。私たちの日常の中に、そっと招き入れてあげましょう」
ミズキが急須の蓋を、凛とした所作で開けた。
その瞬間、王都全土を覆っていた絶望的な輝きが、意志を持った水流のように、吸い込まれるように急須の中へと注ぎ込まれ始めた。
それは「封印」というような、苦しいものではなかった。
あまりに精緻に、あまりに美しく整えられたその内側は、天使にとっても、この世界で最も居心地の良い「家」だったのだ。
「あ。光が、全部、入っていく」
レンがおっとりと急須を掲げる。
まばゆい天使のシルエットが、柔らかな光の筋となって、コトン……と音を立てて急須の底に収まった。
その瞬間、方舟は地を震わせゆっくりと始動する。刹那——光を纏い、自転を始める一つの惑星のように、その巨体を静かに巡らせた。
傾く陽光を満身に映し、巨大な地塊のごとく雲海を割り進む。白銀の航跡を残し、青と金の境界線へと融けていくように、それは静かに消え去った。
(————アミ—ゴ〜)
「よし。ん?今、なんか聞こえたけど、気のせいか?……これでおもてなし、完了だね」
『ぬ。あの膨大な質量の塊が、この小さな器に収まるとは。主よ、その急須、後で時価を査定させて……』
「……オグリ。それは、ダメだよ」
広場には、再び王都の穏やかな風が吹き抜けた。
ルカもスージーも、そして最強のマスターも、呆然としながらも、その「おもてなし」による解決に、不思議と心が温まるのを感じていた。
「さて、レン。帰りましょうか。この急須で淹れる、最初の一杯が楽しみですね」
悪戯を成功させた少女のような笑みを浮かべ、ミズキは唇を綻ばせるのだった。
【幕間:崩壊する常識、あるいは新しい日常】
————
方舟が王都上空に飛来し、そして静かに「消滅」してから数日が経過した。
通常なら復興と警戒に追われるはずの王都。だが、アイギス城の円卓会議室に集まった重鎮たちの顔は、かつてないほどに引き攣っていた。
「報告しろ。もう一度だ。私の耳が腐っていなければ、今、とんでもない言葉が聞こえた気がする」
騎士団長ゼルドが、震える手でこめかみを押さえる。
報告に立った若き参謀エリアスも、自身の正気を疑うような顔で書面を読み上げた。
「はっ。まず、復活が懸念されていた『魔王』についてですが。現在、王都一のお洒落カフェ『月溜まり』にて、新作のベリーベリーパンケーキを堪能している姿が目撃されています。危害を加える様子は一切なく、むしろ店員のスージー嬢に『お芋のタルトも追加で』と、注文していたとのことです」
「魔王が、……パンケーキを?」
「続きまして……。先代の勇者と竜王の血を引き、歴史の闇に消えたはずの『最強の血統』の末裔が、同店にて調理を担当。日々、神速の包丁捌きで『至高のポテトフライ』を量産しております。……さらに、人間を極端に嫌っていたはずのハーフエルフ、スージー嬢が、人間相手に満面の笑みでお代わりを勧めているという、極めて異常な事態に……」
会議室に絶望的な沈黙が流れる。
「仕組まれた陰謀」というにはあまりに平和で、「平和」というにはあまりに世界のパワーバランスが崩壊している。
「大臣、これは……。我々はどう対処すべきでしょうか」
「知るか! 魔王と勇者が同じ屋根の下で芋を食っているのだぞ! 兵を向かわせろと? 死にたい奴から行け! 私には無理だ!」
重鎮たちが頭を抱える中、窓際のイゾルデが「くっくっく」と肩を揺らして笑った。
「いいじゃないか。あの子にとっては、世界を統べるのも、急須で茶を淹れるのも、等しく『日常』なんだよ。あんたたちの物差しが折れた音、ここまで聞こえてくるよ」
シオンもまた、静かに微笑んでいる。
王城の会議室がどれほど揺れようとも、王都の空は今日も青く、どこからかハーブの香りが漂ってくる。
常識が死に、新しい理が芽吹いた街。
そこでは、かつての魔王も、封印の触媒も、最強の血筋も。
ただの「お茶仲間」として、今日という日を慈しんでいた。
【エピローグ:ハーブの香りと、まさかの予感】
「ん。ミズキ。スージー、もうすぐ来るかな」
「ええ、もうそこまで足音が聞こえていますよ。さあ、準備は整いました」
隠れ家の縁側。レンとミズキが並んでお茶を待っていると、坂道の下から「おーい!」と元気な声が響いた。
駆け寄ってきたのは、いつものエプロン姿ではなく、お洒落な私服に身を包んだスージーだ。
「お待たせ! レンくん、ミズキさん! やっと遊びに来れたわ!」
「スージー。いらっしゃい。待ってたよ」
レンがにっこりと微笑み、スージーを特等席へ招き入れる。ミズキが流れるような所作で、とっておきの三種のブレンドハーブティーを急須から注いだ。
「わあー! 何これ、今までのお店のお茶よりずっと美味しい! ねえ、それにしても。」
スージーがティーカップを置き、まじまじとミズキの顔を覗き込んだ。
「ミズキさんって、やっぱり、すっごく綺麗な女の子だったのね! 街ではずっと『謎の美青年』だと思われてたのに、こんなに可愛いなんてズルいわ!」
ミズキは少しだけ頬を染めて、いたずらっぽく笑った。
「ふふ。植物とばかりお喋りしていたら、自分を飾るのを忘れていただけですよ」
「もう! レンくんも、こんな素敵なひとと二人きりで暮らしてるなんて、毎日ドキドキしちゃうでしょ?」
「え。ミズキは、ミズキだよ。ボクにとっては、大切で、大好きだけど」
レンがいつも通り、おっとりした口調で、でも真っ直ぐに答える。その迷いのない言葉に、スージーは「あはは、ごちそうさま!」と掌を合わせて笑い飛ばした。
「でも、不思議よね……。ミズキさんが女の子だったり、マスターが凄腕だったり。この世界って、意外な正体が隠れてることばっかり!」
スージーは、お茶を飲み干すと、ふと思いついたようにレンの顔をじーっと見つめた。
「ねえ、レンくん。レンくんは物凄くわるーい魔王さま?」
「え。ボク? んー、ボクは、ボクだけど?」
レンは小首を傾げ、隣に座るミズキと視線を合わせた。
二人の間だけで通じ合う、温かくて、少しだけ特別な沈黙。
「じゃあレンくんは……悪いこと(仕事)をしない魔王さまだから、格だけ魔王なのかな……ふふっ」
スージーが笑いながら、焼き立てのジャガイモに手を伸ばす。
「ん。ボクは、お芋が大好きな、レンだよ」
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夕暮れが隠れ家を優しく包み込み、ハーブの香りが穏やかに流れていく。
正体が何であれ、運命がどうあれ。
今日、この一杯のお茶を一緒に楽しめる。それだけで、もう十分すぎるほど幸せな1日。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
レンの物語はここまでとなりますが、もう1話だけあるのでお付き合い下さい。
そして、それをもって最終話とさせていただきます。




